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蟲じきる廃巣

 そこは、かつて工場だったらしい。けれど今は、天井も壁も朽ち果て、ほとんど骨組みだけが残る灰色の廃墟にすぎない。鉄骨の継ぎ目は錆びて焼け落ちそうになり、廊下には泥と埃と……何かドロリとした不気味な液体が混じり合っている。鼻を突く異臭は、機械油とも腐敗臭ともつかず、むせ返るほどの濃度を帯びていた。私は知らずにその廃墟に足を踏み入れ、後戻りできない重々しい空気に包まれる。


 四方を覆うコンクリートには、無数の穴が開いていた。その一つに目をやると、何かしらの内臓のようなものがべったりとこびりついている。血というよりは、粘ついたゼラチン質の液が(したた)り、そこから若い蛆虫(うじむし)が湧き出し、ゆっくりと這いずり出てくる。その虫たちの腹が膨れ上がっているところを見ると、すでに何度も同じ死肉を啜ってきたのだろう。かすかな啜り音が静寂を切り裂き、私の背筋をひやりと冷やす。


 天井を見上げれば、穴から雨水が流れ込んでいる。それが電灯だった名残の配線を伝い、床へと滴る度に、溜め込まれた血と泥が混ざり合う。それはまるで“生きた何か”が息を吸い込むかのごとく、ぐちゅり、ぐちゅりとくぐもった呼吸音を立てているようだった。床に視線を落とすと、何やら奇妙な足跡が泥の上に点々と残っている。人間のものとは思えない。かといって獣の足跡とも異なる、不自然に長い指の跡が、暗い空間へ吸い込まれるように続いていた。


 振り返って逃げ出そうとする思考が頭をよぎるが、なぜか足は動かない。何かが私を先へ進ませようとしている。薄明かりにまぎれ、崩れかけたドアの脇から奥の空間が微かに覗き見える。好奇心と嫌悪感のせめぎ合いを抱えながら、一歩、また一歩と進む。すると、扉の向こうから低く唸るような声が聴こえてきた。大勢が呻いているのか、それとも一体だけが複数の声を発しているのかすら判別できないほど、耳の奥へ直接訴えかけてくる不穏な音だった。


 恐る恐るそのドアを押し開けると、まず目に飛び込んできたのは壁一面に貼り付けられた人の“皮”だった。どす黒い手形、両肩の切れ込み、足の皮まで、(くぎ)(びょう)で広げるように固定されている。裏面から覗く筋繊維の(あと)が、べっとりと固まった赤黒い粘液とともに悲惨な模様を描いていた。皮の中央あたりに、なぜかガラス玉のように磨かれた白い物が埋め込まれている。よく見ると、それは眼球の断片らしい。表面だけが固められ、内部はすでに抜き取られているのか、奥がくぼんで洞穴のようになっていた。


 部屋の中央には、何かの機械の残骸が転がっている。回転ノコギリのような刃が付いているが、血塗れの布が巻きついていて、刃の歯先が欠けている。床には骨と歯が散乱し、時折、蛆虫がぼとりと落ちては(うごめ)きながら血液の海を泳いでいる。その隣には、人型をかたどって切り取られたような肉の塊が積み上がり、まるで“彫刻”のように固定されていた。朽ちかけた(くい)に何枚もの肉片が串刺しされ、そこから滴る体液が生臭い甘さを放っている。


 そのとき、ふと背後から何かが動く気配に気づいた。反射的に振り向くと、奥の暗がりの中で、いびつに湾曲した身体をした人影が、柱をつたっていた。その皮膚は体液でテカテカに濡れ、目らしき部分は腫れあがって閉じきっている。口だけが裂けたように大きく開き、まるで引き()った笑い顔を貼り付けているようだ。よく見ると、その口には人の指がいくつも噛み砕かれた跡があり、白く尖った骨の破片が舌の上に乗っている。


 人影は(しゃが)れた喉を震わせ、息を吐き出すような声を上げた。怒号とも笑い声とも言えない、不気味な震えが部屋の空気をざわつかせる。そして、柱を()うその不自然に長い指先が、さきほど床に残っていた足跡と同じ形状をしているのを確認したとき、私は恐怖で身体を強張らせた。これが、この工場の主なのか? あるいは、この“廃巣”の巣食い手なのか。


