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春の神に囚われ堕ちる

作者: 桜海
掲載日:2026/07/03


「こりぇ、なぁに?」


 舌足らずに言葉を紡ぎながら、足元にいる愛し子が小さな小さな手をこちらへ伸ばす。

 それを優しく見つめながら、傍らにいた彼女は愛し子を抱きしめた。

 そして、一緒になって虚空へと手を伸ばす。


 ひらひら、ひらひら。

 ひとひら、ふたひら。

 はらり落ちては風に吹かれ、薄桃色が舞い上がる。

 伸ばされた指先を掠めて、悪戯をするように逃げていく。


「これはね、桜って言うのよ」


「しゃくら?」


「うーん……さ・く・ら。あなたと同じ名前よ。桜羅(さくら)


「しゃくらとおんなじ!」


 両手を空に伸ばしてはしゃぐ愛し子に、まだ早かったわねぇと笑う彼女。

 それを上から眺め下ろしながら、"彼"はふたりの目を楽しませるために、サワサワと枝を揺らした。


 愛し子よ、愛し子よ。

 どうか、健やかであれ。

 おまえのその柔らかな心が、いつか私を迎え入れるその時まで。

 いつか、私に落ちてくる、その時まで。

 穏やかに、傷つくことのないように。


 微笑む彼の目に、愛し子の無垢な瞳が映り込む。

 彼の姿を捉えた愛し子が零れそうなほどに目を見開いて、そして心の底から嬉しそうな笑い声を上げた。


◆ ◆ ◆


「ようこそ、桜羅(さくら)。私の世界へ」


 視界を、たくさんの薄ピンクが埋めていた。

 

 ――否。

 

 数え切れないほどの桜の花が咲き乱れているせいで、視界にそれ以外が映らなかったのだ。

 そして、そんなピンク一色の世界に、ひとつだけ垂らした墨のように佇む人影がある。

 濃桃色の袴に、真っ黒な長い髪。

 上に着ているのは、真っ白な――恐らく水干というもの。

 時代もなにもかもまるっと無視している服装なのに、むしろそれしか彼には似合わないんじゃないかとさえ思わせる。

 白皙の面に、薄い唇。切れ長の黒い瞳。

 現世では見たこともないほどの、美青年。

 ゆっくりと伸ばされる腕は長く、指先は白く美しい。

 こちらにおいでと、舞い散る桜の合間に声が届く。

 漆黒の瞳に囚われて、桜羅はゆっくりと近づいていく。

 綺麗すぎて怖いのに、抗う心は最初からどこにもない。


  

 今日は、母の命日だった。

 女手一つで桜羅を育ててくれた母は、彼女が短大を卒業し就職するのを確かめると、安心したように父の元へと旅立ってしまった。

 あの日から丸二年。三回忌の法要をなんとか成し遂げて、桜羅は実家の隣にある神社へとやってきた。

 ここには、小さな頃から参拝に訪れていた。それこそ、物心つく前からなんども。

 拝殿を正面に見て、右手に回る。

 そこに、大きな大きな桜の木がある。桜羅が腕を回しても、到底手を組むことのできないほどの大きな木だ。

 樹齢は――ここの宮司に聞いたことがあるけれど忘れてしまった。とてつもなく昔だったということは覚えている。

 もう夏も近い季節だというのに、この桜は散ることを知らない。

 今を盛りだとばかりに狂い咲いている。

 桜前線は数ヶ月も前に、遠い北の地へ去っていったはずなのに。

 そもそもこの桜に、"前線"などという言葉は当てはまらないのだ。

 なぜなら、これまでいちども花が落ちたことがないのだから。特に、桜羅が生まれてからは、ついぞ花を絶やしたことがないのだと聞く。

 はらはら、ひらひらと舞う花びらを眺めながら、桜羅は大木の幹に手を添えた。


「神様……わたし、ひとりぼっちになっちゃった」


 ポツリと頼りなく小さな声が零れ落ちた。

 だが、その言葉を聞き咎めるような人はどこにもいない。

 いまこの場には桜羅しかいないのだから。

 けれど彼女は、そこに誰かがいると確信したように言葉を紡いだ。


『桜羅、この木には神様が住んでいるのよ』

 

