第11話 事件
会計課の田中と師長の池原は、ナースステーションで頭を悩ませていた。
「で、どうなりました?」
会計課の田中は、請求書を片手に師長に詰め寄る。師長は益々困った顔をして、ふーっとため息をついた。帰らない患者、安達のことで。
「先日、私の方から、退院について説明をしたんですが、安達さんは、ちょっと待ってくれ、の一点張りで…」
「先生から、言ってもらったらどうです?」
田中が言うと、師長の顔色が変わった。まるで、わかってます、と言っている様に。
「主治医の高津先生にも説明してもらう様に言ったんですが、部屋の算段は師長の仕事だろうって、逆に怒られまして……」
「はー、そうですか」
「入院費用の方は何とかなりそうですか?」
「入院の時に、保証人になっている方に連絡をさせて頂きました。どうやら、元同僚のようでしたね。その方が、安達さんの家族を知っているみたいで……」
「一度、家族に連絡する必要があるわね」
師長はそう言うと、また、深いため息をついた。
「退院の件……どうしましょう…」
師長と退院の事で、話し合ってから、安達の行動に変化が出始めた。
他の部屋に行っては、動けない患者の世話をしたり、買い物に行ってあげたりする姿が度々みられた。始めのうちは親切心からだろう、と放っておいたスタッフだったが、段々と問題視する声が聞かれた。そんな時だった。
「ただいまー」
「安達さん!」
ナースステーションを横切った、安達の姿。その場に居合わせたスタッフは唖然とした。
安達は車椅子を押していた。乗っていたのは、脳梗塞で4病棟に入院中のおばあちゃん。売店まで連れて行ったというのだ。
「何? そんなに驚いて」
「何じゃないわよ! 安達さん。おばあちゃんをベッドから車椅子まで、どうやって乗せたの?」
「俺、力だけはあるからさ」
安達は事の重大さに気がついていない様子だった。それどころか、まるで、良いことをしたかの様に振舞っている。それには恵も黙っていなかった。
「おばぁちゃんが、麻痺があるのは知ってるでしょ? 勝手に車椅子に乗せて、こけたら、どうするつもりなの? それに、女の人の部屋に勝手に入っていくなんて……」
「廊下を歩いてたら、呼ばれたんだって。じゃぁ、言わせてもらうけどな、看護婦さーん! っておばぁちゃん、ずっと呼び続けてるのに、みんな無視やったやないか!」
安達も負けてはいない。
「あの人は、見当識障害があって、ずーっと誰かを呼び続けるの、あんたも知ってるでしょ?」
パンチは恐ろしい形相で、安達を睨み付けた。
「そんなん、知らんわ。呼ばれて行ったら、おばあちゃんがパンが食べたい言うたから、一緒に買ってきてやっただけやろ! 何がいかんのや、くそっ」
安達は頭に巻いていたタオルをはずすと、パンチの顔先へ向けてタオルを振った。
「あ、痛ーー! あんた、暴力する気?」
「かすっただけやないか」
「暴力を振って、このまま入院できると思ったら、大間違いだからね」
「待て、かすっただけやないか……」
パンチはその場を離れると、師長の姿を探した。もちろん、安達の暴力を報告する為に。
安達は不安気な顔を浮かべて、自分の部屋へトボトボと戻って行った。
「ちょっと、師長知らない?」
パンチはでっぷりした体を、ゆさゆさ揺らしながら、師長の姿を探した。
「いえ…」
ミサは他の人の入浴介助から戻ってきたので、パンチが何を怒っているのか、全くわからない。険しい表情に圧倒されたミサは、固まってしまった。
「ちょっと、あんた。安達の受け持ちだったね」
「はい」
「即、退院してもらうから」
パンチはそれだけ言うと、また、師長を探しに行った様子だった。
(安達さん? なんで?)
ミサは持っていた入浴セットをワゴンに置いて、安達の部屋へ急いで行った。
「安達さん!」
安達はベッドに腰掛けて、窓の外を見ている。背中を丸めて、うなだれている彼の様子から、何かあったに違い無い、とミサは確信した。安達はミサが声をかけても、全く応じず、振り向こうともしなかった。
(こんな安達さんはじめて)
「どうしたんです?」
「……」
「話して…」
「あ…の……」
安達がミサの方を見て、話をはじめるか、と思った途端、病室のドアが開いた。
パンチに言われたのだろう。師長がやって来た。
「安達さん、お話を聞きたいので、来ていただきたいのですが」
師長はいたって冷静に、話しかけた。
「…んだよ! どこに行っても厄介者扱いかっ」
ガラガラガラッ
安達が窓を開けたので、冷たい風がヒューーッと音をたてて舞い込んだ。4階にある部屋にあるこの窓、師長もミサも、安達が何をしようとしているのか、すぐに想像がついた。いきなりの展開に、ミサと師長は、しばらく金縛りにあったように安達の行動を見ていた。
「あ、安達さん?」
ミサが先に声をかけた。
安達はベランダに出ると、肩くらいの高さにある柵に足をかけた。
「ちょ、ちょっと落ちるじゃない!」
師長が慌てて、ナースコールを押した。
「はい。どうされました?」
ナースステーションにいるスタッフが応じる。まさか、部屋で大変な事が起きているなんて、思いもかけないだろう。のんびりとしたその声は、師長の声で一変した。
「誰か先生呼んできて!」
「は、はいっ」
2、3分して、仲原と数人のスタッフがやって来た。皆が部屋に来た時はミサが、よじ登ろうとする安達の体を引っ張っている所だった。
「バカな事しちゃダメー」
ミサは必死に安達の足にしがみついた。
「どこにも帰るとこなんかないんや! 追い出されるくらいだったら死ぬ!」
「や……だめ…」
「放っとけ!」
仲原は騒動が起きている中心に行って、安達にしがみついているミサの手を振りほどいた。
「死にたいやつは死ね!」
その声は、静かであったが、冷たいものだった。安達もミサもあっけにとられ、仲原の顔を見た。鋭い目、深く憎悪のこもった声。
その声に圧倒されたのか、安達は、気が抜けたように、その場に座りこんでしまった。ミサは、座り込んでしまった安達の肩を抱き、部屋へ入るよう、そっと促した。
仲原は、部屋へ入る安達を確認すると、出て行った。
(貫一さん…あの時の顔だ……)
「安達さん、どうしたんですか?訳を……」
師長の話をさえぎるように、安達は言った。
「ただ、役に立ちたかっただけなんです。ついかっとなってしまったけど、暴力なんか…」
「そう。おばあちゃんを売店に連れて行ったのは、私達を助けるためだっていうの?」
安達は頷いた。
「みんなの役にたてれば、ここに置いてもらえると思って……」
「そうだったの。」
「安達さん世話好きだから…ね」
ミサがそう言うと、安達はわーっと泣き出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
そう言って、彼はベッドにひれ伏した。
「退院の件、別に追い出すわけじゃないのよ。一緒にどうしたらいいのか考えましょう」
師長は子供を諭す様に、優しく丁寧に言葉をかけた。
死にたいやつは死ね……
憎悪のこもった仲原の声。彼の過去に何があったんだろう。そう、ミサは思わずにはいられなかった。




