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深海研究所セクションΩ

 外洋から遠く離れた海底下、かつて先端科学を誇ったとされる深海研究所セクションΩは、長い間連絡を絶たれたままだった。深海の静寂の中に沈むその施設は、外部から侵入不可能なほど堅牢であるがゆえに、内部で何が起きているかを知る者はいなかった。しかしある夜、捜索チームが派遣され、封印されていたエアロックをこじ開けた。その扉を越えた先は、もはや常識を塗り潰した“狂気と惨劇”の実験場と化していた。


 施設内部は、全面ガラス張りで海底の闇を眺められるつくりになっていた。青白い水中光が照明代わりとなり、廊下をおどろおどろしい陰影で彩っている。かつてはアクアリウムのように幻想的な景観を楽しめたはずだが、いまや床にはこびりついた赤黒い染み、そして腐臭が鼻を刺す。亀裂の入ったガラス壁越しには、ヒトデや小さな魚がこびりつき、吸盤を(うごめ)かせながら“壁の向こう”の異常を覗き見ているかのようだった。


 廊下を進むたび、うっすらと嫌な音が響く。ガラスのひび割れを挟んで、何か金属がきしむような低音と、水圧がどこかを侵食するようなごぼりとした音。足元を照らす懐中電灯の光の先には、人体の一部とも見られる肉片がぐちゃりと潰れたまま散乱している。ドロリとした液体が血だけではない異臭を放ち、踏みしめるごとにぬめる感触が靴底へまとわりつく。過去の惨劇が明らかにここで起こったことをうかがわせる。


 通路を曲がった先に、オープンラボと呼ばれる広い実験空間があった。もとは大型の水槽や海洋生物を飼育するプールが並んでいたらしい。壁には巨大なイカや珍しい深海魚のポスターが飾られているが、その中には誰かの血で描かれた奇妙な文字や図形が上書きされている。床を照らすライトの先には、尻尾や(ひれ)のようなパーツが混ざった謎の肉塊が散乱していた。生体実験の(あと)か、あるいは“融合”の試みか。どれも元の形などとどめておらず、混在した臓物の塊が、粘性を帯びた汁を(したた)らせている。


 ラボ中央の水槽には、すでに水は半分ほどしか残っていない。水面に浮かぶのは、人間の手首と、何らかの深海生物の一部が絡み合った複合体。青みがかった皮膚の切れ端が、ナイフで切られたような綺麗な断面を(さら)しており、そこからは白い繊維と赤黒い筋肉が露出している。水面近くで蠢く蛆虫のようなプランクトンが、その組織を食むように吸い付き、かすかに泡立っていた。


 水槽の外には、大柄の研究員らしき死体が倒れていた。防水仕様の白衣は引き裂かれ、胸部はまるで生きたままかじられたように噛み痕が深く刻まれている。歯形らしき凹凸が生々しい血の海を作り、肋骨の奥からは肺の切れ端が覗いていた。その死体の手には硬化した海藻の束が握りしめられており、指先の爪は背筋が凍るほどに青黒く変色している。まるで自分が“変異”しつつある身体で、何かを必死に伝えようとしたかのようだ。


 水音が微かに響き、ラボを越えた先は中枢ブリッジ。ここが研究所の頭脳部となる指令室で、モニターや操作パネルが密集している。そこかしこから泡立つような電子音と機械の駆動音が聞こえ、壁のスクリーンには海底の外部映像が流れている――が、その画面は歪んでノイズまみれ。遠目に、巨大な影が深海を漂っているのが映るが、何なのか判別がつかない。


 奥のパネル前には、片目を失った男が座り込んでいる。すでに息は絶え絶えで、床に垂れた黒い血だまりがじわりと広がっていた。失われた目の穴からは黄白い膿が垂れ、ほかの傷からは人間の血以外の何か“粘液”が混ざった液が泡立つようにあふれている。まるで体内で別の生物が共生しているかのようだ。男の唇がかすかに動き、苦しげに言葉を呟いている。


 「……深海……同化……ゲノム……戻れない……」

 低い呟きは突然びくりと途切れ、男の全身が痙攣(けいれん)を起こした。次の瞬間、口から軟骨(なんこつ)らしき欠片が飛び出すと同時に、何かが“裂ける”音が響く。男の背中を突き破るように伸びた細長い骨のような突起物――もはや人間の一部とは思えない。血と粘液が飛び散り、床を赤黒く染める。男は断末魔のような(うめ)きを発して倒れ込み、かと思えば突起物だけがひくひくと動いている。正体不明の生物が男の体内を巣にしていたのか、あるいは実験の産物なのか……。


 その突起物がしきりにうねるとき、ブリッジに緊急アラームが鳴り響いた。海底の水圧バランスが崩れ、施設外壁に亀裂が広がったのだろう。スクリーンには深海の暗い水が渦を巻いて侵入してくる映像が映し出される。轟音とともに水と泥が流れ込めば、研究所は一瞬で崩壊する。


 だが、部屋に満ちた異臭と狂気の光景のなか、もうまともに脱出できる状況ではない。通路やラボには変異した死体や不気味な生物の断片が散乱し、床は滑りやすい血と粘液で溢れている。最後まで生き延びたかもしれない誰かの悲鳴が遠くで聞こえたが、それも水流に呑まれたかのように、急に途絶えた。


 ガラス張りの廊下は大きくひび割れ、外から海水が勢いよく噴き込んでくる。水圧でガラスが砕け散り、白い泡とともに深海の暗闇が雪崩(なだ)れ込む。散乱した肉片や臓器が浮き上がり、まるで赤い花びらのように渦の中心で舞い踊る。絶命した研究員の死体は宙を舞い、一部は骨だけになりかけ、ほかは生物に喰い千切られたのか見分けがつかない形状だ。


 やがて、支柱が折れるような轟音とともにメインの施設が傾斜し始める。天井や壁が軋み、水圧に()し潰されて本格的に崩壊が進行する。パネルに表示された水深と圧力の数値が急激に跳ね上がり、警告ランプが激しく点滅。最後の非常電源がプツリと途切れ、暗闇がすべてを覆い尽くした。


 そのとき、深海の中に広がる“何か”の影だけが、朧気(おぼろげ)な蛍光を帯びて施設の外を漂っているのが、一瞬だけ視界をかすめる。生物なのか、あるいは集合意識のような怪異なのか――定かでない。その巨大な影がまるで嘲笑するかのように、崩れゆくセクションΩを見下ろし、暗い海へと消えていった。


 こうして深海研究所セクションΩは、狂気とグロテスクな惨劇を抱えたまま、深海の闇に沈んだ。変異した死体や海洋生物の残骸が沈むその跡には、ただ赤黒い粘液の帯と、得体の知れない泡の渦がしばらく漂うだけ。いずれ何もかもが泥の底に沈殿し、海中の闇に溶けて痕跡を失うのだろう――それは“深海の底”という永遠の墓場で、ひそやかにざわめきながら。

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