 不意に、耳にタコができるほど聞いた母の言葉がよみがえる。

 

 ――この木には神様が住んでいる。

 

 その言葉を桜羅はいちども疑ったことはない。

 なにせ、ここに来るたびになんども、見知らぬ男性の姿を見ているのだ。

 切れ長の瞳に薄い唇。枝の上に腰掛けて、桜羅と目が合うたびに淡く微笑む整った顔の男性。

 それがきっと神様なのだと、桜羅はずっと信じている。

 以前いちどだけ、彼と触れ合った事があった。

 あれは、中学校を卒業した三月の半ばのことだった。

 その日も桜は、卒業を祝うかのように咲き誇っていた。

 ちょうど桜の時期だったから――ではなく、春夏秋冬花を落とすことがないせいで、勝手にそう感じただけなのだが。


『ああ……おめでとう、桜羅』


 いまのように、桜の木肌に触れながら報告をしていたときだった。

 耳の奥にスルリと入り込んでしまうような、そんな柔らかな声音が祝福をくれた。

 隣に存在を感じて見上げた視界に、穏やかに微笑むその人がいた。

 頭を撫でられ、抱きしめられた。額に、温かく湿った感触が押し当てられていた。

 普通なら嫌悪するはずのそれも、なぜだか嫌ではなくて。逆に心が歓喜に沸き立っていたのを覚えている。


『――――、――――』


 そしてその時、彼がなにかを囁いていた。その言葉だけは、どうしても思い出せないのだけれど。

 そんなことがあったものだから、桜羅はなにかあれば余計にここへ来てしまう。

 高校、短大を卒業し、就職の報告もしたけれど、あの日以来彼が下に降りてくることはなかったが。

 それでも桜羅は、楽しいことも悲しいことも、すべてこの桜に話してきた。

 

 そう――いまだって。


 母がいなくなった。父はもうずっと昔にいなかった。

 親戚はいない。友だちと呼べるような人もいない。

 桜羅は孤独だ。

 就職をして二年間。必死になって働いたけれど、そこはまさかのブラック企業で。安心して旅立った母には、仕事についての報告も心のなかでできなかった。


「もう、疲れた……。神様、わたしをどこかに連れてって……」


 手の下にザラリとした幹を感じる。少し痛いそこに額を押し当てて目を閉じた。

 こうすると、いつも落ち着く。落ち着くからこそ、思っていたことがぽろり口を衝いて出る。

 ザアッと強く風が吹いた。

 桜羅の口元に、諦めにも似た苦い笑みが浮かぶ。

 願ったところでどうにもならないことを、神様に頼むなど愚かとしか言いようがない。


(こんなこと、願われても困るよね……)


 ザアザアと風が強い。

 さんざめくように、枝が、花が、揺れて音を立てる。


『了解した。その願い、受け入れよう』


 煩いくらいの大木のざわめきを縫うように、耳の奥にたおやかな声が滑り込んできた。

 

