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廃棄病棟の胞(はこ)

 夜闇に沈む廃病院の廊下は、まるで死者の息遣いを宿したように冷え切っていた。ひび割れた天井の隙間から漏れる雨水が、ぽたり、ぽたりと水たまりを作り、赤錆(あかさび)に彩られたタイルを濡らしている。かつて患者や医師が行き交ったはずの空間は、すでに誰ひとりいない——はずなのに、気配だけが静かに(うごめ)いているのがわかる。私は腐ったドアを開け、人気(ひとけ)のない病室へ足を踏み入れた。


 部屋の中央に置かれたベッドには、ボロ切れを巻きつけた人形のような“何か”が横たわっている。近づくほどに強烈な腐臭が鼻を突き、胃が()じれるような不快感がこみ上げた。わずかに動いているように見えるのは、皮膚と衣類の間に湧き出している(うじ)と甲虫の類だろう。じゅくじゅくと湿った音を立てながら、床へ垂れ落ちる液がどす黒く光っている。そこから立ちのぼる蒸気は、見えない怨念のように肌を焼く。


 私が一歩踏み出すと、床が不気味な音を立てた。タイルの下に溜まった汚泥がぐちゅりと揺れ、まるでここ全体が生きているかのように脈打つ。崩れかけた壁に貼られたポスターには、「術後経過: 良好」の文字がかすかに読めるが、その下には血液なのかインクなのか判別不能な赤茶色の文字が無数に書き殴られていた。よく見ると、それらは言葉ではなく、(いびつ)な形の紋様や指の跡のように見える。どれもこれも、怨嗟(えんさ)の吐息がこびりついているようで、読むだけで視界が(かす)むほどの嫌悪と恐怖を感じさせた。


 ふと、廊下の奥から何かを引きずるような音が聞こえ、私は反射的に息を詰める。金属が床を擦る甲高い音と、低く唸るような声が混ざり合い、この病院の壁を震えさせる。まさか……誰かがまだ生きているのだろうか。それとも、死体の残骸が新たな形を得て動き出したのか。自分でもわからない不安が首筋を這い、冷たい汗が背中を伝う。


 いまさら引き返せない。奥の扉へ向かうと、扉には(くぎ)が乱雑に打ち込まれていた。無理やり押し開けると、そこは手術室のような作りになっている。錆びついた手術台には、何か大きなものが固定されていた。いや、それは——人の身体を雑に継ぎ合わせた“(かたまり)”だった。胴体の一部に別の腕が縫い付けられ、頭部は首の付け根で逆向きに据えられている。腐りかけた糸と金属の(びょう)で乱暴に止められた傷口からは、ぼとぼとと濃い液体が(したた)り落ち、金属の台を染め上げていた。


 その塊は、かすかに呼吸のような動きを見せる。ぴくり、ぴくり……。まるで空気の漏れた風船のように膨らんだりへこんだりを繰り返す度、喉の奥からは何か(つぶ)れたようなうめき声が聞こえてくる。思わず懐中電灯の光を当てると、縫い合わせた首ががくりと曲がり、白濁した瞳がこちらを向いた。舌が喉の奥に引っかかったように動き、声にもならない摩擦音だけを立てている。その光景に、私の思考は一瞬で凍りついた。


 どうしてこんな惨状が生まれたのか。この病院で、何が行われていたのか。問いが頭を巡ると同時に、鼻腔には鉄臭い血と消毒液、そして腐敗臭が混ざった独特の刺激臭が充満する。たまらず顔を背けると、背後の手術道具の棚ががしゃりと音を立てた。そこには錆びて使い物にならなくなったメスや(のこぎり)、金属製の鉗子(かんし)が散乱しており、どれも赤黒い汚れをこびりつかせていた。中には皮膚や筋繊維の切れ端らしきものが固まって付着している道具もある。


 意識が朦朧(もうろう)としそうになるのをこらえ、出口を探そうと扉に近づいたとき、不意に手術台の“塊”が低い声を漏らした。呻きに似ているが、どこか人間の言葉の断片が混じっているように聞こえる。振り返った瞬間、それは口の周りの縫い目をぼきりと裂き、舌とも肉ともつかない塊をずるりと垂らしながら、声帯の擦れる音を必死にかき混ぜ、何かを発そうとしている。上ずった視線が私を捉えると、そこには途方もない苦悶(くもん)と憎悪が入り混じっていた。


 「…………た、す……け……」


 血の泡がぼこりと膨らみ、即座に(つい)える。助けられるはずがない。それを彼(あるいは彼ら)自身が一番知っているような響きだった。私の背中を突き破るほどの寒気が走る。どうしようもない。ここにいる全ては、すでに狂気と死の狭間で混ざり合い、“形だけの生”を保っているにすぎない。


 私は震える足取りで扉の方へ()うように向かい、何とかそこを押し開けた。廊下には先ほどの金属を引きずる音がますます近づいていて、闇の先でおぞましい影がうごめいている。顔面の半分が削げ落ちた人影なのか、あるいはまったく別の“モノ”なのか。こちらに気づいたのか、ぎぃぎぃと骨と金属がこすれる不協和音を立てながら、私を迎えに来るかのように近づいてくる。


 これ以上ここにいては、私も同じ運命を辿るだけだ。そう理解しながらも、脚は震え、汗が滝のように噴き出す。半ば錯乱しながら走り出すと、タイルの割れ目には血と肉の固まりが挟まっており、踏み締めるごとに濡れた悲鳴が足裏に吸い付く。もはや息ができないほどの恐怖と腐臭が喉を引き裂き、視界が歪む。頭の奥で鐘のような音が鳴り響き、何度も何度も意識を闇へ落とそうとする。 


 それでも、どうにか出口らしき扉を発見し、私は無我夢中で把手(とって)をつかむ。開け放たれた扉の先、むせかえる暗闇と雨の臭いが混ざり合いながら、かろうじて外の気配を漂わせる。背後では手術台の“塊”がまたひとつ断末魔をあげるように呻き、金属音の影がどんどん迫ってくる。時間がない。私は振り返りもせず、全力でその扉を押し開けた。


 外へ飛び出すと、ぽっかりと口を開けた夜空から冷たい雨が降り注いでいた。腐りきった血の臭いが洗い流されていく一方で、私の頭の中にはあの病棟の異形たちの姿が焼きついて離れない。涙か雨かもわからない滴を頬に受けながら、私はひたすら走る。遠くで何かが私を呼ぶ声が聞こえるが、もう振り返ることはできない。あの廃棄病院に巣食う狂気は、きっと今も生を求めて呻き続けるだろう。そこには誰もいない。けれど、確かに“生きている”何かが(たたず)んでいるのだ。


 雨の闇に溶けこむように逃げ惑う私の足音だけが、夜の静寂を引き裂き、いつまでもどこまでも響いていた。

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