張飛とロリ嫁
ちくま訳に基づけば、建安五年、本拠地の郡で焚き木を取りに行っていた夏侯氏が張飛に捕まった。張飛は彼女が高貴な出と判るとそのまま妻にしたとある。その後、夏侯淵が死んだとき、彼を埋葬することを張飛に求めたという逸話が有る。そして夏侯覇が来たときには恐らくもう亡くなっていたから、劉禅は夏侯氏ではなく自分の息子を示して夏侯覇の甥として紹介したのだ。
さて、本拠地の郡というのは、魏書明元郭皇伝によれば出身の郡のことだから、夏侯一族の出身地である豫州沛国の譙県になる。張飛はどういった事情でこんなところに来たのかをまず見ていこう。
建安五年は西暦200年。官渡の戦いの行われた年だ。前年の12月から曹操は官渡に陣取っていたが、明くる年になって劉備を攻めたという。というのも、それまで曹操に属す将軍だった劉備が袁術の死を皮切りに旗揚げし、袁紹の支援を受けて曹操に敵対したからだった。
独立した劉備の拠点は東の小沛に有った。
これは曹操にとって懸念すべき事態になる。曹操の陣が置かれた官渡の周囲に無数の不安要素があった。南の宛には劉表に属す張繍、北には勿論袁紹がいて、西の長安にはどっちつかずの馬騰、さらに南東では孫策が許を狙っている。こんな状況下なので、すぐに討伐部隊を派遣したのだが、敗れて帰ってきた。だからこそ曹操自ら出征しなくてはならなかった。
1月、曹操に打ち破られてから、黎陽まで進出してきた袁紹の伝手で黄河北岸の平原に移り、また下ヒに居た関羽は曹操に降伏した。
4月に関羽は曹操軍の徐晃や張遼、荀攸と共に、黄河南岸の白馬に攻め込んできた袁紹軍の顔良を殺した後、曹操の下から逃亡する。続いて曹操は延津を攻めてきた文醜を切ったり、黄河を渡って袁紹の陣営を荒らしたりしていたが、袁紹自ら黄河を渡って陽武まで進出してくると、陣の有る官渡まで撤退して、そこで袁紹軍に包囲された。
8月になると劉備は関羽と合流し、袁紹の部下の劉辟或いは祝脾と共に許の東、潁水北岸に有る㶏強県まで制圧した。劉辟と祝脾というのは、汝南出身の黄巾賊なのだが、劉辟の方はすでに殺されていたという話も有る。
そこで動けない曹操に変わって曹仁が派遣されると劉備は撃退され、再び袁紹の下に逃れた。この頃、張繍は賈文和の策で曹操に下り、馬騰は鍾元常の勧めで曹操側についた。そして偶然唐突に孫策が死んだ。こうして曹操はそれまで動かせなかった軍勢を動かせるようになったのだろう。
10月には兵糧を断ち切られた袁紹が撤退したため、劉備は荊州へと走ることになる。劉備が劉表に迎えられたのが201年だから、以上だ。
張飛が夏侯氏を捕らえたのは小沛にいたときか許の周辺を荒らしていたとき、或いは撤退の最中になる。しかし、とりあえず撤退中というのは省こう。許近辺から荊州に撤退するのならば、進路方向に譙県は無い。
同じ沛国なのだから小沛から譙県に行くことはできそうに見えるが、大体150kmほど距離があるので往復2週間は掛かるだろう。これでは日程が詰まっているのでかなり難しいし、袁紹がまだ黄河を渡っていないのに陽動をするとは思えない。
だから許の周辺を荒らしたときというのを支持する。汝南の劉辟・祝脾と合流して許近辺を荒らすとしたら、必ず西から攻めることになる。譙県は許の東方に有る。
旧暦で考えると一月分程度ずれるから、旧暦1月は新暦2月といった風になる。太陰太陽暦での当時の正確な暦については、計算が面倒で出来ない。
当時の華北で生産されていた稲の中には、比較的早目に収穫できる半夏稲という種も有ったから、許周辺を荒らしまわったというのは軍事的な制圧が有ったというよりそういった意味だろう。袁紹の後ろ盾で以って黄巾賊の掠奪を推奨させたと見る。このために劉備は軍というより貧農出身の盗賊団である彼らを統率することは出来ず、曹仁にあっさり敗北したのだ。
また焚き木を取りに行っていたとあるが、寒いヨーロッパ中世のそれと異なり、照明を得るために用いられる。だから旧暦8月でも焚き木拾いは行われておかしくはない。
焚き木は、荀イク伝によれば城の外に出て採るものだから、ちょうど収穫期真っ只中の屯田を掠奪するついでに夏侯氏を拉致ったのかもしれない。
