春の神に囚われ堕ちる
「こりぇ、なぁに?」
舌足らずに言葉を紡ぎながら、足元にいる愛し子が小さな小さな手をこちらへ伸ばす。
それを優しく見つめながら、傍らにいた彼女は愛し子を抱きしめた。
そして、一緒になって虚空へと手を伸ばす。
ひらひら、ひらひら。
ひとひら、ふたひら。
はらり落ちては風に吹かれ、薄桃色が舞い上がる。
伸ばされた指先を掠めて、悪戯をするように逃げていく。
「これはね、桜って言うのよ」
「しゃくら?」
「うーん……さ・く・ら。あなたと同じ名前よ。桜羅」
「しゃくらとおんなじ!」
両手を空に伸ばしてはしゃぐ愛し子に、まだ早かったわねぇと笑う彼女。
それを上から眺め下ろしながら、"彼"はふたりの目を楽しませるために、サワサワと枝を揺らした。
愛し子よ、愛し子よ。
どうか、健やかであれ。
おまえのその柔らかな心が、いつか私を迎え入れるその時まで。
いつか、私に落ちてくる、その時まで。
穏やかに、傷つくことのないように。
微笑む彼の目に、愛し子の無垢な瞳が映り込む。
彼の姿を捉えた愛し子が零れそうなほどに目を見開いて、そして心の底から嬉しそうな笑い声を上げた。
◆ ◆ ◆
「ようこそ、桜羅。私の世界へ」
視界を、たくさんの薄ピンクが埋めていた。
――否。
数え切れないほどの桜の花が咲き乱れているせいで、視界にそれ以外が映らなかったのだ。
そして、そんなピンク一色の世界に、ひとつだけ垂らした墨のように佇む人影がある。
濃桃色の袴に、真っ黒な長い髪。
上に着ているのは、真っ白な――恐らく水干というもの。
時代もなにもかもまるっと無視している服装なのに、むしろそれしか彼には似合わないんじゃないかとさえ思わせる。
白皙の面に、薄い唇。切れ長の黒い瞳。
現世では見たこともないほどの、美青年。
ゆっくりと伸ばされる腕は長く、指先は白く美しい。
こちらにおいでと、舞い散る桜の合間に声が届く。
漆黒の瞳に囚われて、桜羅はゆっくりと近づいていく。
綺麗すぎて怖いのに、抗う心は最初からどこにもない。
今日は、母の命日だった。
女手一つで桜羅を育ててくれた母は、彼女が短大を卒業し就職するのを確かめると、安心したように父の元へと旅立ってしまった。
あの日から丸二年。三回忌の法要をなんとか成し遂げて、桜羅は実家の隣にある神社へとやってきた。
ここには、小さな頃から参拝に訪れていた。それこそ、物心つく前からなんども。
拝殿を正面に見て、右手に回る。
そこに、大きな大きな桜の木がある。桜羅が腕を回しても、到底手を組むことのできないほどの大きな木だ。
樹齢は――ここの宮司に聞いたことがあるけれど忘れてしまった。とてつもなく昔だったということは覚えている。
もう夏も近い季節だというのに、この桜は散ることを知らない。
今を盛りだとばかりに狂い咲いている。
桜前線は数ヶ月も前に、遠い北の地へ去っていったはずなのに。
そもそもこの桜に、"前線"などという言葉は当てはまらないのだ。
なぜなら、これまでいちども花が落ちたことがないのだから。特に、桜羅が生まれてからは、ついぞ花を絶やしたことがないのだと聞く。
はらはら、ひらひらと舞う花びらを眺めながら、桜羅は大木の幹に手を添えた。
「神様……わたし、ひとりぼっちになっちゃった」
ポツリと頼りなく小さな声が零れ落ちた。
だが、その言葉を聞き咎めるような人はどこにもいない。
いまこの場には桜羅しかいないのだから。
けれど彼女は、そこに誰かがいると確信したように言葉を紡いだ。
『桜羅、この木には神様が住んでいるのよ』
不意に、耳にタコができるほど聞いた母の言葉がよみがえる。
