膿を抱く廃坑
古びた木製の看板には、「立入禁止」の文字が白いペンキでかすれ、苔に埋もれていた。その奥に口を開ける坑道の入口は、朽ちかけた支柱が今にも崩れそうなほど歪んでいる。黒い闇が奥へ続き、そこからは生臭い風が重く漂ってきた。どうしてこんな場所に足を踏み入れようとしたのか、自分でもわからない。けれどどこからか聞こえるような微かな呼び声が、私をどうしようもなく誘うのだ。
坑道へと足を踏み入れた途端、空気はひどく湿っており、腐敗と鉄錆の混ざったような異臭が鼻を刺す。古いレールがところどころ折れ曲がり、石炭の破片らしき黒い粉末が足元を覆っていた。薄暗い中を懐中電灯で照らすと、壁には無数の亀裂が走り、そこからべっとりとした泥水が染み出している。ぬめりつく床を気味悪く思いながら進むと、不意に踏みつけたものがゴリリと嫌な音を立てた。
光を当てると、それは白く小さな骨だった。人間のものか、動物のものかはわからない。しかし、骨が剥き出しで転がっている事実だけで、嫌な悪寒が背筋を伝い、思わず奥歯を噛みしめる。さらに奥へ行くほど、空気は重さを増し、壁際には奇妙な道具類が散乱していた。錆びたチェーンや刃物の破片、古い鉱山道具に混じって、人為的な拷問器具のようにも見えるものが転がっている。鉄の輪に鋭い突起が何本も付いていたり、両端に針のような金属を埋め込んだ棒切れがあったり……正気の沙汰とは思えない品々が散見された。
さらに進むと、大きく崩れた岩の塊が道を狭めていた。隙間をすり抜けるようにして先へ向かうと、そこは小さな空洞になっていて、目に飛び込んできたのは拷問の末に殺された“痕跡”——いや、“死体の集積所”と呼ぶべき光景だった。床には、両脚を鋸で引き裂かれたらしき胴体が横たわっている。胴体には無残な焦げ跡があり、ところどころ薬品をかけたような焼けただれが混じっている。腕は見当たらない。切断面はザクザクと荒々しく、骨がむき出しに裂かれているのが見えた。
壁にも人間の体が打ち付けられていた。手首と足首を鉄の杭で打ちつけられ、身体が無理やり引き伸ばされている。その皮膚はじわりと裂け、そこから黄白い膿と血が滴り落ちていた。顔は見分けがつかないほど腫れ上がり、片目のあたりは潰れたようにめくれ上がっている。口には鉄製の器具が噛まされているのか、奥歯が砕けて露わになり、唇がげっそりと裂けている。その下顎は不自然に垂れ下がり、まるで呻きを上げているかのような凄惨な形をしたまま動かない。
壁際には、おぞましいほど整然と並べられた“道具”があった。錆びた鉤爪や、刃がギザギザに加工された短剣、肉を剥ぎ取るための皮剥ぎ包丁らしきもの……見ただけで背筋が凍る。まるでここが、拷問を行うために用意された“部屋”であることを示す証拠だった。周囲の壁には、何者かが爪や血で記した文字とも落書きともつかない痕があり、一部は意味を成しているようにも見えるが、読もうとすると脳が警鐘を鳴らすように頭痛が走る。
そのとき、かすかな人間の声が聞こえた。死に絶えた者の声のはずがない。では、生きている者がまだ……? 混乱のまま声のする方へライトを向けると、倒壊しかけた炭鉱の壁の向こうに、わずかな隙間が見える。そこを抜けると、先ほどよりもやや広い空洞が広がっていた。まばらな明かりは、誰かが持ち込んだのかランタンのようなものが壊れかけの台の上で揺れている。その薄明かりに照らされていたのは、拷問の痕跡が生々しく刻まれた人間の姿だった。
両手両足を針金で縛られ、鉱山のレールに繋がれている。その肌は鞭のようなもので何度も打ち据えられたのか、至るところに裂け目が走り、血が固まった痕跡だらけだ。生気のない目がこちらを捉えた瞬間、微かに唇が震え、くぐもった声が滴のように零れ落ちる。拷問の末に喉を痛めたのか、言葉にはならない。ただ、求めるように唇を開き、何かを訴えようとしている。そこに宿るのは、痛みなのか恐怖なのか、それとも“まだ生きている”という怒りと執念なのか。
