砂地に降る雨
気が付くと、私は砂の上にいた。空は青く、匂いは無く、風は吹いているのか砂粒が流れていく。しかし、私は何も感じない。
夢だ。そう思った。
そこでふと、寝る前にしこたま酒を飲んだことを思い出した。あぁ、だからこんな夢を見るのかと合点がいった。納得すれば気は楽で、はてさてどうしたものかと思い悩む。このまま黙っているのも暇だ。目を覚ませば良いのだろうが、そんな兆しは表れず、私は呑気に寝ているらしい。では。歩いてみようかと、足元から顔を上げれば、あるのは砂と空の境ばかりで、それ以外には何も無い。此処が砂漠であったなら、私は感動したであろうに…。そう思えば、この景色は残念でならない。
眼下に広がるこの砂は、太陽の光に染まり、夜の冷たさを知る砂ではない。砂場の砂が精々で、路肩の石を砕いた色と寸分違わぬ色をしている。なんと貧相な頭だろうか。私の頭はあの砂漠の美しさを描くことは出来ぬのだ。私は悲しい気持ちになった。
仕方なく、何の起伏もない砂の上を歩く。景色は変わらない。私は進んでいなかった。足が重い、砂に足を取られているわけではない。ただ地がない、それだけであった。
足には何の感触も無く、空の中を歩いているようである。水の中を歩くより、柔らかな砂の上を歩くより、空の中を歩くことこそ、人は何より辛いのだと、私は夢で知った。何も無い、何も無いのだ。それもそうだと、私はちゃんと知っている。私は横になって寝ているのだから、あるのは私を挟んだ布団の隙間、そればかりである。ちゃんと私は知っている。だが、私は歩きたいのだ。だからこそこうして、自らの太腿を持ち上げるなんぞ愚かな真似をして、それでも先へ行こうとするのだ。
感じるものは空ばかり、足がついたと思ったその場所は、ただ足を伸ばしきっただけの仮初で、地など永劫ありはしない。これが流砂であったなら私は感嘆しただろう。これが底無し沼であるなら、私は思い残すことなどないだろう。だが、あるのは布団の隙間ばかりで、己の浅はかさを思い知る。
また足元を見た。己の素足と砂がある。これほどリアルな砂であるのに、足は空を掻いている。幼き頃、家族と行った海の景色を覚えているのに、浜を歩いたその感触を私は一切覚えてない。潮の香りも、さざ波も、私は覚えていないのだ。そんな肌の感覚すらも、私は覚えていられないのだ。思い出の作り甲斐がない男だと、太腿を抱えながら思った。
もう、歩けなかった。足が重い、きっと目覚めは最悪だろう。私を覆う布団の中で、足の重さに嘆くのだろう。目覚めることが少し億劫になった。
歩くのをやめた。
すると、不思議なもので私は目を覚ました。まだ部屋も外も暗く、慣れぬ目は闇しか映さない。喉が渇いた。
布団を剥がし、私は台所へと向かう。足が、布団を踏みしめる。あぁ、この感覚だ。布団を離れ、畳に変わり、冷たい板間の床を私は歩いている。やはり足は疲れ切っていた。しかし、この確かな地を踏みしめ、蹴り出し、前へと進む感覚から逃れられず、わざと遠回りをしてみた。その頃にはすっかり私の目も慣れて、壁を手探りすることもなく、闇の中を歩いていた。
今日は月が出ているようだ。シンクの奥の小窓には、白い明かりが映っている。もしかすると、あれは街灯なのかもしれない。だが、私が月だと思ったのだから、あれは月でいいのだ。
蛇口を捻ると、水はあっさりと流れ出し、透明なグラスの中を透明な液体が満たしていく。どちらも透明であるのに、私はこの二つの輪郭をしっかりと認識している。不思議なものだと思いながら、私は喉を潤した。
苦い、とても苦い。そして、喉が痛い。水の冷たさが、乾いた喉の汎ゆる壁を殴り付ける。口の中には不快な苦味が広がって、私は堪らず吐き出した。シンクに流れ出たそれは、唾液が混じった水に見えた。
そうだった。酒をしこたま飲んだ後、私は堪らず吐いたのだ。外で飯を食い、普段は飲まぬ酒を飲んで、ふらつく足で素面を装い、家に帰るその帰路で、迫り上がる苦味に耐えきれず、固形物が混じる液体を私はその場に吐き出した。前屈みになり、崩れ落ちそうになるのを膝を押さえることで耐え、背骨と肩を跳ねさせながら、呼吸ができぬ恐怖を味わい、道の真ん中でげーげー吐いた。遠くにぼんやりと見える街灯の明かりが、泣きたくもないのに溢れた涙で、優しい月に見えたのを思い出す。
結局私は崩れ落ちた。表面は冷たく、中は生暖かい、饐えた臭いのするものの真横に私は倒れ込んだのだ。これは少し前、私の中にあったものたちだ。口の中も喉からも、それと同じ臭いがしていて、ヒリヒリ…ヒリヒリ……と、私の中を焼いている。垂れ流しになっている唾液で皮膚さえ溶け、やがては焼けていくのではないかと、そんなことを考えた。だが、それは間違いであると知る。人とは、人の中身とはこれほど臭うものであろうか。鼻を覆いたくなるほどの生々しい酸っぱい臭いが、生きているものの臭いであろうか。きっと、私は腐っている。私の中は腐りはじめている。これはその臭いだ。肉が焼けているのに、こんな臭いになるわけがない。私の肉が腐りだし、こんな臭いになったのだ。
私が吐き出したものたちも、私の中に入ることで、腐りきってしまったのだろう。少し、申し訳なく思う。
この路上で、私は腐っていくだろう。烏は私を食べるだろうか。こんな腐肉で役に立つなら、悪くないと思った。しかし、それは叶わず、突然冷たい衝撃が私を襲った。バシャッと音がして、地面が濡れている。水だった。吐瀉物に水が混じり、私の服と顔に跳ねた。
「人んちの前で何してんだ!この酔っ払い!」女とも男とも、私の耳は判別できなかった。しかしそれでも「何を言う、私は素面だ!」と、地面の上で叫んだ気がする。あぁ、そうだ。その後、直ぐに箒で追い払われたのだった。歪む地面をしっかり踏みしめ、私は真っ直ぐ歩かねばと心に刻みながら、小走りになって逃げたのだ。時折街路樹に飛び込んで、時に電柱に身体を打ち付け、それでも家に帰ったらしい。
律儀に寝間着に着替え、布団まで敷いて、私は横になっていた。その辺りの記憶はないが、やはりしっかりしていたのだなと、私はもう一度水を飲んだ。乾いた味がした。
その後、私はのそのそと布団に潜り、目を閉じた。寝たのか、起きていたのか、目を開けた私にはわからなかった。外は暗かった。普段は付けて寝る小玉電球が、薄灰色に染まっている。窓の外も、同じ色をしていた。
汚れた着替えをどうしたのか、妻が片付けたのか、そもそも妻などいたのか、それすらわからない。ただ、空気は湿っていて、もう直ぐ雨が降るのだろう。やはり私は、乾いていた。