――この木には神様が住んでいる。
その言葉を桜羅はいちども疑ったことはない。
なにせ、ここに来るたびになんども、見知らぬ男性の姿を見ているのだ。
切れ長の瞳に薄い唇。枝の上に腰掛けて、桜羅と目が合うたびに淡く微笑む整った顔の男性。
それがきっと神様なのだと、桜羅はずっと信じている。
以前いちどだけ、彼と触れ合った事があった。
あれは、中学校を卒業した三月の半ばのことだった。
その日も桜は、卒業を祝うかのように咲き誇っていた。
ちょうど桜の時期だったから――ではなく、春夏秋冬花を落とすことがないせいで、勝手にそう感じただけなのだが。
『ああ……おめでとう、桜羅』
いまのように、桜の木肌に触れながら報告をしていたときだった。
耳の奥にスルリと入り込んでしまうような、そんな柔らかな声音が祝福をくれた。
隣に存在を感じて見上げた視界に、穏やかに微笑むその人がいた。
頭を撫でられ、抱きしめられた。額に、温かく湿った感触が押し当てられていた。
普通なら嫌悪するはずのそれも、なぜだか嫌ではなくて。逆に心が歓喜に沸き立っていたのを覚えている。
『――――、――――』
そしてその時、彼がなにかを囁いていた。その言葉だけは、どうしても思い出せないのだけれど。
そんなことがあったものだから、桜羅はなにかあれば余計にここへ来てしまう。
高校、短大を卒業し、就職の報告もしたけれど、あの日以来彼が下に降りてくることはなかったが。
それでも桜羅は、楽しいことも悲しいことも、すべてこの桜に話してきた。
そう――いまだって。
母がいなくなった。父はもうずっと昔にいなかった。
親戚はいない。友だちと呼べるような人もいない。
桜羅は孤独だ。
就職をして二年間。必死になって働いたけれど、そこはまさかのブラック企業で。安心して旅立った母には、仕事についての報告も心のなかでできなかった。
「もう、疲れた……。神様、わたしをどこかに連れてって……」
手の下にザラリとした幹を感じる。少し痛いそこに額を押し当てて目を閉じた。
こうすると、いつも落ち着く。落ち着くからこそ、思っていたことがぽろり口を衝いて出る。
ザアッと強く風が吹いた。
桜羅の口元に、諦めにも似た苦い笑みが浮かぶ。
願ったところでどうにもならないことを、神様に頼むなど愚かとしか言いようがない。
(こんなこと、願われても困るよね……)
ザアザアと風が強い。
さんざめくように、枝が、花が、揺れて音を立てる。
『了解した。その願い、受け入れよう』
煩いくらいの大木のざわめきを縫うように、耳の奥にたおやかな声が滑り込んできた。
――ザアアッ。
風が、吹く。
強く、強く。
舞い散る花びらも、咲き続ける花も巻き上げて、桜羅の視界を奪っていく。
「きゃあっ」
慌てて幹から離れ、桜羅は顔の前で腕を交差させた。
桜が吹雪となって、彼女を包み込む。
腕に、足に、全身に、桜の花が纏わりついてくる。
「な、なに……?」
ふと、空気が変わったのを感じた。
遠くで聞こえていた、生活のざわめきがなくなっている。
汗ばむほどだった気温が、まるで春に戻ったかのように心地良く肌を撫でていく。
目を開ければ、あたり一面ピンク色。
「これ……桜? え、こんなに?」
どこを見ても桜、桜、桜……。
ソメイヨシノのような白に近い淡い色ばかりではない。はっきりと鮮やかなピンク色。淡い桃色に、所々交じる赤い色。
ジャリ、と靴の下で土が鳴った。
おかしい。そう思う。
この場所に、桜の木はこの大木一本だけだったはずだ。
ただひとつだけの狂い桜。それが、この神社の名物で……。
だから……。
「ここ、どこ……?」
