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溶断される嘆息

 雨上がりの森は一見静寂のなかに沈んでいたが、奥へ足を踏み入れるにつれ、わずかな異臭が肌を刺しはじめた。湿り気を含んだ空気に混じるのは、獣の死骸とも腐葉土(ふようど)とも異なる、どこか鉄臭い匂い。胸騒ぎを覚えつつ、(こけ)むした倒木を越えたとき、足元で何かがぐしゃりと音を立てた。見下ろすと、そこには黄色く変色しかけた人間の“歯”と、その周囲を覆うどす黒い液が泥水に混じっていた。


 呼吸を詰まらせ、私はとっさに足を引く。吐き気をこらえながら懐中電灯をかざすと、濡れた地面に散乱するのは、骨の破片と黒ずんだ肉片ばかり。木の根元には、何者かの頭蓋骨(ずがいこつ)がのぞいており、その眼孔(がんこう)周辺には硬く乾いた肉がまとわりついたままだ。まるで“誰か”に噛みちぎられたのか、頭部は崩れかけのまま奇妙に(ゆが)んでいる。そこからはどろりとした液が浸み出し、根元の苔が腐蝕(ふしょく)したように茶色く変色していた。


 さらに森の奥へ進むと、古い山小屋があった。荒れ果てた扉が半分外れたまま、かすかな風に揺れている。近寄ると、周囲の森とは比べものにならないほど濃厚な臭いが鼻腔(びこう)を満たした。血と、化学薬品のような刺激臭が混ざり合い、(のど)がひりつく。中からは、微かな(うな)り声と水音が聞こえる。誰かがまだ生きているのか――そう思って近づいた瞬間、私は生涯忘れられない光景を目撃することになった。


 山小屋の内部は雑然(ざつぜん)と散らかった道具や割れた瓶が転がり、床は黒くぬめった液体に覆われていた。天井付近から下がる一本のロープには、逆さ()りにされた“何か”があった。人間らしい四肢がまだ形を保っているものの、皮膚は部分的に()ぎ取られ、鮮血と(あぶら)が混じった液がポタポタと垂れている。顔に当たる部分には、大きく裂けた口から歯が飛び出すほど開き、内側が黒く焼け焦げたように変色していた。まぶたは下半分だけが残り、眼球は半ば飛び出したまま上を向いている。ときおりロープがぎちぎちと(きし)む音を立て、その度に身体が揺れては血のしずくを床へと(したた)らせる。


 部屋の隅にはさらに無惨な死骸がいくつも積み重なっていた。特に目を奪われたのは、大きな金属の(つつ)に押し込められた胴体。まだ腐りきっていないのか、赤黒く生々しい脈動の名残が肉に刻まれている。筒の底からは血と油脂が混ざった液が(あふ)れ、床を(まだら)に染めていた。血が固まった層と新しい液体が混ざり合い、どろりとした光沢を帯びている。天井から漏れるわずかな光に照らされるたび、そこにうごめく蛆虫(うじむし)の群れが白くてんでんばらばらに移動し、内臓の繊維を食い荒らしていた。


 鼻を押さえようとした私の腕が、何か硬いものに当たる。目をやると、手首くらいの太さの“ノコギリ状の器具”が床に散らばっていて、その()にはまだ皮膚の欠片(かけら)がべっとりとこびりついていた。歯車のようにギザギザした歯先は、さまざまな血痕(けっこん)の層をまとい、乾いた血と液体の境界で小さな泡が生まれては消える。ほんの数秒見つめただけで、そこに刻まれた“使用の痕跡”が嫌というほど想像を()き立てる。 


 唸り声の正体を突き止めようと、部屋の奥を(のぞ)き込むと、暗がりに小さな扉があった。光もろくに通さないその扉をそっと開くと、そこは狭い納戸のような部屋。中には横倒しになったバスタブがあり、その中で、人間の形を崩しかけた何者かがうずくまっていた。曲がりくねった背骨が皮膚を突き破り、頭蓋(ずがい)からは所々に白い脳膜(のうまく)が見えている。はたして生きているのか、死んでいるのか――だがその疑問は、次の瞬間解消された。


 そいつはバスタブの縁にしがみつき、裂けた(した)の奥から血泡(ちあわ)を吹き出しながら、奇妙な唸り声をあげて身をよじる。床にこびりついた血と髪の毛、それから細かい骨片が絡んで、まるで真っ赤な繊維がそこらじゅうを動き回っているように見える。近づけば、臭気はさらに強く、まるで薬品で溶かしかけた腐肉(ふにく)のような鼻を刺す甘さが混ざっていた。 


