奇妙な夢
【夢の始まり】
倉持譲は、平凡な男だった。都内のデザイン事務所で、建築パースやCAD図面の地道な修正をこなす製図技師。彼の仕事はミリ単位の精密さを要求されたが、そこに創造性が入り込む余地は少なかった。
異変が始まったのは、ひと月ほど前のことだ。 眠りに落ちると、彼は決まって「あの都市」にいた。
そこは、既知のどの都市とも似ていない場所だった。湿った石畳が、幾何学的な角度で交差し、無限に続くかのような迷路を形成している。空は常に薄紫色の黄昏に染まっており、光源は見当たらないのに、建物は奇妙な燐光を放っていた。
何よりも倉持を捉えたのは、重力を無視した建築群だ。塔は螺旋を描きながらあり得ない角度で天に伸び、アーチは物理法則を嘲笑うかのように宙で繋がっている。
夢だというのに、ディテールは執拗なまでに鮮明だった。石畳のひび割れ一本、壁を伝う蔦の葉脈に至るまで、全てが現実の重みを持っていた。
朝、目覚めると、倉持は強迫観念に駆られた。忘れてはいけない。あの風景を、失うわけにはいかない。
彼は製図用の精密なペンを握りしめ、無地のスケッチブックに向かった。事務所で図面を引く時以上の集中力で、夢の断片を紙に定着させていく。遠近法も、光の陰影も、夢で見たままに。
それはもはや趣味の範囲を超えていた。描き留めなければならないという、説明のつかない焦燥感。夜ごと見る夢と、日中それに取り憑かれてペンを走らせる現実。スケッチブックは瞬く間に一冊目が埋まり、倉持の部屋の隅に二冊、三冊と積み上がっていった。
【現実との同期】
スケッチブックは五冊になった。倉持は事務所の大型デスクを無断で使い、休日出勤と偽って、それらのスケッチを繋ぎ合わせる作業に没頭していた。
夢の中の自分は、同じ場所を何度も訪れているわけではなかった。毎晩、少しずつ未知の区画へと足を踏み入れていた。昨夜は水路が縦横に走る地区、一昨日は巨大な歯車がゆっくりと回る時計塔の内部。彼は夢の中で自分が「歩いた」道筋、見上げた角度、曲がり角の目印を忠実に再現し、それらを統合していった。
やがて、彼のオフィスの一角に、巨大な「夢の都市」の地図が広がり始めた。それは鳥瞰図であり、同時に内部の透視図でもあった。現実のどの都市よりも複雑で、有機的な構造を持つ地図だった。
その日、倉持は偶然、仕事で南米の未開拓地域に関する資料を閲覧していた。クライアントがジャングルの中にリゾート施設を建設する計画を立てており、その地形データを調べていたのだ。
モニターに映し出された衛星画像。緑深いジャングルの中に、不自然な円形の空白地帯があった。何かの遺跡だろうか。そのパターンを見た瞬間、倉持は息を呑んだ。
彼は自分のスケッチブックの四冊目を慌てて開く。そこには、彼が「三つの噴水の広場」と名付けた場所の俯瞰図があった。広場の敷石のパターン、円形のデザイン。それが、衛星画像の地形と、不気味なほど一致していた。
冷たい汗が背中を伝った。
彼は震える手で、自作の夢の地図と、衛星画像のデータベースを照合し始めた。最初は偶然だと思った。だが、一致点は次々と見つかった。
夢の地図で「崩れた凱旋門」と記した場所は、サハラ砂漠の奥深く、砂に埋もれた誰も知らない廃墟の写真と一致した。夢で描いた「螺旋階段の灯台」は、ヨーロッパの断崖絶壁に立つ、古地図にしか載っていない廃墟そのものだった。
世界中に点在する、忘れ去られた場所、あるいはまだ発見されていない場所。それらが、倉持の夢の都市の中で、一つの街並みとして再構成されていた。
彼のスケッチは、単なる空想の産物ではなかった。それは、現実世界の失われたピースを集めて作られた、恐ろしいほど正確な「もう一つの世界地図」だった。
【都市の意志】