時期が決まったので、次はこの拉致と結婚をどう捉えるのかという話になる。所謂ハイ○ースなのか、それとも何らかの合意があったのかだ。
少なくとも蜀魏の外交を目的としたものとは思えない。
199年に曹操から劉備が離反してから両者の和解は訪れなかった。平和裏に戦乱を終わらせる機会があったとすれば、恐らく思い上がっていただろう曹丕が劉禅に降伏の詔を送ったときくらいで、他には何も無いのだ。だから魏との合意は無いと見ていい。しかし拉致なんてしても良かったのか、13歳との結婚はありなのか、次は結婚制度を調べていこう。
資料によれば、前漢の恵帝は15歳から30歳までの間に結婚しなければ罰金刑に処したという。しかし後漢の頃には低年齢婚が進んでいた。後漢書皇后紀によれば、後漢王朝において後宮入りさせられるのは13歳から20歳までの容姿端麗な良家の女だったという。
具体例を挙げれば、呉の陸鬱生が結婚したのは13歳のときだったし、後漢の班昭は14歳のときである。孫晧は15,16歳の美少女を後宮に入れまくっていたが、高校生は対象外なので省く。
ところで前漢代には6歳で結婚した皇后も居たが、これは外戚支配の賜物だ。
再婚は周代の話に託けた倫理的な思想にとっては望まれていなかったが、よく無視された。秦宜禄の前妻である杜氏について曹操と関羽が取り合った話があるし、呉では大虎小虎を再婚させた例がある。夏侯令女が髪を切り鼻を削いで再婚されぬようにした話や、先の張温の妹が既婚だったことから許され、離縁して丁氏と再婚するように命じられて自殺したという話はそのために残される。
同じように伝統を重んじて正妻を第一にし嫡男を跡継ぎにせよと訴える出来事が色んな所で有ったが、それも同様である。他にも同姓では結婚するなとか、同程度の家柄を選べとか面倒な規則があり、ただ前者だけがよく守られた。
離縁は男が一方的に行うもので、蜀書には劉エンが妻を離縁にした話があるが、離縁のときに暴力を振るったことだけが問題にされて、離縁について取り沙汰されることはなかった。
そして重婚についてだが、帝家は当然として、家が豊かであれば妾を持つのはよく有った。有名所では妾が死んだために狂った夏侯尚や、妾を殺して部下たちに食わせた臧洪が居る。
妾は家格で正妻に劣り、大抵は市井か貧困の出であって、語源が下僕と同一だから男の奴隷である僕と併記される。呉書歩隲伝に奢侈な服装をしていたとあるように、彼女らはけして貧しい生活をしていたわけではないが、社会的に隷属するが故に奴隷である。また郤正の姜維評をみると、妾を持たないことが彼の高潔さの表れだったという。
何晏の例のように兄弟婚は特に疎まれるものだったが、親の後妻を娶ることは問題視されなかった。同姓との婚姻を嫌うから異性相手は問題ないのだろう。実母は多分含まれない。結婚は家同士の結びつきだったから、両家を受け継ぐ子供が娶るメリットはない。
魏帝家の結婚は、漢代における類型的な男系社会の出世策とは異なっていて、皇帝の外戚は地位と給与は与えられるものの、彼らの活躍は殆ど見えてこない。曹操の頃にはそもそも地位すら与えられていなかったが、その後も元々女娼だった卞皇后の貢献があって名目的な立場だけしか所有せず、軍権も握れなかった。
それ故に曹爽は外戚の何晏と親交を結び、実力者たる司馬氏は外戚の郭氏と縁故を結ぶことで、それぞれ間接的な形で曹帝家に取り入ることになる。勿論、後漢末期において曹操が立身出世する段階では潁川の荀氏と縁故を結んだり、献帝に娘を嫁がせたりと政略結婚は必要であった。
呉では元々地方豪族の力の方が強く、そのために孫権は有力な家との縁故を積極的に結んだ。とはいえ孫晧の代にはパワーバランスが変化していて、外戚の何氏が大きな力を持っている。史伝にて孫晧が批判的に描かれたのも、そのとき冷遇されていた豪族の影響だろう。その基盤は異常に強固で、一部の豪族は宋代の子孫まで史書で追うことが出来たりする。
蜀にも積極的に縁故を結ぶ動きが見えなくはないが、権力闘争には至らなかった。その理由は呉と大差ない。力を握ったのは宦官とその派閥であり、外戚の多くは名目的な地位に留まった。
