第12話 最悪の…
「……ちゃん、たすけて……」
はっ…
また、悪夢を見ていた。
携帯の音で起こされた仲原は、何日も干していない布団をはねのけると、台所に行って、コップに勢いよく水を注ぎこんだ。
ゴクゴクゴク…
掃除されていない部屋はカビ臭く、物が散乱している。
ふと、携帯の着信履歴を見た仲原だったが、恭子と表示されたその文字が、彼をどんどん憂鬱にさせた。
「ちくしょー!」
ボサボサの頭を掻き、何もかも忘れたい、そんな感じで頭を振った。彼の視線はベッドの脇にある、一枚の写真に向けられる。
真っ白い肌、血の気のない頬、長い髪を左右に結んだ、少女の写真。
「ごめん……」
仲原はそっと写真立てを伏せた。
2月14日、バレンタインデー
とうとうやって来たか……ミサは、憂鬱な面持ちで病院へ向かった。今日は日勤。例のチョコレート配りが待っている。
ミサがロッカールームで白衣に着替えていると、福永がやってきた。
「おっはよー!」
相変わらず陽気な福永は、1つ2つ冗談を言っていたが、ミサが元気が無いのに気付き、首をかしげた。
「どうしたん? 何、何?」
「福永さーん」
ミサはそう言って、甘えた表情で福永の方をみた。
「また、何かあったの? ん? パンチ? 亜里沙?」
福永は急にヒソヒソ声になって返した。真剣に心配している様だが、どうも的をはずれている。
「違いますって。チョコレート……」
「ええ〜〜〜!」
福永は勝手に驚いて、大きな声をあげた。周囲で着替えていた人が一斉に2人の方を見る。ミサは真っ赤になりながら、福永の口を手でふさいで言った。
「まだ、何も言ってませんってばー」
「ふがふが……って、苦しいわ! え? チョコレート忘れて来たんじゃないの?」
「チョコレートは休憩室に置いてあるんですけども、ね、福永さん。一緒に配ってくれませんか?」
「まった甘える〜! そ、れ、は、新人の仕事でしょ!」
福永はさっさと着替え終えると、わざと小走りに去って行った。
「待ってー!」
ミサは福永の後を続いた。
ナースステーションでは、朝の申し送りが始まっていた。深夜勤だった、角野亜里沙はベテランらしく、ポイントをついている。ただ、たまに吐く毒舌が、周囲を固まらせた。非の打ち様のない容姿から、繰り出す毒舌は、何ともいえない威圧感を持っていた。
「…以上です。まぁ、今日は落ち着いてたかな」
あっという間に申し送りを終え、スタッフは雑談を始めていた。
「亜里沙ちゃん、今日はどうすんの?」
噂好きの山中だ。もちろん、バレンタインデーのことを聞いている。
「うん、な・い・しょ!」
「内緒って〜」
「そういう山中さんはどうなんですか?」
「何にもある訳無いじゃない。そう言えば、先生達のチョコレート用意してあるの?」
一斉に視線がミサの方に集中した。
「ハイ……」
「先生たち捕まえるの大変よー! 病棟の代表として、きちんと手渡ししてね」
亜里沙は意地悪そうな笑みを浮かべて、ミサの方を見た。
「あ、そうそう、去年は、先生が見つからなくて、準夜までかかってたよね。」
「えー、そんなぁ。本当ですか?」
「本当!」
一同、声をそろえて答えた。まるで、ミサをからかうように。
(絶対、からかって楽しんでんだから)
「そうだ。高津先生と仲原先生に渡す時に、歓迎会の日を伝えといてね」
「どうせ、高津は来ないだろうけどね」
山中が口をはさんだ。
「歓迎会? 仲原先生の?」
「そうそう。21日に予約しておいたから。例の富久屋さんで」
「加藤さんも来るの?」
「もちろん」
スタッフはざわざわし始めた。
「さ、仕事、仕事!」
福永の一声で皆一斉に立ち上がり、清拭の準備にとりかかった。ミサが患者の体を拭く、おしぼりタオルを用意していると、ドクターの高津が、廊下の向こう側から歩いてくるのに気がついた。
「お、おはようございます」
「あーおはよう」
高津はミサには顔も向けず、そう言ってナースステーションの方へ入って行った。
「あんた、何してんの。 チョコ、チョコ」
福永はミサの背中を押した。
「え、でも、仕事中……」
「いいの、今日はその為に、スタッフ増やしてあるんだから。先生を見つけたら、ドンドン渡して行かないと、それこそ夜中までかかっちゃうよ〜!」
「えーー」
ミサは慌てて休憩室に入っていくと、高津先生へ、と言うシールの貼ってあるチョコを取り出してナースステーションへ走った。
