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喉笛を噛みちぎる茨

 夜の湿地帯に、ぽつんと建つ小さな教会。すでに誰も訪れない廃屋となったその場所は、表向きには“神の家”だったはずなのに、扉を開いた瞬間から肌を焼くような腐敗臭が立ちこめていた。床にはびっしりと黒い(こけ)が広がり、足を踏み入れるたび、ねっとりとした汁を吐き出す。その苔の正体は、ここにこびりついた人間や獣の血と肉を吸い込んだ“異形の(いばら)”だと、のちに知ることになる。


 長い廊下を進み、祭壇らしき部屋に入ると、壁のいたる所に無数の爪痕が走っていた。十字架に吊るされたキリスト像は、顔面の半分が溶けて失われており、骨と筋肉がのぞく。そこから虫が湧き出していて、ビニール袋を引き裂くようにカサカサと耳障りな音を立てる。胸を抉るような死臭と消毒液にも似たツンとした臭いが混ざり合い、喉が焼けるように痛む。


 視線を引きつけるのは、祭壇の上に乗せられた異様な塊だった。ぐちゃぐちゃに千切られた肉片が積み上がり、頭髪らしき毛や内臓の一部が生温い蒸気を放っている。血と脂と膿が混じった液体は、まるで小さな水たまりを作るように床へ(したた)っていた。見ているだけで吐き気がこみ上げるが、そこで私は“茨”のような黒い木の根のようなものが、肉片を包み込むように絡みついているのに気づく。しめった音を立てながら、腐肉と一体化しているように見えるそれは、よく見ると、教会の壁や天井からも無数に伸びていた。


 教会の窓をふさぐように広がるその“茨”。おそらく廃屋となったこの場所に巣食い、そこへ落ちてきた生物すべてを養分に変えているのだろうか……そんな悪夢じみた想像が脳裏をよぎる。茨の先端部には針のような(とげ)が並び、プランプランと揺れるたびに、先端から血の糸を垂らしている。まるで「ここに落ちてきたものは逃がさない」と(あざけ)るかのように。


 すると、不意に後ろから足音が聞こえた。振り返ると、まだ若いはずなのに髪が抜け落ちた女性が、床を這うように近づいてくる。彼女の肌はほとんど焼けただれ、顔の半分がただれたピンク色の肉を露わにしていた。唇が裂け、歯茎が剥き出しになっている――けれど、目だけはやけに血走り、生き残った獣のような光を宿している。


 「たす、け……」


 か細い声でそう言いかけた瞬間、彼女の背後で何かが動いた。茨の根のような黒い(つる)が、するすると伸びてきて彼女の首をギュッとつかむ。抵抗するまもなく、女性の顎は不自然に引き上げられ、つんとした棘が喉を貫く。どろりと濁った血が噴き出し、彼女の喘ぎはどんどん弱くなっていく。それでも目は見開かれたまま、苦悶の表情をこちらに向け、かすれた声を最後まで振り絞っていた。


 だが、けたたましい音とともに、彼女の首は根元からちぎり取られる。飛び散る血しぶきが祭壇の肉塊に混ざり合い、さらに濃厚な腐敗臭を(かも)し出す。首の無い胴体が床を転がるたび、黒い茨はうれしそうに揺れて、しゅうしゅうと泡立つように血を吸い上げているように見えた。やがて女性だった亡骸は完全に持ち上げられ、ぎちぎちと骨と肉がつぶれる音が響く。まるで巨大な捕食植物に呑まれているかのようだった。


 腰が抜けそうな恐怖をこらえ、なんとか後ずさろうとしたが、床を這う別の茨の根が私の足首を絡め取った。うわっと声を上げると同時に転倒し、肩を強打する。立ち上がろうにも、茨はするすると増殖するように伸び、脚をきつく締め上げる。見れば、棘には(おびただ)しい数の人間や獣の血と肉片が付着しており、どろりとした液体があふれている。茨の蔓はまるで生き物のように脈動し、私の血の匂いを嗅ぎつけたのか、いっそう強く食い込んでくる。皮膚が裂け、血が散るたび、ほくそ笑むように茨が震えているのを感じた。


 「やめろ……頼む、離してくれ……!」


 必死の抵抗も虚しく、別の蔓が腕を絡め取り、瞬く間に全身を拘束する。水を吸い上げるスポンジのように、私の傷口から溢れ出る血を、茨は嬉々と啜るかのごとく振動する。視界の端では、天井を覆う太い根がきしむ音を立て、教会全体に唸り声を響かせている。まるでこの建物そのものが一体の生物となり、やってきた犠牲者を血と肉の養分に変える儀式を楽しんでいるかのようだ。


 ぐりぐりと、茨の棘が肉にめり込み、青黒い血管を切り裂いていく。電流が走るような痛みと出血。脂汗が噴き出し、目の前がちかちかと点滅する。喉元まで伸びてきた蔓が、私の首を締め付けながら、さらに奥へ食い込もうとゆっくり歯を立てているのがわかる。痛みで意識が遠のきそうになるが、同時にあの獲物をとる捕食植物のイメージが頭にこびりつき、悲鳴すら上げられないほどの恐怖に支配される。


 顔のすぐ近くに、先ほどまで女性を貫いていた棘が揺れながら迫る。先端にはまだ彼女の肉の一部がぶら下がり、そこからは鮮血の滴りが尾を引いている。棘がこちらを見下ろすかのように一瞬静止し――次の瞬間、首筋に鋭い衝撃が走った。喉を切り裂くよりも先に、やわらかい肉を噛み千切るような感触。絶叫をあげようにも声帯が潰され、息が漏れるだけ。体温が急激に下がり、視界がじわじわと白く閉ざされていく。


 おそらく、これで終わりなのだろう。生きていくために不可欠な血が、どんどん奪われ、二度と息をすることは(かな)わない。教会の廃墟は、“神の家”どころか、長年にわたって“茨”が密かに人間を喰らい続けてきた餌場だったのだ。最後に頭をかすめたのは、彼女が必死に伸ばしていた手の光景と、つい先ほど私が助けてやれなかった記憶。喉笛を裂く生々しい音と温かい血潮が同時に舞い、もはや体は自分のものではなくなっていく。


 遠のく意識の中、教会の天井付近でちらりと見えたのは、腐りかけたステンドグラスに張りつく巨大な根。その根の一部が緑色に濁った眼球を抱きかかえるようにして脈動し、まるで“この場をすべて見ている”と嘲笑する。そこから聞こえてくるかのような囁き――それは、満足げに笑う捕食者の声に違いなかった。神など存在しないこの“喉笛を噛み千切る茨”の巣窟では、肉も魂もすべてが黒い苗床(びょうど)へ吸収され、永遠に血の渇きを満たす糧になるのだ。


 こうして私もまた、棘に穿(うが)たれた傷口からすべてを失い、地面に積み重なる無残な(しかばね)の一部になる。雨音が教会の屋根を叩くたびに、茨はさらに伸び、次の獲物を求めてうごめき続ける――邪神の庭のような狂気を撒き散らしながら。

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