権威についての明らかな影響を張飛の子孫に見ることが出来る。娘二人は両方とも劉禅の皇后になっているためだ。皇后というが、彼女らには太子が生まれなかったから、少なくとも劉禅に寵愛されていたというわけではないことが判る。
普通に考えてやった数でいえば、家同士の約束に基づいて政略的に娶られる正妻よりも、自分が市井を回っているとき目にかけた愛妾の方が多くなる。それは周代の慣習によって正当化することも出来たし、その方が正妻との子を為し易いとまで考えられていたという。
劉禅の皇后に相応しいのが張飛の娘だったというなら、夏侯姓の血筋の影響があるかもしれない。張飛は劉備と同郡出身以外に出自がはっきりしない。
確か同郡出身同士で縁故を結ぶというのは当時の極々一般的な風潮だった気がするが、拠点に四姓の居る呉を除けば皇族にはあまり関係ない。
それでは外戚である張飛に権威が与えられたのか。右将軍の張飛が車騎将軍に任命されたのは、娘が劉禅に嫁いだ221年だった。しかしそれと同年、左将軍だった馬超が軍属最高位の驃騎将軍になっている。彼らよりも高位だった関羽と黄忠はもう死んでいるから、順当な昇格にしか見えない。
息子張紹の地位は、尚書僕射である。尚書郎(郎中)から始まって、尚書令に至る途中の官職だ。彼らは諸葛亮死後の蜀における最高職尚書令の下で、官吏の任免を受け持った。尚書僕射は定員二名、蜀書では張紹のほかに諸葛瞻、姚チュウ、董厥、李福の四名が歴代の尚書僕射として挙げられている。尚書郎は若年で成れるという。それでもって若年というのは20歳程度のようだ。また諸葛瞻は35歳までに僕射となっている。最高官の尚書令は宦官の黄皓を押さえつけることの出来るほどの地位だったが、258年に尚書令となった董厥が彼と組んだので蜀漢は腐敗した。
しかし僕射の活動は見えてこない。諸葛瞻については陳寿の一件があるので判断できないとして、他の連中は空気である。だから彼も外戚として名目的な立場におかれていたのだろうと思う。
外戚への権力移行については、後漢書で馬皇后がそれを阻止したという話があるように、皇后の意思が影響した。それと同様の事態だったのだろう。たまたま221年に張飛が殺されているから、このお陰もあったかもしれない。前後で言えば、張飛が殺されたときには夷陵への遠征が始まっているので、娘が劉禅の后になった方が先だ。
しかし夏侯姓そのものが権威付けに役立ったわけではないだろう。夏侯姓の臣は当時の蜀に二人ほど居る。常山出身で趙雲の軍正の夏侯蘭と広漢太守の夏侯簒である。
結局判らないので、重臣の正妻の娘が選ばれたということで妥協したい。張飛は自分で捕らえたのを正妻としたのだから、正妻との間の出生数もわけが違うだろう。
捕らえた女を妻にするケースは特別ではない。曹丕は袁譚の妻を奪っているし、大喬小喬も戦利品だし、トウガイが成都を攻め落としたとき後宮の女は兵士たちに分配された。何度となく失われた劉備の妻子の行方は判らないが、似たような結末を期待できる。そこに奪われる側の意見は必要ないし、世相からいって女性の合意は必要ない。女性がどうしても拒否したいときには自殺する以外になかった。
以上から、拉致したことをそのまま受け止めることは可能であると思う。
続いて張飛が13歳相手にやってしまったのかどうかを考える。
これが最重要の問題である。だが、書いてもいいのだろうか。やってる描写を事細かに書きさえしなければ18禁扱いにはならないが、しかし13歳相手の話をするのは未成年者略取を助長するといった問題があるかもしれない。
資料によれば古代中国では初潮は14、精通は16歳であると考えられていたという。実際の初潮年齢よりは少し遅くみえるが、これは生まれた年を一歳と数えるためだろう。つまり13,14ばかりの娘というとき、jcの可能性すら出てくるわけだ。
またこの慣習が継続しているならば実年齢13歳でやっていた可能性が有るが、果たしてどうだろうか。
夏侯氏はいつ頃やったのだろう。
結婚の時期は通例として春なので、婚儀は少なくとも200年には行われなかった。初夜という概念はあるから、やったのも201年以降の筈だ。
