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残滓の木霊

 湿度の高い夜の森は、獣の死骸が腐り落ちるような息苦しさに満ちていた。朽ちた木々の根元では、菌糸のような白い塊が何かを分解している気配がする。私は懐中電灯を握り、足元を慎重に確かめながらゆっくりと進む。ぬかるんだ土の上を踏むたびに、まるで肉を踏みしめるような嫌な柔らかさが足裏を伝ってきた。


 視線の先に、倒木に寄りかかるような形で人の姿が見える。性別すら判別がつかないほど痩せこけた体が、内側から蝕まれたように骨ばっている。薄暗い月明かりに照らされて、その顔の肉はすでに剥がれ落ち、歯列だけがぎらりと光った。死体は瞼がなく、眼球は飛び出しかけてこぼれ落ちかけている。それらを包む無数の小さな虫が、ちいさくかさかさと音を立てながら湧き出しているのが見えた。強烈な腐臭は鼻腔を焼き、理性を激しく揺さぶる。


 止まれ。逃げろ。頭は警鐘を鳴らすが、なぜか足は前へ進んでしまう。死体のそばに引き寄せられるようにして、一歩、また一歩と。何かに取り憑かれたかのように、私はかがみ込んだ。懐中電灯の光の先で、死体の口がわずかに開いている。そこにはまだ、干からびた舌が残されていた。ちょうど口の奥から喉へと続く暗がりが、不気味な空洞を作っている。ぽたり、ぽたりと濡れた音を立てながら、舌の付け根から腐りきった液体が雫となって滴り落ちる。


 その雫が地面に触れるたび、森の奥から奇妙な木霊(こだま)が響いてくるかのようだった。(しわが)れた声が何重にも重なり、私を呼ぶ。視界がぐらつきはじめ、この死体がまだ息づいているかのような錯覚に陥る。額から冷たい汗がにじみ出し、うまく息ができない。暗闇のなかで、あの死体の舌が僅かに動き、何か言葉を呟いているようにすら見える。


 私は恐怖を振りほどこうと、背を向けて駆け出した。だが、森の木々はどれもこれも同じ形をしており、いつの間にか同じ場所をぐるぐる回っているような気がしてくる。足元のぬかるみが深くなり、靴はすぐ泥だらけになった。しかもどこを向いても、生臭い風が吹きつけてくる。まるで森全体が何らかの巨大な生き物となり、この死体と私を喰らおうと虎視眈々と狙っているようだ。


 しばらく走って、再び振り返ると、さっきの倒木が、ほんの数メートル先にある。逃げたはずなのに、同じところに戻ってきている――そんな悪夢じみた状況が、私の足を萎縮(いしゅく)させる。ぜえぜえと荒い息を吐きながら、恐る恐る目を上げると、先ほどの死体の向きが変わっていた。さっきまでは地面を向いていたはずの頸椎(けいつい)が、こちらへ向けられ、歯列の奥からはちろりと舌がだらしなく垂れている。首筋の皮膚も無残に裂けており、そこから染み出す液がさらなる禍々しさを放っている。


 その光景に息を呑んだ瞬間、死体が突然、ぐちゃりと音を立てて倒木からずり落ちた。腕は完全に骨と皮だけだ。肘から先は欠損しており、切断面には虫がうごめいている。死体は生きているはずがない。それでも、何かの意志がそこに宿っているのを感じる。頭の中で警報が鳴りっぱなしなのに、身体は硬直して動かない。絶望的な寒気と汗が背を這いまわり、思考が完全に崩壊しそうになる。


 すると、地面に落ちた死体が、信じがたいほどゆっくりとこちらへ向かって引きずるように動き始めた。腕の骨が地面をこすり、爪の先が地面に刺さって削れる。その摩擦音がギリギリと鼓膜を破りそうに響く。首が不自然にひしゃげ、眼球がこぼれ落ちかけた穴からは濁った体液が垂れている。止めどなくあふれる腐敗の臭いが、私の胃の中身をせり上げ、吐きそうになっても、それすらも声にならない。


「やめろ……」


 か細い声でそう呟いてみても、死体が止まるわけもない。まるで森全体が私の苦悶(くもん)を喜ぶかのように、木々のざわめきが増していく。気がつけば、私はもう駆け出す気力を失っていた。死体は這いながら、先ほど落とした眼球を、まるで拾い上げるかのように腕の残骸で撫で回す。ぎゅるり、と湿った音がして、それが腕にこびりついたままゆっくりと顔のあたりへ持ち上げられていく。


 その瞬間、森の木霊が甲高い声をあげたように鳴り、私の頭は割れるように痛む。視界が激しくブレ、闇と腐臭が混ざり合い、どれが現実なのかすら分からなくなる。死体はギリギリと動く下顎(したあご)の奥で舌をひきつらせ、抜け落ちた歯の隙間から何かを(ささや)いている。私をどこへ誘おうとしているのか。何を言おうとしているのか。やがて私は、痛みに意識を焼かれながら膝をつき、その場にうずくまった。


 遠のいていく意識の中で、最後に見えたのは、血と泥にまみれたあの死体がこちらの胸ぐらへ腕を伸ばし、引き寄せるようにこちらを抱き込む光景だった。枯れ木の軋む声か、虫のはばたきなのか、森全体が(わら)い声を上げるように揺れ続ける。もはや抵抗する術はない。私の悲鳴も、腐り落ちた唇に押し当てられ、そのままこの森の底へと沈んでいく。


 森は息をひそめ、すべてを飲み込む。死体も私も、もはや区別などなく、ただ朽ちていくしかない。夜明けを迎えるころには、森は新たな静寂を取り戻し、どこかにまた死の残滓(ざんし)と木霊だけを置き去りにするのだろう。血に染まった闇と絶望のざわめきを、永遠に抱いたまま。

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