第23話 写真
約束の時間まであと30分。結局、ミサが仕事を終えたのは、7時前だった。
(うわー、時間がない〜)
ミサは小走りでいつもの道を急いだ。はぁはぁと息が切れる程走ったので、アパートの階段の前ではとうとう一休みをしなければならなかった。
外は随分あたたかく、走ったせいかミサの顔は真っ赤になり、汗が額に浮かんでいる。やっと部屋にたどり着き、鏡の前に立ったミサは思わず噴出した。
目の前には真っ赤な顔をした自分。はぁはぁと息をきらし髪は乱れてすごい形相で立っている。
(やだ、必死じゃない。私……)
先生との初めてのデート。改めてそう思ったミサはドキドキが納まらなくなった。
約束の電信柱。そう、仲原の歓迎会の時に待ち合わせをした場所。つい最近まで、自分とは無縁に思えた彼と待ち合わせをしている。そして、あの時とは違い、仲原が来るのを心待ちにしている自分がそこにいた。
狭い抜け道でも、この時間帯は車が行き交う。ヘッドライトのせいで運転席は見えないが、誰か職場の人にみつかりそうで、ミサは通りには背を向けて立った。仲原と会っているところを、山中なんかに見られたら、噂の種になるのは間違いない。
後ろから足音がして、電信柱と一体化しているミサの肩をポンッと叩いた。
「ごめん。待った?」
仲原だった。彼は、病院の帰りらしく大きなかばんを持っている。彼もまた慌ててやってきたのか少し呼吸が乱れている。
「先生、病院の帰りですか?」
「そう。ちょっと家に寄りたいんだけど、いい?」
「え?」
ミサがすっとんきょうな声をあげると、仲原は笑って言った。
「あー、このかばん置きにいくだけ」
仲原は大きなかばんを指さしてそう言った。そして、ミサの顔をのぞきこみ「何考えてんの?」とにやっと笑った。
「ち、違いま……」
ミサは仲原の肩をバンッと思い切り叩いた。
「痛ぇ〜!」
仲原はお返しにミサの髪の毛をくしゃくしゃっとした。
それまで、緊張していたミサだったが、自然と打ち解けていった。
仲原が歩を進めると、ミサは横に並んで歩いた。途中、何度か昼間の件について話そうと思ったが、雰囲気が悪くなるような気がして、口をつぐんだ。
歩いて3分ほど、少し古びたアパートの前で仲原は立ち止まった。1階にある彼の部屋の前まで行くと、「入って」とミサを先に通した。
玄関は殺風景で、1足置かれている大きなスニーカーが男の人の部屋らしい。玄関からすぐの部屋は、部屋全体が、本と資料の山で、湿っぽく埃の臭いがした。部屋にはパイプのベットと、パソコン、パソコンラックの上にも雑然と本や資料が置かれている。医局で見た彼の机と同じだ。
仲原が着替えている間、ミサはきょろきょろと辺りを見回した。
(掃除しなきゃ、この部屋)
ミサは主婦目線で部屋を眺めていると、写真立てに入った一枚の写真が目に映った。それは、部屋の隅にある小机の上に飾られている。そこだけは綺麗に片付けられていて、彼の大事な人なんだろうという事は予想がついた。
可愛らしい少女の写真。真っ白い顔に、引き込まれるような黒い瞳。あどけない表情で写っている。部屋とは不釣合いなこの写真に、一種異様な感じを受けた。
仲原はスーツからジーパンに着替え、脱衣場から出てくると、写真の方を見ているミサに気がついた。
「あ、ごめんなさい」
仲原の視線を感じ、ミサはとっさに謝った。何で謝ったのかは分からない。ただ、何か触れてはいけない物のように感じた。
「これ、妹」
仲原は何でもないという仕草をして、写真立てを伏せた。
「さ、行こうか」
仲原の声に頷いたミサは、伏せられた写真を想いながら部屋を出た。
いつまでも妹の写真を持ち歩いている兄なんて、多分いない。きっと、写真の少女は亡くなったのかも、等と考えながら。
「先生」
「ん?」
妹さんって? という言葉が口元まで出かかっていたが、無理に聞く話でもないと思ったミサは「どこ行くんですか?」と、とっさに質問を変えた。
「あー。決めてない。どうしようかなぁ」
「え? じゃ、先生どこに向かって歩いてるの?」
「さぁ」
行き先も決めずただ歩いている仲原を、ふふっとミサは笑った。
「私、知ってる店があります。一度、福永さんに連れていってもらったから。ここから近いですよ」
「じゃぁ、そこにしよう」