 人影がゆっくりと近づいてくる。裂けた口からは唾液と血液が混ざった泡がぶくぶくと噴き出し、のたうつ舌が人間の言葉か何かを発しようとしている。うわずった声が空間に反響し、私の耳へ突き刺さる。理性を切り裂くほどの圧迫感に耐えきれず、一歩後ずさったその拍子に、私は傍らの棚へ腰をぶつけて倒してしまった。倒れた棚からは様々な機械部品と、何かの切断された腕が転げ落ちる。腕の先端にはまだ、ぶよぶよとした肉がぶら下がっており、血管がちぎれた断面からは生々しい臭いが立ち上る。


 目眩(めまい)がし、視界がぐらぐらと揺れた。弱り切った意識の中で、“何か”が耳元でうめく声を聴く。振り向けば、先ほどの人影が、異様に長い腕を伸ばして私を掴もうとしている。その爪はまるで猛禽(もうきん)鉤爪(かぎづめ)のように湾曲し、先端に血と泥がこびりついていた。私は必死で逃れようと身を(よじ)るが、足元が絡み取られ、まともに走れない。恐怖と絶望が入り混じった叫び声を上げようとしても、舌が強張ってうまく声が出ない。


 人影が低い唸り声をあげながら、口を大きく開く。裂けた唇からこぼれる粘液と、人の指の残骸。それをいやいやながらも目にしてしまい、私は背筋を凍らせる。脳が限界を超え、現実感覚が薄れ始めたころ、突然――


 ぎい、と歪んだ金属の音が鳴り響き、天井の一部が崩落しかかった。瓦礫(がれき)の破片が激しい音を立てて落ち、床のあちこちを突き破っていく。床下の空洞からは、さらに濃厚な腐臭が舞い上がり、真っ暗な空間に淡い粉塵が立ち上がる。その粉塵の向こう側で、人影は一瞬停止したように見えたが、さらに低く唸り声を上げてこちらへ狂ったように手を伸ばす。


 しかし私は、何とか足をもがいて数歩後退し、穴の空いた壁の向こうへ逃げ込んだ。廃墟の鉄骨が折れるような甲高い悲鳴を響かせ、空気がいっそう濁る。頭がくらくらとして意識が遠のきかけるが、とにかくここから脱しない限り、あの化け物に(むさぼ)り喰われるだけだと直感する。腐った肉の山、蠢く蛆虫たち、人の皮を貼り付けた壁……すべてが眼前で現実味を帯びて迫る地獄だった。


 もう、視界はぐにゃぐにゃと波打ち、まともに周囲を認識できない。逃げ道があったのかすら定かではないが、それでも必死に歩を進める。背後からは金属を引き裂く音と、獣の唸り声、そして水気を含んだぐしゃぐしゃした足音が追いかけてくる。自分の心臓の鼓動なのか、あるいは廃墟全体がくぐもった咆哮(ほうこう)を上げているのか。もはや判別できないまま――


 最後の力を振り絞り、私は廃墟の外壁の隙間へ体を滑り込ませた。夜の風が外から吹き込み、錆びた鉄骨の破片が舞う。荒れ果てた外の地面へ転がり落ちると、肺が泥の匂いと湿った空気を一気に吸い込み、盛大にむせ返る。それでも“外”だ。地獄の底とは明らかに違う匂いがあり、かすかな安堵が胸に広がる。背後の廃工場からは、未練がましい金属音が聞こえていたが、私はもう振り返らない。奇跡的に助かった足を引きずりながら、暗闇の中をただ必死に這い進む。


 きっと、あの工場の奥には、まだ“いくつもの死と狂気”が巣食っているのだろう。いや、そこにあるのは死と呼ぶには生々しすぎる“(うごめ)き”かもしれない。そう、あの廃墟はまるで何かの“巣”だ。腐肉の匂いと、絶叫を吸い尽くす鉄の匂いと、飢えた怪物の足音だけが満ちる悪夢の巣。今もあの闇の奥で、血と肉と蟲たちが主を称え、さらなる犠牲を待っているに違いない。


 その光景を振り返ることなく、私は夜の闇へと逃げ続ける。頭の中にはあの赤黒い廃巣の記憶が焼き付き、思い出すたびに身体が震える。それでも走るしかない。生き続ける限り、あの廃工場の狂気は私を呼び、再び喰らおうとするだろうから。雨に洗われた地面を必死に踏みしめながら、私は息も絶え絶えに夜の果てへと消えていった。

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