わたしだけの人形
雨の夜に、部屋の明かりを落としたまま、彼女はじっとイスに座っていた。もうずいぶん長い間、この部屋には日が差していない。カーテンは閉ざされ、空気は粘着質なほど重く淀んでいる。中央のテーブルには、彼が横たえられていた。腕と脚を縛られ、目は虚ろに天井を向いている。正確に言えば、もう“天井”を見ているわけではない。意識があるのかどうかすら怪しい。だが、彼女は微笑んでいる。
「ねえ、もう一度わたしを見て?」
そう囁きながら、彼女は彼の頬を撫でる。指先は冷たく、爪には彼の血がわずかにこびりついていた。塗料と化した血痕が茶色く乾きつつあるが、まだかすかに生々しい匂いがする。その痕を気にも留めず、彼女はまるで彫刻のように彼の顔をじっと見つめた。
「あなたがどんなときも逃げないように、ちゃんと縛ってあげたの。ね、嬉しいでしょう?」
うっとりと頬を染めながら呟く彼女の姿は、天真爛漫な少女のようでもあり、崩れかけた狂人のようでもあった。かすかな電球の光に照らされた瞳は、異様に潤んで輝いている。
どくん、どくん、と彼の胸の鼓動がかすかに聞こえる。まだ生きている――彼女はそれを確認するたび、喜びに身を震わせるのだ。すでに両手足には包帯の跡が重なり、ガーゼからは赤黒い滲出液がじわりとにじんでいる。痛々しい姿だが、彼女にはそれさえ愛しい“印”だった。
「ほら、痛い? 泣かないで。わたしだけを見て……わたしだけを愛して……」
彼女は唇をかみしめながら、まるでなだめるかのように優しく話す。指先で彼の髪をとかす仕草は、まるで愛する人への慈しみそのもの。けれど、そこに混ざるねじれた感情は、愛よりも支配と独占に近かった。束縛を“愛”と呼び替えることでしか、彼女は安心できないのだ。
ふと、彼の唇がかすかに動き、声にならない呻きが漏れた。声帯を塞がれるように喉に巻かれた包帯が邪魔をしているのだろう。彼女はそれを見て、にこりと笑う。その微笑には狂気が滲んでいた。
「あなたが話したいこと、わたしにはちゃんとわかるの。だからもう少しがまんしてね……もう少ししたら、ずっと一緒にいられるんだから」
彼の呼吸が乱れ、胸が上下する。べっとりと血を吸った包帯が動くたび、ぐじゅりと湿った音がする。皮下に潜む痛みが、彼の意識を激しく蝕んでいるはずだ。だが彼女の瞳は、優しく彼を覗き込むばかり。彼を逃がさないために、どんなことでもしてきた。その痕が、彼の両手両足に金属製の枷や縛り付けた縄の痕として残っている。
「愛してるの、あなたしかいないの。だから、ほかの誰かなんて、もう見なくていいよね?」
彼女は、わざと穏やかな声音でそう囁く。一方的な独占欲を肯定するかのように、テーブル上の少し錆びたメスを手にとり、彼のシャツをまくり上げる。腹部の皮膚には既に何本もの傷があり、その一部はくぱくぱと開いている。そこに刃を近づけ、ちろりと舌で唇を湿らせると、彼の腹に新しい切れ目をそっと入れ始めた。
「大丈夫よ、すぐ済むから。ね? 怖くない……わたしがいるから。」
か細い刃が皮膚を裂くときの“しゃり”という音が空気を震わす。血がじわりと溢れるが、それをタオルで拭うこともなく、彼女はじっとその液体を見つめる。その目つきはどこか陶酔している。彼の苦しむ表情を見ては、唇を震わせながら小さく歓喜の声を漏らす。
「痛い? そうよね……だって、あなたはまだ生きているもの……生きてわたしを感じてるの。だから、もっとわたしだけを見て……!」
狂気にも似た愛情を押しつけられ、彼はただかすかな抵抗の呻きを繰り返すが、声にならないその悲鳴は、彼女にとって甘美な音色だ。彼女はその声を音楽のように楽しみながら、彼の胸に頬をすり寄せる。
「全部……わたしのもの。あなたの鼓動も、血も、痛みも、全部……」
血まみれの手でそっと抱きすくめるように、彼女は彼の体を引き寄せる。縛りつけられた身体は逃げ場を失い、彼女の腕の中で小さく痙攣しながらうめく。彼女はそんな姿に、満足げな微笑みを深める。
――何度も繰り返されたのであろう歪な愛の行為。外では雨音が静かに窓を叩き、時間を忘れさせる。部屋に広がる鉄臭い血の匂いと、互いの吐息だけが現実だ。光などない暗い部屋で、彼女はひたすらに彼を縛り、損なわせ、そして愛でる。今も彼を大事そうに見つめながら、その手はどこか子どもが人形を弄るように滑っている。
「大丈夫……ずっと一緒だから。ねぇ、逃げないで……もうどこにも行かせないから……」
泣きそうな微笑と、底なしの闇が混ざり合った声。
彼女にとって、これが“愛”だ。相手の形を変え、思う存分に自分だけのものにすることこそが、最上の幸福であり、歪な執着だった。
そして縛られた彼の目には絶望と困惑が浮かぶが、その息が絶えるまで、彼女はまた新たな傷を作りながら、深く深くその“愛”を刻みつけてゆく。
――雨音が止む頃には、きっとこの部屋は、より濃密な“二人だけの世界”で満たされる。
彼の生命が火のように揺れながらも続く限り、彼女の歪んだ愛は終わらない。彼が逃げる術を完全に失うまで、彼女は彼を自分だけの人形として愛し、縛りつづけるのだから。