散乱する屍の箱庭
自動販売機の仄かな光だけが、暗い路地を弱々しく照らしている。そこから奥に続く扉は、鉄の鎖で何重にもロックされているが、今は錆が崩れて穴が空いていた。おそるおそる覗き込むと、中は狭い地下室のようで、階段を下りた先からはぬめった腐敗臭が立ちのぼってくる。背筋を寒気が駆け抜けるが、得体の知れない“呼び声”に導かれるように、私は奥へと足を進めた。
階段を数段下りただけで、靴裏が何か柔らかいものを踏む。反射的に懐中電灯を当てると、そこには人間の“顔”が落ちていた。肉のほとんどが削げ落ち、眼球はすでになく、顎だけが裂けてぶら下がっている。まるで顔の皮がひしゃげた仮面のように見え、口の奥からは腐った舌の一部がどろりと垂れていた。思わず悲鳴を噛み殺しながら階段を飛び退くが、その拍子に背中を生温い何かにぶつけてしまった。
振り向くと、壁に寄りかかるように倒れている死体の胸部が大きく裂かれている。肋骨も露わで、そこに挟まる肺と心臓はどす黒く乾きかけていたが、中の液体がまだ湿っているのか、一歩近づくとしみ出した血がじわりと床に広がる。首は後ろへ折れ曲がっており、顔は天井を仰いだまま。皮膚が腫れ上がり、耳から黒い液が固まっている。鼻を刺す酸っぱい異臭が、蛆とハエのたかる現実を否応なく突きつけてきた。
階段を下りきると、視界にはさらに凄惨な光景が広がっていた。床にはパズルのピースのように無数の“肉片”が散乱している。腕は肩からぶった切られ、骨だけになった手首が別の場所で転がっている。残された指先はあちこちに散り、いくつかはまだ皮膚と筋繊維が繋がったまま垂れ下がっていた。胴体の断片は、まるで切断ショーの展示物のように積み上げられ、血が混じった黄白い脂がねっとりと絡んでいる。
壁際には、まるで“箱庭”のように見える一角があった。血塗れの手足や頭蓋骨を無理やり組み合わせ、まるで芸術作品のようなオブジェに仕立てているのだ。中には口と口を縫い合わせた頭部が並んでいて、歯を無理やり噛み合ったまま固定させ、裂けた唇からは暗赤色の液が垂れている。そこに寄り添うように重ねられた二つの胴体は、片方の背に刃物で文字のようなものが刻み込まれていたが、それが何を意味するかは判別不能だった。
薄汚れた天井には、鉄パイプが露出している。そのパイプの一部に、誰かの腕が吊り下げられていた。まだ皮膚が青黒く変色し、筋組織の裂け目からは奇妙な泡立ちを見せる体液が滴っている。ぽた、ぽた、と水滴のように血のしずくが床に落ち、そこではうごめく蛆虫が貪るように集まっていた。パイプの周辺には白い蜘蛛の巣に似た細い糸が絡みついており、ハエが何匹も引っかかっては、もがくうちに血に濡れて動きを止めている。
ふと、部屋の奥で何かがうずくまるように動いた。そこだけ真っ暗で、よく見えないが、かすかな呼吸音のようなものが聞こえる。こんな地獄のような空間で、まだ“生きている”人間がいるのか? 恐怖よりも好奇心が上回り、私は血の海を踏みしめながら近づいていく。床に散乱した骨の破片が靴底を削り、ぎりぎりと嫌な音を立てた。
奥の隅には、服を引き裂かれたままの人影がいた。がりがりに痩せ細った四肢は変な角度に折れ曲がり、とても自力で立ち上がれるようには見えない。肌には無数の切り傷が走り、そこから凝固しかけた血の塊がまだ垂れ下がっていた。頭髪はほとんど失われ、ただただ白濁した瞳だけがぎょろりと動いている。近づくほどに、そこから生き臭いような熱気が伝わり、吐き気がこみ上げる。
