血濡れの嘲笑
夜明け前の路地裏は、生温い闇が淀んでいた。まるで腐りかけの動物の腹の中を這いずり回っているような嫌な感触が、肌にぴりぴりとまとわりつく。私はその凍てつく石畳を慎重に進んでいたが、次の瞬間、足元がぐにゃりと沈む。視線を落とすと、そこには潰れた眼球のような塊がこびりついていた。初めはただの水たまりかと思ったが、それはおぞましいほど濃い色を帯び、かすかにうごめいている。まるで眼球の主が、まだそこに生き長らえているかのように。
しんとした空気をかき乱すように、突如どこかから甲高い笑い声が響いた。思わず背筋が凍る。闇の奥から、曲がった背骨を引きずるようにして男が姿を現した。黒ずんだ皮膚には裂け目が無数に走り、中からはピンク色の臓器が飛び出す寸前のように膨れ上がっていた。左の口角が異様なほど裂け、耳元にまで達している。その裂け目がカクカクと動きながら、言葉というより唸り声を漏らしていた。
男は私を見つけると、裂けた口から黄色がかった液体を吐き捨てた。ドロリとしたそれが路地の地面を濡らすと、腐臭を伴った湯気が立ち上る。私は動けない。逃げ出すべきだと頭では理解しているのに、視界がぐらつき、足にまったく力が入らない。男は笑い続けながら、私に近づいてくる。彼の爪は黒く変色し、先端は釣り針のように鋭く湾曲している。近寄るほどに、裂けた皮膚の奥で動く筋が、ピクピクと不気味なリズムを刻んでいるのが見えた。
恐怖を押し殺そうと、唇を噛みしめた瞬間、男の爪が私の肩を掴んだ。鋭い痛みが走り、皮膚が裂ける感覚が生々しく伝わってくる。反射的に悲鳴を上げようとしても、恐怖が喉を塞ぎ、かすれ声しか出なかった。その声を聞いた男は、さらに声を張り上げて笑う。裂けた口元から粘度の高い唾液と血が混じり合い、私の顔へ飛び散る。鼻を突くこの生臭い臭気に、理性が刻々と引き裂かれていく。
男はやおら頭を傾けて、私の首筋に鼻を寄せた。呼吸とともに感じる冷たい湿り気に鳥肌が立つ。舌先がちろりと伸び、首筋をなぞると、びりびりと震えるような悪寒が走る。まるで私がどんな味をするのかを品定めしているかのように。次の瞬間、男の肩から肉がずるりとこぼれ落ち、地面にたたきつけられた。白い骨が覗き、そこからまた新たな液体があふれ出す。それでも男は笑いを止めず、むしろ狂喜の度合いを増しているようだった。
「……きみも、こっちへ、おいで。」
ひび割れた声でささやかれ、私は意識が遠のきそうになる。視界の端には、先ほど踏んづけた潰れた眼球のかたまりが、じゅくじゅくと泡を吹いていた。まるでこの世の終わりが、何度も何度も繰り返し湧き出してくるかのように止まらない。腕が震え、脳が熱を帯び、思考がとろりと溶け落ちていく。
足元からはじめて感じる底知れぬ狂気が、血の川のようにじわじわと私の全身を浸食していく。男の笑い声がいつの間にか私の声と重なり、鳴りやまない。自分が泣き叫んでいるのか、あるいは歓喜に震えているのかさえ分からなくなる。何もかもが混ざり合い、路地の闇がさらに深く、自分を飲み込んでいく。朽ちるのは身体だけではない。心も、意識も、全てを侵されていく――深い、深い、血濡れの嘲笑の向こうへ。