 ――ザアアッ。


 風が、吹く。

 強く、強く。

 舞い散る花びらも、咲き続ける花も巻き上げて、桜羅の視界を奪っていく。


「きゃあっ」


 慌てて幹から離れ、桜羅は顔の前で腕を交差させた。

 桜が吹雪となって、彼女を包み込む。

 腕に、足に、全身に、桜の花が纏わりついてくる。


「な、なに……?」


 ふと、空気が変わったのを感じた。

 遠くで聞こえていた、生活のざわめきがなくなっている。

 汗ばむほどだった気温が、まるで春に戻ったかのように心地良く肌を撫でていく。

 目を開ければ、あたり一面ピンク色。


「これ……桜? え、こんなに?」


 どこを見ても桜、桜、桜……。

 ソメイヨシノのような白に近い淡い色ばかりではない。はっきりと鮮やかなピンク色。淡い桃色に、所々交じる赤い色。

 ジャリ、と靴の下で土が鳴った。

 おかしい。そう思う。

 この場所に、桜の木はこの大木一本だけだったはずだ。

 ただひとつだけの狂い桜。それが、この神社の名物で……。

 だから……。


「ここ、どこ……?」


 見渡す限りの桜の群生など、見たことも聞いたこともない。

 いつの間にか、知らない場所にいる。それも、たったひとりで。

 ふるりと身体が震えた。

 外気は春のように暖かなのに、背筋を冷たい汗がひとつ伝って落ちていく。

 あれだけ煩かった風がピタリと止んでいた。耳が痛いほどの静寂が、桜羅を不安にさせる。


「だれか、いませんか? 神様……神様、そこに、いる……?」


 上を見上げても、枝に腰掛ける男性の姿は見えない。

 あるのは、薄淡い桜色の霞が立ち込める青い空だけ。

 ぐるりと周囲を見渡しても、人の気配すら感じられない。

 ふと、視界の端で花びらが数枚舞っているのが見えた。

 くるくる、くるくる。

 桜羅の視線が動くたびに付いてきて、そしてまた同じ場所で舞い始める。


「……こっち?」


 まるで付いておいでと言われているようだった。

 

 手を伸ばし、花びらを追う。

 桜羅が追いつく前に、それは次の場所に飛んでいき、またくるくると遊び始める。

 ときに走り、ときにのんびりと歩き、どこをどう動き回ったかわからなくなるほど奥へ誘われて。あるところで、花びらはふっと舞うことをやめた。

 柔らかな風が吹き、案内してきた花びらたちが桜羅の頬を優しく撫でて流れていく。

 その先に、ぽつんと佇む人影があった。

 一面の桜色に一雫の墨を垂らしたように、長い黒髪を風にそよがせている彼。その姿は、まるでひとつの絵のように、桜羅の目に映る。


「ようこそ、桜羅」


 低すぎず、高くもない声が、耳に心地良く滑り込んできた。

 それは、あの卒業式の日に聞いた声とまったく変わらない、桜羅の神様の声だった。


「かみ、さま……?」


「ああ、そうだよ。おまえがここに来るのを、私はずっと待っていた。よく来たね、私の世界に」


 スッと手を伸ばされる。

 彼の背後には、神社で狂い咲いているものよりもよほど大きな桜の木があった。

 ざあっとまた風が吹く。桜が一瞬、カーテンのように視界を奪う。

 唐突に、目の前に真っ赤な鳥居が現れた。それから、細い川に架けられたアーチ状の小さな橋。こちらとあちらを分断するように川はチロチロと流れ、光を反射する。


「こちらにおいで、桜羅。ここに来て、私の手をお取り」


 その橋をわたって、鳥居をくぐったら。

 そしてその手を取ったら、きっともう桜羅は戻れない。


(そう、わかるのに……どうしてかな。それでもいいと、思っちゃう)


 ふらふらと、誘われるままに桜羅は橋をわたった。一瞬、躊躇いながらも、赤い鳥居を通り抜ける。


「……っ」

 

 僅かに空間が歪んだような気がした。ぼわんと撓んで、耳の奥で高い音が鳴る。

 息を呑んだ桜羅をその両目で見つめながら、それでも彼は動かない。片手を差し出したまま、桜羅がその手を取ることを待っている。

 ぼうっとする頭を軽く振り、桜羅は鳥居の向こう側にいる彼へと歩いていく。


「ああ……やっとだ」

 

 自分に向けられていた手のひらを、桜羅は両手で掴んだ。

 瞬間、腕を引かれ、腰に手を回される。見た目よりも広い胸、柔らかな腕の内側に抱き込まれ、驚きで息が止まる。

 温かな手のひらが、首の後ろを撫でた。さらりと髪をくすぐられ、肩がすくむ。


「やっと捕まえた……桜羅。あの日、おまえを助けてから、おまえの父母と契約を交わしてから、私は一日千秋の思いでおまえが成長するのを待っていた。やっと……やっとだ。(わたし)に時間の感覚はほとんどないけれど、おまえがここに来るまで待っていた二十年(はたとせ)あまりは、まるで(とき)が止まったかのように長かった」