 「た、す……け……」


 辛うじて聞き取れる、いびつな声。うずくまったままのそいつは、(ひとみ)をどこに向けているのかわからないほど血にまみれ、ほとんどが乾きかけた赤黒い塊と化していた。それでも、かすかにこちらへ手を伸ばそうとする。皮膚が()がれた指先の骨がむき出しになり、動かすたびにがりがりと擦れる音が聞こえる。その爪のあいだには、自分自身の肉か、他者の肉か判別不能な欠片が挟まっていた。彼(あるいは彼女)の願いに答えてやりたい――そう思いかけた瞬間、視界の隅で何か大きな影が動いた。


 振り返ると、山小屋の奥から現れたのは、頭部に金属製のマスクを被った異形の人影。全身は汚濁(おだく)した白衣で覆われ、ところどころに血や臓物の残滓(ざんし)がこびりついている。左手には長い溶断機のような工具を握り、先端には糸を引くように赤黒い液体が滴り落ちていた。その面は、まるで獣の(のど)から漏れ出す唸り声を真似(まね)するかのように、低く響く機械音を放っている。 


 その“何者”が納戸の光景を認めるや否や、溶断機を持った手をぶんと振りかざす。ギラリと光る刃先の向こうで、目の奥が血走っているのがわかった――マスクの隙間からのぞく眼球は、狂気に満ちた光を放っている。私は咄嗟(とっさ)に身を翻そうとするが、すでに太腿(ふともも)に巻きついた何かに引きずられ、ぐらりとバランスを崩してしまう。見れば、さっきの“溶かしかけの存在”が、こちらの脚を(つか)んで離さない。骨ばった手の力は意外にも強く、皮膚に食い込むほど爪を立てている。 


 その瞬間、ひゅん、と空を切る音がして、溶断機の刃が私の肩をかすめた。かまいたちのような痛みが神経を焼き、熱い液体が瞬く間に服を染めていく。悲鳴をあげようとしても、喉が収縮し息が出ない。溶断機を握る狂人は(わら)うような息づかいを響かせ、“まだまだ遊ぶぞ”と言わんばかりに刃を再び構える。床を跳ね散らす血や肉の破片が音もなく飛び、壁にべちゃりと張り付いた。


 助けを求めようにも、既に意識が半ば白濁し、視界が赤黒い波にのまれる。凄まじい痛みのうねりと、濁った腐臭の波状攻撃――耳元では、納戸の被害者がまだごぼごぼと血泡を吐き出し、いつ終わるとも知れぬ拷問の連鎖がここを支配しているのを感じる。足を掴むその力が徐々に弱まり、かと思えば、今度は溶断機がゆっくりとこちらの腕を焼き()とうとしている振動が伝わってくる。皮膚と筋繊維が熱で溶けるような臭いが鼻先を焼き、骨に響くような摩擦音が頭蓋内を締めつける。


 「いや、やめ、ろ……!」


 どこかから聞こえるかすれ声は、私自身のものなのか、それとも他の犠牲者なのかもうわからない。溶断機が骨に到達したのか、ギシギシと嫌な音を立て始め、脈拍が異常な速さで跳ね上がる。目を背けたいのに、痛みと恐怖と衝撃が同時に襲ってきて、まぶたすら思うように閉じられない。血が一気に噴き出し、思考は限界を超えた。 


 深い絶望の底に沈みかける意識のなかで、最後にかすかに見えたのは、納戸の床に散らばるあり得ない数の歯と眼球らしき球体。それらが発する鈍い光と、溶断機を振るう怪人のマスク越しの眼差しが、奇妙な反響音を伴って私を迎え入れようとしていた。すべてが溶かされ、刻まれ、血を垂らし、腐臭にまみれながら、狭い山小屋は明日も同じ狂気の舞台になるのだろう――新たな犠牲者を呼び寄せるかのように。


 こうして、私の意識は痛みとともに切断され、暗闇の奥へと()ちていった。潰れた臓器と焼け焦げた皮膚が軋む音を最後に、山小屋のなかにはまた一つ“溶断された嘆息(たんそく)”だけが尾を引きながら消えていく。血と腐肉と金属音――それらが絶え間なく鳴り響く森の奥深くで、誰も彼もが歯車のように噛み合わされ、やがては断ち切られ、凄惨な破滅とともに飲み込まれてゆくのだ。

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