現実の地図と夢の地図が同期している。その事実に気づいて以来、倉持の見る夢はさらに密度を増した。もはや眠ることは休息ではなく、未知の領域を踏査する「作業」だった。
彼は夢の中で、ある特定の建物に強く引かれているのを感じていた。それは都市の中央に位置しながらも、なぜか今まで近づけなかった場所。外観は巨大な円形劇場にも似ていたが、内部はドーム状の天井を持つ図書館のようだった。
ある晩、彼はついにその建物の入り口に立った。重い扉が音もなく開く。内部には無数の書架が並び、膨大な量の書物が収められていたが、どれも背表紙に題名がなかった。
彼は何かに導かれるように、ドームの中央へと歩を進めた。そこには黒曜石のような滑らかな台座があり、一冊だけ、ひときえ大きな本が開かれて置かれていた。
倉持はそれを覗き込んだ。上質な羊皮紙のように見えるページ。だが、そこには何も書かれていなかった。完全な「空白」だった。
翌朝、倉持は狂ったように自作の地図を広げた。夢で見た図書館。それが現実のどこに当たるのか。
彼はこれまで集めた衛星画像と古地図のデータを、自作の地図にマッピングしていった。ジャングルの遺跡、砂漠の廃墟、断崖の灯台。それらの位置関係を計算し、都市の中心点を割り出す。
答えは、あまりにも身近な場所だった。
彼が毎日通勤で通り過ぎる、古びた市立資料館。それも、普段は閉鎖されている地下の特別書庫。そこが、彼の地図が示す「中心点」だった。
その日の夕方、倉持は閉館間際の資料館に滑り込んだ。幸い、古い建物はセキュリティが甘かった。彼は職員の目を盗み、立ち入り禁止の札がかかった地下書庫への階段を降りた。
カビと古い紙の匂いが立ち込める中、懐中電灯の光が書架の列を照らす。その奥に、開けた空間があった。
夢で見た光景と寸分違わぬ光景が、そこにあった。 黒曜石のような台座。そして、その上に置かれた、一冊の古びた書物。
倉持は引き寄せられるようにそれに近づき、恐る恐る、その開かれた「空白」のページに指先を触れた。
【新たな地図】
倉持の指先が、空白のページに触れた瞬間。
世界が反転した。彼の頭脳に、膨大な量の情報が奔流となって流れ込んだ。それは、彼が毎晩見ていた「都市」の全景だった。彼がまだ訪れていない無数の小路、地下を流れる水路の全容、天を突く塔の頂きからの眺め。
それは視覚情報だけではなかった。その都市を構成する一つ一つの場所の「記憶」だった。
ジャングルの遺跡が、かつて栄華を極めた文明の祈りの声。砂漠の廃墟が、忘れ去られた王朝の最後の日の乾いた風。断崖の灯台が、嵐の夜に難破した船乗りたちの絶望。
彼は理解した。 あの都市は、現実世界から忘れ去られた場所、失われた記憶、あるいはまだ誰にも発見されていない未来の場所の「集合的無意識」そのものだった。
そしてこの書物は、それらを記録し、繋ぎ止め、保存し続ける「世界の記憶」の目録だった。
倉持は、この都市によって、この書物によって、次の「記録者」として選ばれたのだ。先代の記録者が誰だったのか、いつまでその役目を担っていたのかは分からない。ただ、空白のページが、新たな地図製作者を待っていた。
彼は地下書庫からどうやって帰宅したのか、よく覚えていない。
自室に戻った倉持は、自分のスケッチブックを開いた。以前は夢で見た場所しか描けなかった。だが今、彼のペン先は、まるで意志を持ったかのように紙の上を滑り始めた。
夢では見えなかった都市の空白部分。巨大な図書館の裏手にある中庭。時計塔のさらに上空に浮かぶ、逆さの尖塔。それらが、倉持の記憶からではなく、彼の指先から直接、紙の上に生まれていく。
彼の奇妙な夢は終わっていなかった。いや、むしろ、本当の意味で始まったばかりだった。 倉持譲は、世界の忘れられた地図を描き続ける。彼自身が、その地図の一部になる日まで。
(了)