見渡す限りの桜の群生など、見たことも聞いたこともない。
いつの間にか、知らない場所にいる。それも、たったひとりで。
ふるりと身体が震えた。
外気は春のように暖かなのに、背筋を冷たい汗がひとつ伝って落ちていく。
あれだけ煩かった風がピタリと止んでいた。耳が痛いほどの静寂が、桜羅を不安にさせる。
「だれか、いませんか? 神様……神様、そこに、いる……?」
上を見上げても、枝に腰掛ける男性の姿は見えない。
あるのは、薄淡い桜色の霞が立ち込める青い空だけ。
ぐるりと周囲を見渡しても、人の気配すら感じられない。
ふと、視界の端で花びらが数枚舞っているのが見えた。
くるくる、くるくる。
桜羅の視線が動くたびに付いてきて、そしてまた同じ場所で舞い始める。
「……こっち?」
まるで付いておいでと言われているようだった。
手を伸ばし、花びらを追う。
桜羅が追いつく前に、それは次の場所に飛んでいき、またくるくると遊び始める。
ときに走り、ときにのんびりと歩き、どこをどう動き回ったかわからなくなるほど奥へ誘われて。あるところで、花びらはふっと舞うことをやめた。
柔らかな風が吹き、案内してきた花びらたちが桜羅の頬を優しく撫でて流れていく。
その先に、ぽつんと佇む人影があった。
一面の桜色に一雫の墨を垂らしたように、長い黒髪を風にそよがせている彼。その姿は、まるでひとつの絵のように、桜羅の目に映る。
「ようこそ、桜羅」
低すぎず、高くもない声が、耳に心地良く滑り込んできた。
それは、あの卒業式の日に聞いた声とまったく変わらない、桜羅の神様の声だった。
「かみ、さま……?」
「ああ、そうだよ。おまえがここに来るのを、私はずっと待っていた。よく来たね、私の世界に」
スッと手を伸ばされる。
彼の背後には、神社で狂い咲いているものよりもよほど大きな桜の木があった。
ざあっとまた風が吹く。桜が一瞬、カーテンのように視界を奪う。
唐突に、目の前に真っ赤な鳥居が現れた。それから、細い川に架けられたアーチ状の小さな橋。こちらとあちらを分断するように川はチロチロと流れ、光を反射する。
「こちらにおいで、桜羅。ここに来て、私の手をお取り」
その橋をわたって、鳥居をくぐったら。
そしてその手を取ったら、きっともう桜羅は戻れない。
(そう、わかるのに……どうしてかな。それでもいいと、思っちゃう)
ふらふらと、誘われるままに桜羅は橋をわたった。一瞬、躊躇いながらも、赤い鳥居を通り抜ける。
「……っ」
僅かに空間が歪んだような気がした。ぼわんと撓んで、耳の奥で高い音が鳴る。
息を呑んだ桜羅をその両目で見つめながら、それでも彼は動かない。片手を差し出したまま、桜羅がその手を取ることを待っている。
ぼうっとする頭を軽く振り、桜羅は鳥居の向こう側にいる彼へと歩いていく。
「ああ……やっとだ」
自分に向けられていた手のひらを、桜羅は両手で掴んだ。
瞬間、腕を引かれ、腰に手を回される。見た目よりも広い胸、柔らかな腕の内側に抱き込まれ、驚きで息が止まる。
温かな手のひらが、首の後ろを撫でた。さらりと髪をくすぐられ、肩がすくむ。
「やっと捕まえた……桜羅。あの日、おまえを助けてから、おまえの父母と契約を交わしてから、私は一日千秋の思いでおまえが成長するのを待っていた。やっと……やっとだ。神に時間の感覚はほとんどないけれど、おまえがここに来るまで待っていた二十年あまりは、まるで刻が止まったかのように長かった」
力強く抱きしめられながら、桜羅は彼の言葉を聞いた。
気になることがたくさんあった。聞き逃してはいけない言の葉もいくつもあった。
けれどそれよりも――、