まだ幅が広いので視点を変えてみよう。張飛と夏侯氏の娘である敬哀皇后が劉禅に嫁いだのは221年である。入内の時期を考えると、敬哀皇后の妹の入内は237年のことだから張飛の没年222年から、妊娠期間も加えて計算すると最低15歳ということになる。
敬哀皇后の入内を15歳であると仮定すると、彼女は207年に生まれた。つまり孕ませた年は206年になるから、夏侯氏が19歳の頃になる。これはとても健全だ。ただし、もう1,2歳若い可能性は残されているが。
ところで敬哀皇后とその妹は交代するかのように皇后になっているが、仔細はわからない。姉が死んだら妹を入れるというのは思いあたらないが、代わりに前妻の同族と結婚する例は幾つかあり、どれも政略的な意義がある。だが、死んだので代わりを入れるような権力が張氏にはなかったわけだし、無関係と見たい。
さて、健全である可能性があることが判ったので、心置きなく内容の話に移る。
結婚するに当たって儒教に基づけば煩雑な過程を踏まねばならない。
例えば陸鬱生に関する項目で、彼女は結婚してから婦としての礼のため3ヶ月祖先の廟への奉仕をしたとある。これは近親の喪に臥していたというわけではなく、礼記にある昏儀の作法であるが、特別に礼を重んじている彼女だから通例というわけには行かない。
玉台新詠集巻一の無名人 為焦仲卿妻作には一般的な婚礼までの流れが書かれている。
婚儀は旦那の仲人が取り仕切る。娘から結婚の了解を得ると、吉日を選んで婚儀の日取りが定められる。
吉日というが、大安や仏滅というのは未だ無い。日々の吉凶は天文で占う。頼りにするのは六合星だとか日月と北斗星が重なり合うときだと注釈に有る。
六合星は双子座のカストルらしいから、これの見える時期ということになるのだろうか。漢代の春である新年は、新暦では12月頃になる。この頃からカストルは見え始める。この時期は夜中になるまで南端に達することはない。南端に達するのを見ることの出来るのは4月までで、春の終わりになる。しかしこれでは結婚の時期は規定できても日取りを規定することは出来ない。
対して北斗星と日月の重なりになるが、太陽の場合、黄道の時期と同じだから特に考える必要はない。日取りには月の軌道が関係すると見ていいだろう。
結婚の日に、お供や贈り物の行列と共に旦那方の家から出発し、青布の張り巡らされた小屋で待つ新婦を迎えにいく。行列には金や玉を用いた豪華な車、四方に立てられるのぼり、贈り物には銭三百のほかに鮮やかに染められた絹や江南の珍奇な魚菜といった奢侈品。
しかし為焦仲卿妻作では、嫁が首を括って死んでいるのでこの後のことはわからない。多分、奢侈品を嫁の家族に贈った後、お供の取り巻きと共に嫁を連れて旦那の家に戻るのだろう。
そうして屋敷にたどり着いたころにはもう真っ暗だ。初夜は旦那の屋敷の閨の中で行われる。ここで薪の明かりが役に立つ。
ところで世説新語に曹操が新婚の屋敷に潜り込んで脅かしたという話があるように、新婚の家に下らない悪戯をすることがよく有ったようだ。いや、曹操が屋敷に潜り込む逸話はいくつもあるし、何かの逸話通り単に彼が覗きや聞き耳を好んでいただけなのかもしれない。
ここで判るのは花嫁の合意が少なくとも形式的には必要であるということだろう。勿論、一般的には家のために結婚するしかないし、家のない夏侯氏にとっても同様に選択肢がなかった。
夏侯氏の嫁入りを想像してみると、結婚場所は故郷の豫州から離れた荊州で、彼女の親族の主だった者たちは曹操の陣営に居る。つまり作法に基づけば、嫁の家への贈り物が必要なくなるだけだ。張飛の送った仲人が夏侯氏自身に結婚の約束を取り付けて、それで張飛が自分の屋敷に彼女を連れ帰れば事は成就される。いかに貧しくみすぼらしくとも、夏侯氏の縁戚から見下されることはないから心配ない。
時勢を見れば房中術が流行った時代であるから、閨の中でも色々な作法があった。しかし健全である以上、繊密に書くわけにはいかないので、ネット上でも読める医心方二十八巻を挙げるだけにしておく。体位とか腰の動かし方のほか処女と痛みを伴わずにやる方法がこれに書かれている。