仲原がほっとした表情をしたので、ミサは益々笑いをこらえられなくなった。
「あはははは」
「って何だよ!」
仲原はミサの肩に腕をまわし、もう1つの腕で髪をくしゃくしゃっとした。
「また、くしゃくしゃにするー!」
「ははっ」
おどけて走っていく仲原をミサは追いかけた。
「先生! そこ右」
先を走る仲原にミサが大声で叫ぶ。
立ち止まった彼はミサが追いつくまで待った。
ミサがようやく追いついたあと「遅っいの」と、半分からかった口調で言って「先生って呼ぶのやめてくれないか」とミサの方を見た。
「じゃぁ、なんて呼んだらいいんですか?」
「敬語もなぁ……」
ミサは首をかしげて仲原の名前を思い出した。
「あ、わかった。孝也さん」
「んん、なんだかなぁ」
「タカちゃん」
「ええっ?」
「じゃぁ、先生は何て呼ぶんですか? 私の事」
「おかめ」
「もう〜〜〜!」
そうこうしているうちに、店に着いた。居酒屋といった感じだ。紺色の暖簾には「魚清」と白い文字で書かれてあった。
「渋い店だなー」
仲原の言った通り、店内は1人で飲みに来ている男性客が圧倒的に多く、ちびちびと酒を飲んでいる姿がみられた。
(違う店にしたら良かったかな?)
少し後悔したミサだったが、「ここの魚料理美味しいんだよ」と自分にも言い聞かせるように言った。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
「2人です」
「今日は団体の予約があって、カウンターしか空いてないんですがよろしいですか?」
案内してくれた子は、バイトらしく、忙しそうにカウンターを片付け2人に座るように促した。
「とりあえず生中2つ」
「生中ふたつ〜」
威勢のいい声が飛び交う。店内はざわざわと騒々しく、時々男たちの馬鹿笑いが座敷から聞こえてくる。団体の客なのだろう。入れ替わり立ち代り座敷からトイレに行く者、注文をしに来る者の姿が見られた。少々、落ち着かない気もしたが、反対にしーんと静まり返った店だったらミサは緊張してしまうだろう。
綺麗な仲原の横顔を眺めながら、ミサは、本当に仲原のことが好きになっていく事を実感した。ごつごつとした長い指、こちらを覗き込む涼しい目、病院ではみられない彼のいたずらっぽい表情。時間よ止まれ! とはこの事なんだなぁ、とミサは1人頷いた。
「何、頷いてんの? お前、変わってるな」
「変わってなんかないです」
「天然! この魚と一緒で」
「あはは、先生。今、自分でも上手い事言ったと思ってるんでしょー。ださださだよー」
「なに〜」
仲原がミサの頭をぽんっと押したので、バランスを崩したミサの手が、隣のおじさんの陣地に入ってしまった。一瞬、おじさんはミサをきっと睨んだが、何事も無かったようにちびちびと飲み直した。
「あ、すいません」
謝るミサに、横で仲原はくくくくっと、また笑いを押し殺した。
「いらっしゃい」
また、客が来たようだ。魚が美味しい事で知られているこの店の中は活気で満ちている。客が来て、帰る、入り口の戸は開いたりしまったりと大忙しだ。
ミサが入り口の方をちらりと見ると、どこかで見たような2人の男が入ってきた。
「あ!」
とっさにミサは肩をすぼめて、頭を下げ、顔を隠した。
「今度は、何やってんの?」
「げ、げ、げげ」
「げ?」
入ってきた2人の男は外科の医者だ。病院帰りのようで、スーツを着ている。仲原もようやく気がついた。
「で、何でそんなに驚いてんの?」
「だって」
「いいじゃん、付き合ってるの知られたって。不倫してるわけでもないし、今時、職場恋愛禁止ってわけでもないだろ」
仲原が言った「付き合ってる」の言葉がミサの頭の中をぐるぐると回った。私達、付き合ってるんだ。言葉にして聞くと、何かもの凄い事のような気がして舞い上がった。
しかし、病院の近くにあるこの店。何も考えずに来てしまったが、4病棟の誰かにでも見られたら、と思うと気が気でならなかった。仲原と付き合っている事がわかれば、山中や恵にからかわれそうだし、ましてや亜里沙にいじめられかねない。
そう思った途端だった。
「いらっしゃい〜」
また、威勢の良い声が上がった。少しソワソワしながらも、半分だけ入り口の方に顔をやり、伏目がちに横からチラリと見た。
(こんなことって……)