高津はナースステーションの中央にある、だ円形の大きな机の中央に腰掛けて、カルテを見ている。その、厳しい眼差しに、ミサは声をかけるべきか迷った。
「あ、の」
しばらく、間を置いて、高津が顔をあげた。
「びょ、病棟からです。」
その声は少し震えていたかもしれない。ミサは高津の目の前にチョコレートを置くと、はぁ〜っと息を整えた。変な緊張感で、胃がシクシクしてきた。
「あ、はい」
高津はそれだけ言って、チョコレートには見向きもせず、カルテに視線を向けた。
「あの、それと」
まだ、何か用事があるのか?という様に、高津は、うっとおしそうな顔でミサを見上げた。
(もうやだ)
「な、仲原先生の歓迎会なんで……」
ミサがいい終わらないうちに、高津は「欠席で」と、それだけ言った。
お昼を過ぎて、なかなか減らないチョコレート。ドクターは来て欲しい時には、なかなか姿を現さない。困っているミサに福永は耳打ちした。
「医局に行っておいで。誰かいるから」
「えー。入りづらいです」
「じゃあ、夜までかかってもいいの?」
結局、ミサは福永に教えてもらった通り、最上階の8階にある内科の医局へ向かった。医局の入り口の前には、ドクターを捕まえようと、MRが数人、立って待機している。立っているMRをかきわけ、ミサは医局に入ると、ムサ苦しい男臭いにおいがした。
(やっぱ、やだなー)
「あれ? 4病棟の子やろ」
入り口の方にある机に座っていた安部が声をかけた。
「あ、安部先生。 チョコ……」
大きな紙袋の中から安部の分を取り出すと手渡した。
「名前なんだっけ?」
「渡辺です」
就職して、もうすぐ1年になろうとしているのに、全く名前を覚えられていない事に、少し悲しくなった。
それから、医局にいた2、3人のドクターにチョコを手渡し、残すはあと2人となった。
(加藤さんと、貫一さん)
ミサは仲原の顔を思い出した。あの冷たい視線。このまま、机にチョコレートを置いていってしまおう、そう思った。
「安部先生!」
「はい?」
何人か医師がいたが、ミサは愛想の良い安部に声をかけた。
「仲原先生の机って、どちらですか?」
「あー、あいつ? 窓際の一番端っこ」
安部に教えてもらった通り、窓際の一番右端にある机に向かって歩いて行った。仲原の机は本や資料が山積みになっていて、雪崩がおきそうな状態だった。
(貫一さんの机、汚いーー)
仲原の机にチョコの紙袋を置いたその時。
ドサドサドサッ
雪崩が起きた。
「やだーー」
「何やってる? 人の机で」
「え?」
運悪く、仲原が戻ってきた。仲原の机のまわりには、本と資料が散乱して、ミサが呆然と立っている。
「あ、あの、チョコレートを」
「え? 俺に?」
「あの、あの病棟からなんですけども、代表で」
「そう。お腹空いてたんだ」
仲原は落ちている、チョコレートの袋を拾うと、そのまま、包みを開け、ムシャムシャと美味しそうに食べた。あっという間に無くなった。
(今、食べますか……)
ミサは呆れて、仲原の顔を見た。
仲原もミサの顔を見ていた。白く透き通るような肌。
仲原は急に、ミサに顔を近づけると、両手で頭をつかんだ。
「きゃっ! 何?」
「いや、お前」
「え?」
そう言うと、仲原はあっかんべーという様に、ミサの両目の下を下げて、覗き込んだ。
「まさかな……」
「ちょっと、かんいち?」
ミサはいきなりの出来事で、かなり緊張していたのだろう。思わず貫一と口走ってしまっていた。
「かんいち? はは。お前、変わった奴だな」
(貫一が笑った……)
ミサは何が何だかわからなくなっていたが、今、目の前にある仲原の顔をまじまじと見た。端整な顔立ち。優しそうな笑顔。今、湧き上がってくる感情が何なのかも、理解できないでいた。
「お前、血液検査した方がいぞ」
仲原は硬直しているミサに向かって、そう言った。
「貧血ですか?」
「わからん!」
(えーー? 何それ?)
ミサはますます呆れてしまった。そして、とっとと歓迎会の事を伝えて、医局を後にした。
途中、加藤に会ったが、いろんな所でチョコレートを貰った様で、いつもと違う袋をいくつか持っていた。
「ご苦労さん!」
最初に声をかけたのは加藤の方だった。
ミサは疲れた顔で、おもむろにチョコレートを取り出すと、無言で加藤に渡した。
「あ、ありがと」
気がつくと、猛ダッシュで休憩室に戻って来ている自分がいた。
(最悪のバレンタインデーだぁ)




