序章2
ルアは、魔王としての執務に区切りをつけ、私室に戻った。
人間の女が、床に転がっている。
あまりに、無作法である。
「立て。」
多少の怒気を含んだ声に、女は微かに反応した。
薄っすらと開けた瞼に、虚ろな瞳。
その瞳がこちらに向く。
マフィを呼んだ。
「様子がおかしい。何をした。」
「特に、何も。ただ、飢えているようですが。」
マフィが、なんの感情もこもっていない声で応える。
「マフィ、すぐに水と食べ物を。人間のものをだ。」
頭を下げ、マフィは出ていく。
完全に、失念していた。
ルアには、食事をする習慣がない。
集落から攫ってきてから、およそ五日間、不眠不休で政務をこなしていたので、私室には戻っていない。
その間、この女は何も口にしていなかった事になる。
マフィが運んできた水を、女の口にあてがうと、ゆっくりと女の口に流していく。
人は弱い、とは思わない。
魔族の中でも、食を必要としないルアは異端なのだ。
マフィも、六日に一度は食事を取る必要がある。
「マフィ、これからは、毎日二度、食事を運んで来い。回復するまでの面倒も、お前が見ろ。」
マフィがハッとしたように顔を上げた。
表情には出さないが、不満なのだろう。
「旅に連れて行く。女が死ねば、お前は今後一切の戦に出さん。」
何か言いかけたマフィを、ルアは制して言い切った。
「かしこまりました。」
女に水を与えながら、マフィは諦めたように言い、ルアは寝台に寝転がる。
いずれ始まる戦に、魔族たちは賭けているといっていい。
種族の存亡はもちろん、魔族の誇りも、だ。
魔王直属の臣であるマフィが、そんな戦に出られないのは、ある意味では死よりも辛い。
悪いな、と微かに呟いて、ルアは瞼を閉じた。
飢えは初めての体験ではなかった。
むしろ、身近にあったものだと言って良い。
ティリアの集落では、狩りと採集が主な食糧確保の手段だったから、二日や三日、何も食べられない日は、そう珍しい事ではない。
農耕は、男手がいつ兵役にとられるかわからないサードムでは、あまり一般的ではない。
収穫したものにかけられる税は、作物ではなく銭で払わなければならないので、不作の時にも困るのだ。
決して楽な生活ではないとわかっていたが、ティリアはあの集落が好きだった。
しかし、もうあの集落はないのだ。
両親が、魔物の魔法で塵になった。
よく遊んであげていた子供が、虎のような魔物に丸呑みにされた。
あんなに強かった自警団の団長は、魔物に一太刀も浴びせる事無く全身を焼かれていた。
隣に住んでいた家族は、首を喰いちぎられて、胴体だけが転がっていた。
どれだけ忘れたくても、毎夜夢に見る。
そして、何故か自分は殺されずに飼われている。
初めの五日間は水すらも与えられなかったが、今は一日に二回、きちんとした食事が出てくるし、着替える服も与えられた。
何度も、自殺を考えたが、その気力も萎えてしまっている。
あの時、口に入れられたものを吐き出していれば、死ねた。
自分の意思はどうあれ、身体は全力で生きる為に動いた。
浅ましい、と我ながら思う。
今、ティリアはただ飼われているだけだ。
この部屋の主は、人型の魔物だったが、ほとんどティリアに関心がないようだ。
肌が灰色である事以外は、人にしか見えないが、魔法の素質がほとんどないティリアにも感じられるほど、魔力が濃い。
魔物の中でも、かなりの地位にある事は世話をしている魔人の態度からもわかっている。
人型の魔物は、総じて性欲が強いと聞いていた。
魔人を生ませるのは、ほとんどが人型の魔物で、ゴブリンやオークなどがその代表格である。
襲われたいわけではないが、自分がここに連れて来られた理由はそれしかない、と思っていた。
「あの。」
部屋に入ってきた灰色の魔物に、声をかけた。
少し、驚いたような顔をしている。
この部屋に連れてこられて、おそらく一月ほどになるが、声をかけたのは初めてだ。
「なんだ。」
眉間に皺を寄せ、魔物がこたえた。
「私を、どうするつもりなの?」
「どうするつもりもない。」
初めて連れて来られた時と同じ答えが返ってきた。
別の答えを期待していた訳ではない。
「食べる物も着る物もくれたのは?」
「殺そうとは思ってないからだ。飢えれば死ぬ。服も不衛生であれば、何かと厄介だろう。」
「あなたの子供を産ませる為じゃないの?」
言うと、魔物は首を傾げた。
意味がわからない、と言った様子だ。
言ってしまった自分の顔が熱くなってくる。
「人型の魔物は、そうだと聞いてたから。」
「俺は人型の魔物ではない。それに、俺には子を残す事はできん。」
魔物が、突然服を脱ぎ始めた。
驚いて何も言えずにいたが、その身体を見て、ティリアは驚いた。
ほとんど、人のような身体をしていたが、生殖器がない。
「どうして?」
「身体のほとんどが魔力のようなものからな。」
まったく意味がわからない。
が、それをそのまま口に出すのも気がひけた。
「死ねば魔力と魂の欠片が残る。世界中の魔力を集めながら、三百年ほどで蘇る。時代によって、誤差はあるようだがな。だから、必要ない。」
「それって。」
まさか、とは思う。
いや、思いたい。
「魔王、と呼ばれている存在の正体は、その程度のものだ。人間は、その辺りの研究はしていないらしいが。」
事も無げに言った、当の魔王は寝台に寝転がった。
「お喋りはこれぐらいで良いだろう。しばらく眠る。静かにしてくれ。」
言われるまでもなく、ティリアは言葉を失って、しばらく呆然としていた。