 力強く抱きしめられながら、桜羅は彼の言葉を聞いた。

 気になることがたくさんあった。聞き逃してはいけない言の葉もいくつもあった。

 けれどそれよりも――、


(待っていて、くれたんだ……)


 その事実を知って、目眩がするほどの歓喜が腹の底から湧き上がってくる。

 母が亡くなってから、桜羅を待つ人なんて誰もいないと思っていた。たったひとり世界に取り残された気がしていた。

 働いて、家に帰っても誰もいない。それまであった温もりが消え失せた家は、桜羅を拒絶しているようで辛かった。


「神様は、わたしとずっと一緒にいてくれる? わたしのこと、ひとりにしない?」


 抱き込まれた白い水干の袖を、ギュッと握りしめる。

 力強い腕のなかにさらに囚われて、心が目の前の彼に向かって落ちていく。


「ああ、絶対に一人になどしない。私がおまえのそばに未来永劫いると誓おう。だから桜羅、おまえも絶対に私から離れてはいけないよ。いつか抱きしめたときに伝えただろう? おまえは私の花嫁だからね」


「はな……よめ……?」


「そう。幼いおまえが死にかけたとき、おまえの両親は熱心にあの社で祈っていた。あまりにも根を詰めすぎるから、私がおまえを助けると約束した。おまえの死の運命を、私は捻じ曲げた。その代償として、おまえの両親は残りの寿命の半分を私に渡すことを誓った。そして、おまえが大人になったら私がもらい受けることを了承した。神との約束は誓約だ。言葉を違えることは決してできない」


 だから……、と桜羅の耳元に熱い吐息がかかる。ピクリと震えた桜羅の首筋に、彼の唇が強く押し当てられた。


「……っ、あ!」


 チリリとした熱が、首筋から心臓のあたりへと駆けていく。


「桜羅……私と約束をしようか」


「っ、ふ……、やくそ、く……?」


「ああ。おまえは私の花嫁になる。私と永劫ともにあり、私の命尽きるときまでそばを離れない、という約束だ」


 約束。誓い。――誓約。

 神様との約束は、とてつもなく重いもの。

 ここで頷けば、きっと桜羅はもう人には戻れない。

 人の世界を恋しく思ったとしても、本当にもう、二度と戻ることはできないのだろう。


(でも――わたしは、戻りたい?)


 誰もいない家。温もりと笑顔の消えた家。

 パワハラ上司に、残業ばかりの仕事。

 親戚もいない。

 遊びに行くような友だちもひとりもいない。

 苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、誰にも言えない。

 楽しいことや嬉しいことがあっても、誰とも共有できない。

 

 ――そんな世界を、わたしは本当に恋しいと思ってる?


 桜羅は、キツく目を閉じた。

 残っている仕事がたくさんあったけれど、そんなものもうどうでもいい気がした。

 唯一心残りがあるとすれば、両親の墓と、住んでいた家に置いていた家族の思い出くらいだろうか。


(でもそれは、あとでここに持ってこられないか聞いてみればいい)


