表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/22

わたしだけの人形

 雨の夜に、部屋の明かりを落としたまま、彼女はじっとイスに座っていた。もうずいぶん長い間、この部屋には日が差していない。カーテンは閉ざされ、空気は粘着質なほど重く(よど)んでいる。中央のテーブルには、彼が横たえられていた。腕と脚を縛られ、目は(うつ)ろに天井を向いている。正確に言えば、もう“天井”を見ているわけではない。意識があるのかどうかすら怪しい。だが、彼女は微笑んでいる。


「ねえ、もう一度わたしを見て?」


 そう(ささや)きながら、彼女は彼の(ほお)を撫でる。指先は冷たく、爪には彼の血がわずかにこびりついていた。塗料と化した血痕が茶色く乾きつつあるが、まだかすかに生々しい匂いがする。その痕を気にも留めず、彼女はまるで彫刻のように彼の顔をじっと見つめた。


「あなたがどんなときも逃げないように、ちゃんと縛ってあげたの。ね、嬉しいでしょう?」


 うっとりと頬を染めながら呟く彼女の姿は、天真爛漫(てんしんらんまん)な少女のようでもあり、崩れかけた狂人のようでもあった。かすかな電球の光に照らされた瞳は、異様に(うる)んで輝いている。


 どくん、どくん、と彼の胸の鼓動がかすかに聞こえる。まだ生きている――彼女はそれを確認するたび、喜びに身を震わせるのだ。すでに両手足には包帯の跡が重なり、ガーゼからは赤黒い滲出液(しんしゅつえき)がじわりとにじんでいる。痛々しい姿だが、彼女にはそれさえ愛しい“印”だった。


「ほら、痛い? 泣かないで。わたしだけを見て……わたしだけを愛して……」


 彼女は唇をかみしめながら、まるでなだめるかのように優しく話す。指先で彼の髪をとかす仕草は、まるで愛する人への慈しみそのもの。けれど、そこに混ざるねじれた感情は、愛よりも支配と独占に近かった。束縛を“愛”と呼び替えることでしか、彼女は安心できないのだ。


 ふと、彼の唇がかすかに動き、声にならない(うめ)きが漏れた。声帯を(ふさ)がれるように喉に巻かれた包帯が邪魔をしているのだろう。彼女はそれを見て、にこりと笑う。その微笑には狂気が(にじ)んでいた。


「あなたが話したいこと、わたしにはちゃんとわかるの。だからもう少しがまんしてね……もう少ししたら、ずっと一緒にいられるんだから」


 彼の呼吸が乱れ、胸が上下する。べっとりと血を吸った包帯が動くたび、ぐじゅりと湿った音がする。皮下に潜む痛みが、彼の意識を激しく(むしば)んでいるはずだ。だが彼女の瞳は、優しく彼を覗き込むばかり。彼を逃がさないために、どんなことでもしてきた。その痕が、彼の両手両足に金属製の(かせ)や縛り付けた縄の痕として残っている。


「愛してるの、あなたしかいないの。だから、ほかの誰かなんて、もう見なくていいよね?」


 彼女は、わざと穏やかな声音(こえ)でそう囁く。一方的な独占欲を肯定するかのように、テーブル上の少し錆びたメスを手にとり、彼のシャツをまくり上げる。腹部の皮膚には既に何本もの傷があり、その一部はくぱくぱと開いている。そこに刃を近づけ、ちろりと舌で唇を湿らせると、彼の腹に新しい切れ目をそっと入れ始めた。


「大丈夫よ、すぐ済むから。ね? 怖くない……わたしがいるから。」


 か細い刃が皮膚を裂くときの“しゃり”という音が空気を震わす。血がじわりと溢れるが、それをタオルで拭うこともなく、彼女はじっとその液体を見つめる。その目つきはどこか陶酔している。彼の苦しむ表情を見ては、唇を震わせながら小さく歓喜の声を漏らす。


「痛い? そうよね……だって、あなたはまだ生きているもの……生きてわたしを感じてるの。だから、もっとわたしだけを見て……!」


 狂気にも似た愛情を押しつけられ、彼はただかすかな抵抗の(うめ)きを繰り返すが、声にならないその悲鳴は、彼女にとって甘美な音色だ。彼女はその声を音楽のように楽しみながら、彼の胸に頬をすり寄せる。


「全部……わたしのもの。あなたの鼓動も、血も、痛みも、全部……」


 血まみれの手でそっと抱きすくめるように、彼女は彼の体を引き寄せる。縛りつけられた身体は逃げ場を失い、彼女の腕の中で小さく痙攣(けいれん)しながらうめく。彼女はそんな姿に、満足げな微笑みを深める。


 ――何度も繰り返されたのであろう(いびつ)な愛の行為。外では雨音が静かに窓を叩き、時間を忘れさせる。部屋に広がる鉄臭い血の匂いと、互いの吐息だけが現実だ。光などない暗い部屋で、彼女はひたすらに彼を縛り、損なわせ、そして()でる。今も彼を大事そうに見つめながら、その手はどこか子どもが人形を(いじ)るように滑っている。


「大丈夫……ずっと一緒だから。ねぇ、逃げないで……もうどこにも行かせないから……」


 泣きそうな微笑と、底なしの闇が混ざり合った声。

 彼女にとって、これが“愛”だ。相手の形を変え、思う存分に自分だけのものにすることこそが、最上の幸福であり、歪な執着だった。

 そして縛られた彼の目には絶望と困惑が浮かぶが、その息が絶えるまで、彼女はまた新たな傷を作りながら、深く深くその“愛”を刻みつけてゆく。


――雨音が止む頃には、きっとこの部屋は、より濃密な“二人だけの世界”で満たされる。

彼の生命が火のように揺れながらも続く限り、彼女の歪んだ愛は終わらない。彼が逃げる術を完全に失うまで、彼女は彼を自分だけの人形として愛し、縛りつづけるのだから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