(待っていて、くれたんだ……)
その事実を知って、目眩がするほどの歓喜が腹の底から湧き上がってくる。
母が亡くなってから、桜羅を待つ人なんて誰もいないと思っていた。たったひとり世界に取り残された気がしていた。
働いて、家に帰っても誰もいない。それまであった温もりが消え失せた家は、桜羅を拒絶しているようで辛かった。
「神様は、わたしとずっと一緒にいてくれる? わたしのこと、ひとりにしない?」
抱き込まれた白い水干の袖を、ギュッと握りしめる。
力強い腕のなかにさらに囚われて、心が目の前の彼に向かって落ちていく。
「ああ、絶対に一人になどしない。私がおまえのそばに未来永劫いると誓おう。だから桜羅、おまえも絶対に私から離れてはいけないよ。いつか抱きしめたときに伝えただろう? おまえは私の花嫁だからね」
「はな……よめ……?」
「そう。幼いおまえが死にかけたとき、おまえの両親は熱心にあの社で祈っていた。あまりにも根を詰めすぎるから、私がおまえを助けると約束した。おまえの死の運命を、私は捻じ曲げた。その代償として、おまえの両親は残りの寿命の半分を私に渡すことを誓った。そして、おまえが大人になったら私がもらい受けることを了承した。神との約束は誓約だ。言葉を違えることは決してできない」
だから……、と桜羅の耳元に熱い吐息がかかる。ピクリと震えた桜羅の首筋に、彼の唇が強く押し当てられた。
「……っ、あ!」
チリリとした熱が、首筋から心臓のあたりへと駆けていく。
「桜羅……私と約束をしようか」
「っ、ふ……、やくそ、く……?」
「ああ。おまえは私の花嫁になる。私と永劫ともにあり、私の命尽きるときまでそばを離れない、という約束だ」
約束。誓い。――誓約。
神様との約束は、とてつもなく重いもの。
ここで頷けば、きっと桜羅はもう人には戻れない。
人の世界を恋しく思ったとしても、本当にもう、二度と戻ることはできないのだろう。
(でも――わたしは、戻りたい?)
誰もいない家。温もりと笑顔の消えた家。
パワハラ上司に、残業ばかりの仕事。
親戚もいない。
遊びに行くような友だちもひとりもいない。
苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、誰にも言えない。
楽しいことや嬉しいことがあっても、誰とも共有できない。
――そんな世界を、わたしは本当に恋しいと思ってる?
桜羅は、キツく目を閉じた。
残っている仕事がたくさんあったけれど、そんなものもうどうでもいい気がした。
唯一心残りがあるとすれば、両親の墓と、住んでいた家に置いていた家族の思い出くらいだろうか。
(でもそれは、あとでここに持ってこられないか聞いてみればいい)
もう、ひとりじゃないのなら、それでいい。
約束をしたら、神様だって違えることができないのなら。
「約束したら、神様はおかえりって言ってくれる?」
「ん?」
「行ってきますって言ったら、行ってらっしゃいって。ただいまって言ったら、おかえりって、そう言ってくれる?」
目の前の体に強く抱きつきながら、桜羅は願う。
ひとりぼっちはもう、いやだ。
抱きしめられる重みも強さも知ってしまったら、手放すことはできなくなる。この腕の温かさを、ずっと独り占めしていたいと思ってしまう。
首筋に埋まっていた神様の頭が、ゆっくりと動いた。ちゅ、と首筋で濡れた音がした。
「……もちろん。それを桜羅が望むのなら。だが……おまえの行くところには私もともに行くからな。ひとりにすることはありえないから、言う暇があるかな?」
冗談めかしたように、桜羅を縛る言葉を紡ぐ神様に、彼女はくすりと笑った。