 もう、ひとりじゃないのなら、それでいい。

 約束をしたら、神様だって違えることができないのなら。


「約束したら、神様はおかえりって言ってくれる?」


「ん?」


「行ってきますって言ったら、行ってらっしゃいって。ただいまって言ったら、おかえりって、そう言ってくれる?」


 目の前の体に強く抱きつきながら、桜羅は願う。

 ひとりぼっちはもう、いやだ。

 抱きしめられる重みも強さも知ってしまったら、手放すことはできなくなる。この腕の温かさを、ずっと独り占めしていたいと思ってしまう。

 首筋に埋まっていた神様の頭が、ゆっくりと動いた。ちゅ、と首筋で濡れた音がした。


「……もちろん。それを桜羅が望むのなら。だが……おまえの行くところには私もともに行くからな。ひとりにすることはありえないから、言う暇があるかな?」


 冗談めかしたように、桜羅を縛る言葉を紡ぐ神様に、彼女はくすりと笑った。

 ふたつの眦から、雫が流れて落ちていく。

 風が吹いた。地面に吸い込まれる前に、涙が吹き上げられて空中で消えていく。


「ふ、ふふ……うん。じゃあ、約束、します」


 応えた瞬間、彼は彼女の首筋に喰らいついた。優しく歯を立てて、浮かんだ紅玉を舌で舐め取る。唇で吸い付いて、そこに花の形の跡を残す。

 心臓が強く脈打って、桜羅は思わず目の前の大きな体へとしがみついた。

 ぶわり。

 足元から光が迸る。桜羅の髪も、彼の長い黒髪も巻き上げてふたりを包み込む。

 体の中のなにかが、光に囚われたように感じる。

 チリ……チリリリ。

 どこかで鎖がこすれたような音がした。


「これで、終わり? これでわたし、神様の……は、花嫁さん?」


「ああ、ようこそ桜羅。私の花嫁。私の半身(半神)。これからは、私がおまえのそばにいる。どんなことからも守り、どんな願いも叶えよう。だから桜羅も、私のどんな我儘でもその柔らかな心で聞いておくれ」


 甘い声が、桜羅の心を絡め取っていく。

 頷く桜羅を片腕に抱き上げ、彼は美しい容貌(かんばせ)に花がほころぶような笑みを浮かべた。


「私の真名()花霞桜之大彦尊はなかすみさくらのおおひこのみことという。だが……」


 桜羅を見つめる漆黒の瞳が、柔らかく細められた。

 甘さを浮かべたその微笑みに、桜羅の頬が熱を持つ。本当に綺麗な神様(ひと)だと、そう思う。


「だが、おまえには、桜霞(おうか)と呼ばれたい。……呼んでおくれ、桜羅」


 甘えるような声音にどきりとする。

 桜羅しか映さない瞳に取り込まれてしまったかのように、視線をそらすことができない。


「桜霞さん……」


「嫌だ。桜霞と呼んで、桜羅?」


「うう……桜霞」


「ああ……この名は、おまえにしか許さない。おまえしか呼べない名だ。他の誰にも許しはしない。愛しているよ、私の花嫁」


 近づいてきた唇が、桜羅のそれを優しく奪った。

 なんども重ねられ、そして、呼吸を奪うほど激しく絡められる。

 ふわりと風が吹いて、鼻先を甘いような香りが掠めていく。どこか清涼感も感じさせる香りだ。


「では、桜羅。私の屋敷に行こうか。それで、花見をしよう。今年も、昨年も、できなかっただろう? 幸いここの桜は枯れることはない。花を落とすこともない。いつでも花見ができる。思えば人間は大変だな。桜を求めて南から北への大移動だ」


 それに、と桜霞は続けた。


「桜羅は桜が好きだろう? おまえの母も桜が好きだった。毎年見ていたから知っている」


 桜霞の言葉を聞いて、桜霞は彼の首筋に顔を埋めた。鼻腔をまた、あの香りが擽っていく。これは――桜霞の香りだ。桜霞から、桜の匂いがする。


「――いつでも、私はおまえを見ていたぞ」


 切なさの混じったような声音に、桜羅の涙腺がまた決壊を始めようとする。ツンと鼻の奥が痛んで、桜羅は慌てて深呼吸を繰り返した。


「あの神社の桜が枯れないのも、桜霞がいたから?」


「ふふっ、ああ、そうかもしれないな」


 腕のなかで力なくくったりとする桜羅を抱き上げたまま、桜霞は土を踏んで歩き始める。サクサクと心地よい春の音が、彼の足元から響いてくる。

 桜霞の広い肩越しに、遠ざかっていく真っ赤な鳥居を見た。

 これでもう、現世(うつしよ)とはお別れだ。

 どんどん離れていく境界が視界から無くなっても、桜羅の心は凪いだまま。

 春の桜の神様に囚われて、見えないところまで落ちていく。

 けれどきっと、もう二度と淋しいと感じることはないのだろうと、そう思う。

 この春の神様は、片時も桜羅を離すつもりがないようだから。

 

 いつか現世を恋しく思う時も来るだろう。だが、いまこのときの選択を後悔することは、生涯ないに違いない。


 ――桜が吹雪いて、ふたりの世界をザアザアと閉ざしていく。

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