闇の魔導書
この屋敷は、どうやら王国の中でもかなりの辺境に位置しているようだった。
周囲に人の気配はない。屋敷を訪ねてくる者も、一人として見当たらなかった。
フローレンスと二グレスは部屋を出て、屋敷の中を探検しに行った。
一階の奥には食堂とキッチンがあり、中に入っていくと後ろについてきていたニグレスが言った。
「フローレンス、君は朝から何も食べていないだろう?
僕が何か作ってあげよう」
近くにあったフライパンを手に取り、ニグレスはにっこりと笑う。
「ドラゴンって、料理もできるの?」
「もちろんさ。僕は火を操る魔物だからね」
「……あなたって、本当に何でもできるのね」
半信半疑ながら、フローレンスは苦笑した。ニグレスには驚かされてばかりだ。
「君が眠っている間に近くの村に行って食料を調達してきたんだ。小さい村だけれど一通りのものは揃えられたよ。」
そう言って、二グレスはキッチンにあらかじめ置いておいた食料たちを指さした。
君の好きな、スピナッチとチーズ入りのオムレツを作ってあげよう」
「……どうして、それを知ってるの?」
驚きで、フローレンスは目を見開いた。
それは、彼女が幼い頃、孤児院で養母が時折作ってくれた特別な料理だった。
普段のオムレツは具もなく味気ないものだったけれど、ときどきチーズや他の具材を入れてくれたあの味は、彼女の大好物であった。
「言っただろう? 僕は君のことを、ずっと昔から知っている」
ニグレスは、それ以上の説明を避けるように、はぐらかした。
* * *
食事を終えると、フローレンスとニグレスは屋敷内の探索に乗り出した。
ヴィオレッタが幼少期に使っていたという自室には、特に目立った収穫はなかったが――
書庫では、想像以上の成果があった。
「見て、ニグレス……! まるで魔法学校の図書室みたいな蔵書の量だわ。
しかも、どれも闇魔法に関する書物ばかり……」
フローレンスは感嘆の声を上げた。
ずらりと並ぶ重厚な背表紙には、聞いたこともない呪文や理論が記されている。
この蔵書の量だけでも、この家の主が闇魔法の名家だったことがうかがえる。
「ここには、学園では絶対に教わらないような禁術や秘術も、眠っていそうね……」
フローレンスは呟くように言った。
「まずは、基本的な呪文集みたいなものがあるといいのだけど」
彼女が書棚を探りながら言うと、ほどなくしてそれらしき書物が見つかった。
魔術師は、呪文を唱えることで自らの魔宝石を媒介に魔法を発動する。
けれど、フローレンスは本来、光魔法の使い手だったため、闇魔法の呪文についてはまったくの初心者だった。
「この魔導書を読めば、基本的なことはわかると思う。
あとは、ドラゴンに関する専門書もあればいいのだけど……」
「僕について知りたいことがあれば、僕に聞いてくれればいい。
人間が僕を使役するために唱える呪文だって、ある程度は知ってるよ」
そう言って、ニグレスは胸を張ってみせた。
「助かるわ。じゃあ、今晩はこの魔導書を読み込んでおくわね」
フローレンスがそう告げたとき――
彼女の目に、書棚の奥でひときわ異彩を放つ一冊の書物が映った。
『禁じられた魔法集』
その背表紙に刻まれた、ただならぬ響きのタイトルに、彼女の背筋がぞわりと震えた。
学園では決してお目にかかれないような一冊。見るだけで罰せられそうな、危険な香りがする。
それでも、なぜか目を離すことができなかった。
「確かに、姿を入れ替える魔法なんて、そうあるものじゃない。
もし記されているとしたら……それは禁忌の領域にある魔法なのだろうね」
ニグレスは意味ありげに笑った。
好奇心に勝てなかったフローレンスは、そっとその書を手に取る。
息を呑みながらページをめくると、目に飛び込んできたのは、見慣れない文字の羅列だった。
「……これは、読めないわ。古代文字ね。スペルも文法も、現代のものとはまるで違う」
魔法学校では、古代文字は高等課程に進んでから学ぶ科目だ。
まだ基礎課程を終えたばかりのフローレンスにとって、それはまるで暗号のようだった。
「これは、解読するのに……時間がかかりそうね」
彼女は肩を落とした。
「仕方がないさ。気長にいこう」
ニグレスは優しく言って、そっとその肩に手を置いた。




