赤系ジャムは困惑の味
「クルト。クルト、馬鹿野郎、起きろ」
「……なんでそこにいるイレーネ。いつ俺の中から外れたんだ」
不思議そうに瞬かれたが、いやいや何言ってんだコイツ。素で引くわ。
「朝というか昼です。あと、私はたったの一度だってお前と同衾した記憶はないです」
「記憶もなにも昨日もその前だって……あぁ。夢か」
「はい」
地獄の底から出てくるような溜息が深い。目を覚ましたあとで私を視界から外すのを嫌がるクルトのせいで朝食はいつも冷めがちだ。いつか保温機能のあるワゴンでも作ってもらおうかな。
っつか『外れた』ってなんなんだよ。いつから私がクルトの部品みたいになってんだよ。
私は部屋に入れていたワゴンから冷たいジュースを一杯注ぐ。クルトの視線は当然のように私を追っている。ミスができないことが難点だ。
コップを渡して背中を向ける。温かい紅茶を注いでから持って行き、空になったコップを受け取った。ソーサーを優雅に保持する姿勢はクルトのくせに完璧で、うん、つーか普通にクルトは立ち居振る舞いが美しい。奇矯なだけでな。
カーテンを開け、明るい光をふんだんに取り入れる。いい天気だ。
「イレーネ。目覚めのキスがしたい。ベッドに上がれ」
「死ね」
気軽く断って気安くベランダへのノブに手をかける。無言のまま4秒待った。
クルトからの静止が来ないのを確認してから格子付き硝子戸を開け放つ。寝台傍の窓も全開にした。遠くの山が綺麗に見える。出歩くには絶好の日より。
風が気持ちいい。
「クルト。今日の予定は」
「イレーネ、お前を俺の家族にしたい」
「なるほどそれは予定じゃない。しかも不可能だ。他は」
「ない」
ないわけがあるか。お前に宛てただけじゃ心もとないってんで、先日から中将閣下の手紙は私にも来るようになってるんだ。ばーっかやろう、ネタは上がってるんだよ。
「軍部保管庫の機械についてのメンテナンス要綱とそれぞれの種類ごとにおける期日の一覧表、クルトがいなくてもメインとして使えるメンテナンス要員の教育課程詳細と学校のカリキュラム作成」
「……」
「お前が管理している領地の税報告と収支報告、機械部における人事に関する決裁書、このあいだ出た新型機械の問題点洗い出し」
「……」
「隣の国の開発途中の兵器についての考察論文提出」
「逃げようイレーネ。天上の国に」
「いけねぇよ」
というか行ける気もしないが行く気もない。私はただの人間で、ちょっとばかりエリートかもしれないけど普通の女子だ。メイドだってこなせるけど一般人。
国唯一の機械師サマとは格が違う。
「キスがしたい、イレーネ」
「死ね」
「お前が欲し、……傍にいてほしい」
ベッドの上で座ったままのクルトが切々と訴えてくるが無理だ。家族にはなれない。
なれないんだよ、クルト。
どれだけお前が寂しくても、どれだけお前をかわいそうに思ったとしても。いや思ってないけど。
私が誰かの大事になれることなんて、きっと、無い。
「紅茶が終わったのなら、クルト、食堂に朝食を用意しました。着替えはもう出してあります」
「即座に敬語をやめろイレーネ。距離なんて許さない」
「許さない権限は、お前にはないよ」
「じゃぁ死ね」
枕の下から飛んできたナイフを避け、背後へと足をすべらせる。ワゴンの上に盆が置いてあるが視線なんて逸らせられるものか。その瞬間にナイフが急所に来るわ。
開け放したままの扉から廊下に走り出る。そこでようやくクルトへと背中を向けられた。全力で走り厨房へ。人形たちにぶつかりそうになりつつ回避、外へと勝手口のノブに手をかける。
「駄目だイレーネ。そこを開けるなら、本気で止める」
「…………クルト。お前さぁ、人にナイフなんか投げてさぁ、それでそのツラはどうかと思う。私は」
「ツラ? 俺の顔がどうだか知らんがそれでお前が止まるなら、どれだけでも俺はお前に話しかけよう。イレーネ。卵が欲しい。ベーコンと、あと」
「カリカリに焼いたトーストな。……あぁ。すぐに持って行き、行こう」
情けない角度で下がっていた眉と途方に暮れているような目が、ぱっと明るくなる。手に持った銃の口が心持ち上がったので避けておいた。正解だ。
ぱんという音を立て、私の隣の人形の頭が砕ける。
甘い。赤い。
「……おい。まさかのジャムか。しかも赤系ベリーか。お前馬鹿だろクルト。マジで死ねよ」
「トーストにはジャムが似合う。それに……」
「黙れ、言うな」
「お前が、イレーネ、もっと短いスカートを穿かないから。朝一でお前の太腿を触れないのが残念だった」
「許さない。ゼッタイにだ」
「許さない権限は、お前には無い」
至上最低のドヤ顔でクルトが笑う。イラッときて私の方も銃を出そうとしたけどクルトの方が早かった。私の隣にある人形の頭も砕ける。どろりとしたジャムが厨房の床と、それから私のスカートにも飛び散った。頭から伝ってきたジャムは腹立たしいほど美味しい。白いシャツに飛んだ分も、くそったれ、美味いとも。
私は頬をひきつらせ、人形たちに給仕を命じた。私自身は着替えに行かないとダメだ。どうにもこうにも水を浴びないと話にならない。
「食ってろ」
「食えない。イレーネ、お前がいないと俺は何もしない」
「出来ないじゃなく、しないところがガチで苛つく。馬鹿野郎、今日のノルマは天気がいいし半分くらいにしてやろうと思ってたのに」
「…………イレーネ」
「ばーーーっかやろう。私が水を浴びてくるまで、クルト、カリキュラムの方を作り上げろ。飯のあとはガンガンに進めさせる。くそっ、くそったれ。庭仕事でもしようかと思ってたのに」
ぷりぷりと怒って見せながらクルトの傍を通り抜ける。この一瞬の緊張ときたら癖になるってもんだ。猛獣の傍を檻ナシでの通過。はっはぁ、機械師サマのツラが情けなくてイイ。
いいわぁ。
油断は、たったそれだけだった。情けない面が、と思ったところで腕を取られる。いいわぁ、と思ったあたりで唇を覆われた。キス。
思考は急に止まらない。私はうっかり、キスをされている最中に『いいわぁ』と考えたわけだ。なんということでしょう。
無言のまま暗器をありったけ投げつける。クルトは華麗に紙一重で避けていく。べたべたする手のせいで食堂の扉まで汚れたが、なに、どうせ掃除は人形たちがする。
私には関係がない。
クルトに蹴り飛ばされ、床に散ったジャムの中に手を突く。飛び起きるつもりが靴底が滑った。その間に詰められ、クルトが私の胸ぐらを掴んで引き上げる。噛みつくようなキスをされた。舌が入ってくるのだけは全力で回避したいが遅かった。ジャムの味がする。なんで。
「……唇が甘い。イレーネ。お前が、甘い」
クルトの声自体が蕩けるヤバさ。極上のチョコレートより纏わりつく。これだけ他人と密着する経験はクルトでしかしたことがない。だからわからない。
キスって、誰としてもこんなに甘いのかよ。