私はすんでのところで駆け寄ろうとする。しかし次の瞬間、さらなる足音が聞こえた。乾いた土を踏む鈍い音。どうやら、この拷問を続けている“誰か”が戻ってきたらしい。背筋が戦慄で強張る。慌てて声をかけようとするも喉が震えて言葉にならない。見えない奥の闇から、ガリガリと地面を引きずる何かの音、低い吐息。それが近づくにつれ、空洞の空気がいっそう濃厚な悪意を帯びていく。
やがて闇から這い出してきたのは、一見人間のように見えなくもないが、その顔は血と泥で汚れ、左頬には深い切り傷があり、中の歯がむき出しになっていた。目はぎょろりと血走り、片耳が裂けたまま乾いている。持っているのは、先端が異様に尖った金属の棒で、まるで針金を束ねて鍛造したかのような形をしている。道具の先端に肉片が張り付き、先ほどの死体の一部なのか細い腸らしきものがべろんと垂れ下がっていた。
その“何者”は、拷問されている人間の前に立つと、ぎちぎちと歯を鳴らすような音を立てた。その後、私の存在に気づいたらしく、ぎろりとこちらを向く。その目にどんな感情が宿っているかはわからない。ただ、白目と黒目の境界線が崩れたような目をこちらに据え、金属の棒を引きずりながら数歩近づいてきた。声にならない唸り声が喉の奥から漏れ、炭鉱の空洞にこだまする。絶対に逃げねばならない。そう頭で思うものの、体はすくんで動けない。
しかし、次の瞬間、“何者か”は拷問台の人間に向き直り、棒をあらぬ方向へ突き刺した。ぐちゃり、と生々しい音とともに、悲鳴とも衰弱しきったうめき声ともつかない声が辺りに響く。その人間は断末魔のように身を捩るが、針金は骨や腱を穿ち、逃れられない。肉が裂ける響きに合わせて血飛沫がほとばしり、空洞の岩肌を染める。視界が凍る。恐怖と絶望が入り混じり、思考が一瞬で崩壊しそうになる。
私は本能のまま、空洞の出口を探して走り出す。走りながら、ぬめりついた足元で別の死体を踏み、滑りそうになるが、そのまま必死に姿勢を立て直す。背後では、拷問されている人間の絶叫がぐちゃぐちゃと掻き混ぜられ、溺れそうなほど凄惨な音がこだまする。心臓が激しく脈打ち、頭の中で鐘が鳴り響く。懐中電灯が揺れ、光が闇を切り裂くようにちらちらと廻る。通ってきた狭い隙間を必死で潜り抜け、倒壊した岩の塊を乗り越え、来た道を何とか辿る。
やがて、坑道のかすかな入口付近までたどり着き、わずかな月明かりが差し込む隙間を見つける。振り返ると、奥の闇から気味の悪い唸り声が響き渡り、ひどく不快な臭いが増している。追ってくる足音があるのかどうか判別もつかない。何もかもが混ざり合った絶叫や金属音が耳の奥でまだ響いているようだ。
最後の力を振り絞って外へ転がり出ると、夜風が肌を冷やし、生温い血と膿の感触だけが自分の服や皮膚を這いまわっているのに気づく。外の世界に出たはずなのに、拷問部屋で見た地獄の光景が脳裏に焼き付き、足は震え、呼吸は乱れるばかりだ。このままでは眠れない。生き延びても、あの廃坑に刻まれた死と狂気は、きっと私の意識を永遠に蝕み続けるに違いない。
膿を抱え続けるあの廃坑には、まだ他にも多くの人間が拷問の果てに堕ちているのだろうか。散乱した死体と、あの血走った目の“何者”、そして絶望の底に沈みながらも生を求める呻き声……それらが今も地の底で渦巻き、夜の闇に向かって助けを呼ぶ声を上げているように思えてならない。私は震える手を見つめながら、ただ息を荒げ、通り抜けてきた廃坑の入口を二度と見ないように背を向けるしかなかった。