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断末の境界

 夜の闇を照らす街灯が一つだけ壊れ、その下に続く路地は漆黒の影を帯びていた。私は、どこかから聞こえたかすかな悲鳴に誘われるように、奥へ奥へと足を進めてしまった。薄暗く湿った空気がまるで重石のように肺へのしかかり、微かに鼻を突く血のにおいが、不吉な予感をいっそう膨らませる。


 やがて路地の突き当たりに、使われなくなった倉庫のような古い建物があった。ドアはかろうじて壁に引っかかっているだけで、鍵も外されている。血のにおいがここから漂っているのだろうか。嫌な胸騒ぎを覚えながら、私はそっと中へ踏み込んだ。


 中は、埃まみれの空間に朽ちた木箱やガラクタが散らばっている。天井の照明は壊れ、かすかな月の光がガラス窓を割って差し込むのみ。その薄明かりの先に、床へうずくまる人影が目に入った。服はぼろぼろに裂かれ、むき出しの皮膚は無数のかさぶたや汚れで変色している。かろうじて意識があるようで、小刻みに震えながらうめいていた。


「大丈夫ですか?」


 私は声をかけ、近づこうとする。しかし次の瞬間、背後から冷たい金属音が鳴った。振り向いたときにはもう遅い。(さび)びついた鉄パイプが私の肩を力任せに打ちつけ、衝撃で床にうつ伏せに倒れこんだ。頭がぐらぐらと回り、視界がにじむ。何が起こったのか、理解が追いつかないまま体勢を立て直そうとするが、すぐに上から容赦ない体重がのしかかってくる。


 「ああ、困るんだよ。こんな夜中に勝手に入ってきてもらっちゃあさ」


 うわずった男の声が耳元に響く。私は思わず声を上げようとするが、男は私の髪をひっつかみ、口を床に押しつける。顔を強制的に横に向けられたため、倉庫の隅が見えた。そこには何か黒ずんだ液が広い範囲に飛び散っており、よく見ると――肉の塊のようなものが放置されている。鼻を裂くような鉄臭さと腐敗臭が混ざり合い、吐き気が込み上げる。


 「おっと、気持ち悪いか? でもまあ、心配するな。すぐに慣れるよ。いや……慣れる前に終わっちゃう、かもな」


 男は愉快そうに鼻で笑いながら、私の腕を強引にひねり上げる。痛みでまともに呼吸ができない。肩関節が抜けそうな感覚が身体を襲い、無意識に悲鳴を漏らすと、男は嬉しそうにぬかるんだ床の上へ私を転がした。目の前に、先ほどの人影が見える。血と泥に塗れたその人物は、顔をわずかにしかめながら私を見つめているが、助けを求める力はもう残っていないようだ。 


 私を蹴り飛ばした男は、どこからか錆びた刃物を取り出すと、先端をぺろりと舐めて見せる。そこには既に乾いた血がこびりついている。月光でちらちらと赤黒く照らされ、嫌でも視界を奪う。男はそれを握りしめたまま、片足で私の腹を踏みつけながら顔を覗き込む。


 「こういうのはな、じわじわやるほうが楽しいんだぜ」


 そう言うや否や、刃が私の二の腕をかすめるように押し当てられた。ぴりりと皮膚が裂け、途端に血の筋が浮かび上がる。強烈な痛みに声をあげるが、男はかまわず少しずつ刃を滑らせ、浅く長く傷をつけていく。体が硬直し、息がまともに吸えない。じんじんと熱を帯びる二の腕からは血が垂れ、床に染みを作っていく。 


 「痛ェ? いい声出しそうだなお前……」


 弱々しく身をよじる私を見下ろしながら、男は刃物をあえてゆっくりと動かす。私の血がほとばしるたび、男は満足そうに唇の端を釣り上げる。私の喉から洩れる苦痛の声は、どうやらやつの“娯楽”になっているらしい。唾液が混じった嫌な吐息をかけられ、皮膚が総毛立つ。なんとか抵抗しようと手足をばたつかせるが、力が入らない。恐怖と痛みで呼吸が乱れ、視界が揺らぐ。


 隙を見て足を蹴り出そうとするが、見透かされたように腕をつかまれ、背中から引き起こされてしまう。次の瞬間、何か固く冷たいものが頬に当たった。鉄パイプだ。男は私の顔面を固定すると、そのパイプを強く握りしめ、頬にゆっくりと圧力をかけていく。ちょうど頬骨が砕けかける手前で、男は一度緩めて言う。


