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燻る怨塊

 薄闇のなかで、焼け焦げた鉄の臭いが漂う地下室を見つけた。古い工場の地下に隠されたその部屋は、小さな扉を境にして、外の世界から完全に切り離されている。息苦しいほどに暑い。コンクリートの壁には長年の(すす)が積み重なり、まるで積層化した陰鬱(いんうつ)な意識が染みこんでいるように見えた。


 床に近づけば、奇妙な焼け跡が目につく。まばらに散らされた焦げ茶の染みは、どう見ても血痕のようにしか思えない。だが、それはただ乾いているだけではなく、じっとりと汗のような粘液をにじませていた。懐中電灯を当てると、熱せられた床から立ち昇る蒸気が、視界を(かす)ませる。まるで“何か”が焼かれたばかりのようで、その名残りがいまだ残っているのだ。


 壁の片隅には、鈍い光を放つ大きな金属製のドラム缶がある。周囲には人が倒れ込んだような跡があり、そこかしこに爪痕とも思える引っかき傷が走っていた。どこかから焦げた肉の臭いが鼻を突き、(むせ)そうなほどの苦味が口内に広がる。まるで地下室じゅうが胃袋のように、誰かの絶叫や恨みを煮詰めているかのごとく、むせかえる瘴気(しょうき)を発していた。


 ドラム缶に近づくと、表面に焼けこげた指紋のような痕跡がべったりと付着している。指を添えようとした瞬間、中から聞こえてきたのは、ぼこっ……と泡が弾けるような音。私はごくりと唾を飲んだ。(ふた)の隙間からは熱風とともに、(はらわた)が煮えるような異臭が立ちこめる。まさか――そんな嫌な予感が脳裏をかすめ、鼓動が速くなる。恐る恐る蓋の取っ手をつかみ、力を込めて持ち上げると、そこには惨たらしい光景が広がっていた。


 濁った液体の中で、いくつもの人骨が溶けかけている。まだ黒ずんだ肉片が絡みつき、時折ぷくりと泡立つたびに、それらがかろうじて形を保とうとしているようにも見えた。歯がむき出しになった(あご)や、折れ曲がった肋骨(ろっこつ)が液面に浮かんでは沈み、血なのか(あぶら)なのか不明な油膜をぎらぎらと広げている。強烈な熱が頬を焼くと同時に、吐き気を刺激する悪臭が鼻孔を突き抜ける。目眩(めまい)がして視界が揺らぐ。


 思わず後ずさりして壁に手をついたが、そこにも別の死体が待ち受けていた。床と壁の隙間に押し込められたように、うつぶせのまま硬直した死体。背中には鉄パイプが突き刺さり、火傷(やけど)の痕が一面に広がっている。焼けただれた皮膚の裂け目から覗く赤黒い筋繊維が、不気味に光を反射していた。死体の口元には、驚くほど鮮やかなままの舌がはみ出している。舌先には、おそらく爪で引っ掻いたのだろうか、小さな傷が無数に走り、そこから枯れた血が塊となって固まっていた。


 ――ここは、何のための場所なのか。誰が、何を求めてこれほど多くの死体を焼き、溶かし、(ちり)のようにしているのか。疑問が次々に湧き上がるものの、すでに理性は限界に近い。心臓が喉から飛び出しそうになり、手足が震えて止まらない。熱と腐臭が混じった空気を吸い込むたび、胃液が逆流してくる。


 ぐらり、と視界が歪んだそのとき、ドラム缶の液体が大きく波打ち、ずぶりと何かが浮上した。見ると、それはまだ形が崩れきっていない“頭部”だった。目玉の一つが何とか球状を保っているが、黒い血管と脂が絡まり合って、まるで吊り上げられたように半ば外へ飛び出しかけている。その頭部は何かを訴えたそうに口を開き、ぷくぷくと泡を吹きながら液面に揺れる。そして――


 「……だして……」


 幻聴かもしれない。けれど、確かにその声はこの地下室全体に溶け込み、私の耳を突き破った。足元の床がじわじわと動き出す。気のせいではない。自分の足跡から生じる焦げ臭い蒸気が、まるで呻き声のような振動をともなって部屋を満たしていく。ドラム缶と死体と、この部屋の壁までもが、何か巨大な怨みの塊として生きているかのように感じられた。


 理性の糸が切れそうになる。一歩でもここから逃げ出そうと駆け出すが、熱気で歪んだ空気に足を取られ、ドラム缶の脇へ倒れ込む。手をついた先は、床に散乱した骨の欠片。そこからは強烈な熱が伝わり、手のひらを焼き尽くす痛みに思わず悲鳴を上げる。悲鳴は地下室に反響し、どこからともなく乾いた笑い声のような響きが返ってくる。


 私はそのまま、湯気と血の混じった暗闇の底へと吸い込まれていく。ドラム缶の中で煮えたぎる亡者たちの叫びが、部屋全体を満たしていた。狂気が辺りを支配し、闇の奥底で生き続ける怨念が、私の呼吸を奪っていくのをはっきりと感じた。もはや区別などつかない。ただ、ひとつの渦の中に肉と血と怨みが混ざり合い、“(くゆ)る怨塊”としてごうごうと熱を放ち続ける――そうして私は、夜の虚無へと溶かされていくのだった。

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