その人影は何とか声を出そうとしているのか、口をぱくぱくさせていた。下唇がべろんと裂けて歯茎が剥き出しになり、奥歯のあたりはもう血肉が腐り始めている。一歩踏み出しただけで、その口から断末魔のような絞り声が漏れる。しかしすぐに、「助けて」という意味とは違うと直感した。なぜなら、その人影は恍惚のような表情を一瞬浮かべ、私のほうに手を伸ばしてきたからだ。普通の苦悶ではない。むしろ、狂気に浸された何かがおぞましい誘いをかけるような仕草。
私は耐えきれず後ずさる。しかし、後退した先で別の死体を踏みつけてしまい、足を取られて転倒する。床に手をついた場所には砕けた肋骨と切り裂かれた腸が散らばっており、そのぬめり気が指の間を埋めていく。絶叫しそうになるが、声はうまく出ない。そうしているうちにも、鼻孔を裂くような血生臭い匂いと、床にこびりついた死者たちの体液がじわじわと衣服や肌を侵してくるのを感じる。
そのとき、階段の方から低い物音がした。何かが降りてきたのか、鉄骨のきしむ音と、湿った足音が一瞬聞こえた気がする。目をやると、そこには闇に溶け込むような人影。いや、人と呼ぶには歪すぎる輪郭だった。胴体が通常より長く見え、腕は骨ばって節くれ立っている。頭部には髪がまばらに張り付き、顎から首にかけて赤黒い血の跡が筋のように伸びている。何よりその目が、くっきりと生気を宿しているのが不気味だった。
人影が一歩踏み出すたび、床の肉片や骨がくしゃりと潰れる音を立てる。そのたびに、部屋中の死体がぶわっとその存在を思い出したかのように腐臭を放ち、私の意識を揺るがす。寒気と発汗がいっきに体中を支配し、まともに呼吸できない。人影はゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてくる。おそらく、ここの“主”なのだろう。ここに散乱する屍たちは、やつが仕上げた“作品”なのか――そんな考えが頭をかすめ、思考が凍る。
生存本能だけが私を奮い立たせ、震える腕を押しながら立ち上がる。しかし、逃げ道は階段しかない。それを塞ぐように、その“主”らしき存在が佇んでいる。道を開ける気配はないし、会話など通じるはずがない。ただ赤黒い瞳をぎょろりと動かして、床に転がる死体の一つを足先で転がすように押しやる。その死体の腸がずるりと伸び、私の目の前に放り出される。息を呑むと同時に、嗅覚が完全に壊れそうになるほどの腐敗ガスが鼻腔を焼いた。
このままでは、私もあの屍たちの仲間入りだ。歯を食いしばり、どうにか“主”の脇をすり抜けようと突進する。すれ違いざま、爪のように尖った手が私の腕を裂いたが、痛みを感じる余裕すらない。ただ、必死に階段へ駆け上がる。その途中、さっき踏みつけたバラバラの“顔”をまた蹴飛ばしてしまい、壁を汚すように転がっていく。だが、それにかまう暇はない。背後からは湿った足音が追いかけてくる。脳内は心臓の鼓動と悲鳴だけで埋め尽くされ、視界の隅から色が失せていく。
出口となる鉄の扉に飛びつき、錆びだらけの鎖を力任せに蹴り破る。鍵はすでに朽ちていたようで、外側へ押し開けると路地の冷たい空気が流れ込んできた。最後の力で外へ飛び出し、転がるように地面へ崩れ落ちる。路地裏の月明かりだけが、私の血塗れの姿と呼吸の荒さを照らしている。振り返ると、扉の奥は闇に覆われ、かすかに湿った呼吸音と血のにおいが残るだけだった。
私はひたすら這いながら路地を進み、息を整える。体じゅうに貼りつく血と臓物の感触が何度洗っても消えそうにない。あの地下には、まだ無数の屍と、あの“主”が棲みついているのだろう。散乱する死体が、またどれだけ増えるのか想像もつかない。頭はまだ混乱しているが、一つだけ確かなのは、この地獄はここで終わりではないということ。私が生き延びたことを、“主”が許しているとは到底思えないからだ。遠くから風に乗って聞こえるかすかな悲鳴めいた音に耳を塞ぎながら、私はただ暗い夜道を走り続けるしかなかった。