ふたつの眦から、雫が流れて落ちていく。
風が吹いた。地面に吸い込まれる前に、涙が吹き上げられて空中で消えていく。
「ふ、ふふ……うん。じゃあ、約束、します」
応えた瞬間、彼は彼女の首筋に喰らいついた。優しく歯を立てて、浮かんだ紅玉を舌で舐め取る。唇で吸い付いて、そこに花の形の跡を残す。
心臓が強く脈打って、桜羅は思わず目の前の大きな体へとしがみついた。
ぶわり。
足元から光が迸る。桜羅の髪も、彼の長い黒髪も巻き上げてふたりを包み込む。
体の中のなにかが、光に囚われたように感じる。
チリ……チリリリ。
どこかで鎖がこすれたような音がした。
「これで、終わり? これでわたし、神様の……は、花嫁さん?」
「ああ、ようこそ桜羅。私の花嫁。私の半身。これからは、私がおまえのそばにいる。どんなことからも守り、どんな願いも叶えよう。だから桜羅も、私のどんな我儘でもその柔らかな心で聞いておくれ」
甘い声が、桜羅の心を絡め取っていく。
頷く桜羅を片腕に抱き上げ、彼は美しい容貌に花がほころぶような笑みを浮かべた。
「私の真名は花霞桜之大彦尊という。だが……」
桜羅を見つめる漆黒の瞳が、柔らかく細められた。
甘さを浮かべたその微笑みに、桜羅の頬が熱を持つ。本当に綺麗な神様だと、そう思う。
「だが、おまえには、桜霞と呼ばれたい。……呼んでおくれ、桜羅」
甘えるような声音にどきりとする。
桜羅しか映さない瞳に取り込まれてしまったかのように、視線をそらすことができない。
「桜霞さん……」
「嫌だ。桜霞と呼んで、桜羅?」
「うう……桜霞」
「ああ……この名は、おまえにしか許さない。おまえしか呼べない名だ。他の誰にも許しはしない。愛しているよ、私の花嫁」
近づいてきた唇が、桜羅のそれを優しく奪った。
なんども重ねられ、そして、呼吸を奪うほど激しく絡められる。
ふわりと風が吹いて、鼻先を甘いような香りが掠めていく。どこか清涼感も感じさせる香りだ。
「では、桜羅。私の屋敷に行こうか。それで、花見をしよう。今年も、昨年も、できなかっただろう? 幸いここの桜は枯れることはない。花を落とすこともない。いつでも花見ができる。思えば人間は大変だな。桜を求めて南から北への大移動だ」
それに、と桜霞は続けた。
「桜羅は桜が好きだろう? おまえの母も桜が好きだった。毎年見ていたから知っている」
桜霞の言葉を聞いて、桜霞は彼の首筋に顔を埋めた。鼻腔をまた、あの香りが擽っていく。これは――桜霞の香りだ。桜霞から、桜の匂いがする。
「――いつでも、私はおまえを見ていたぞ」
切なさの混じったような声音に、桜羅の涙腺がまた決壊を始めようとする。ツンと鼻の奥が痛んで、桜羅は慌てて深呼吸を繰り返した。
「あの神社の桜が枯れないのも、桜霞がいたから?」
「ふふっ、ああ、そうかもしれないな」
腕のなかで力なくくったりとする桜羅を抱き上げたまま、桜霞は土を踏んで歩き始める。サクサクと心地よい春の音が、彼の足元から響いてくる。
桜霞の広い肩越しに、遠ざかっていく真っ赤な鳥居を見た。
これでもう、現世とはお別れだ。
どんどん離れていく境界が視界から無くなっても、桜羅の心は凪いだまま。
春の桜の神様に囚われて、見えないところまで落ちていく。
けれどきっと、もう二度と淋しいと感じることはないのだろうと、そう思う。
この春の神様は、片時も桜羅を離すつもりがないようだから。
いつか現世を恋しく思う時も来るだろう。だが、いまこのときの選択を後悔することは、生涯ないに違いない。
――桜が吹雪いて、ふたりの世界をザアザアと閉ざしていく。