 「壊しちゃダメだ。まだ楽しみが残ってるんだからなぁ」


 そのまま私を引きずり起こし、壁際へと叩きつける。背中の骨がきしみ、意識が遠のきそうになるが、男は容赦なく私の喉にパイプを当てて押さえつける。呼吸が止まる。仰ぎ見ると、男の顔が憎悪と狂気に満ちた笑みを浮かべている。遠くで、先ほどの傷だらけの人物が薄く呻き声を上げているが、その声はどこか遠い。今の私は、私自身の痛みに押し流されそうになっていた。


 「そんな目をすんな。ここにいたあいつらも、みんな同じ顔してた」


 嘲笑する男の声が耳鳴りに混じる。次の瞬間、男は刃物を振り上げ、私の肩を深く突き刺す。思考が真っ白になるほどの激痛に襲われ、濁った悲鳴が自分の口から飛び出す。飛び散る血しぶきで自分の視界さえ赤黒く染まり、呼吸をととのえようにも酸素が足りない。肩の内部を刃物がえぐり、筋肉が裂ける嫌な音が頭の芯まで響く。 


 「こんだけ血を出しても、まだ生きてるんだな。案外タフじゃねぇか」


 冷ややかな言葉を聞きながら、腕から指先までがびりびりと痺れ、手足が言うことをきかない。頭の中で「逃げなければ」と叫び続けているのに、体は全く動かせない。振り下ろされた刃が骨に当たって歯止めになったのか、男は乱暴に刃を引き抜き、床へ血を撒き散らす。喉がひゅうひゅうと鳴り、吐きかけの呼吸だけが辛うじて生命をつなぎとめている。


 すると突然、男が私の髪を鷲掴みにして起こし、背後へ回り込んだ。のたうち回る私の背中に片腕を回し、もう片方の腕で刃物を突き立てようとしている。脳が危険を知らせるが、痛みと失血ですでにまともに抵抗できない。乱れた意識の中、最後に浮かぶのは自分の血で汚れた倉庫の床と、こちらをじっと見つめる傷だらけの人影。彼(彼女)はもう声を上げる力がないのか、ただ絶望を帯びたまなざしを向けている。


 「そろそろ終わりにしてやるよ。少しは楽になりたいんだろ?」


 すぐ耳元で、男の低い声がささやいた。冷え切った銀色の刃が私の首に触れる。肌を切り裂く感触が走ると同時に、一気に呼吸が詰まる。喉に走る鋭い痛みが、心臓の鼓動を倍速にさせ、鼓膜を割るほどの心拍音が頭に響く。口を開けても声にならず、鮮血だけがどくどくと溢れ出ていく。体を震わせようとしても、貧血のせいで力が入らない。


 最後の意地で首を振りほどこうとした瞬間、男は深く刃を沈めた。ぐしゃり、と喉の奥が裂ける生々しい音がし、気管と血管が断ち切られる熱が全身を駆け巡る。顔から血が噴き出しているのがわかるが、すぐに感覚が麻痺しはじめ、何がどこでどうなっているのか分からなくなった。息を吸い込もうとしても、肺には血しか流れ込まない。視界が赤から黒へ移り変わり、周囲の音が遠ざかる。


 男が何か言っているようだが、もう耳には届かない。(かすみ)がかった意識の中、見上げると、壊れた屋根の隙間から月の光が差し込んでいた。背後で、傷ついた人影がまたひとつ息を詰まらせるかのように震えている。あの人も私と同じ道を辿るのだろうか。あるいは、私の死が“次”の拷問の始まりなのか。


 思考がまるで水に沈むように薄れていく。体温が奪われ、吐き出す血はもう温かさを感じない。ただ、倉庫全体がぐるりと回るように暗転し、私は自分がゆっくりと床へ倒れていくのをぼんやりと認識した。喉の奥からは、もはや何の声も出ない。混濁する視界の先、血だまりの上に散らばった刃物や肉片が、月明かりに照らされて鈍く輝くのを見届けると、意識は完全に途切れていく。


 最後に感じたのは、男が私の頭を踏みつける重み。そこから先はもう、痛みすらなく、ただ狂気に染まった倉庫の暗闇だけが、私の最期を――まるで娯楽の終わりのように、静かに見下ろしていた。

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