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目醒める屍鐘

 廃ビルの屋上で、まるで誰かの内臓を塗り込めたかのように真紅の夕日が沈んでいく。その光景がうすら寒い理由は、決して風が冷たいからではない――私の隣には、すでに理性を失った友人の姿があった。血走った目をこちらに向け、唇はぴくぴくと痙攣(けいれん)している。呼吸が荒く、皮膚の表面に無数の汗と切り傷が走っていた。


 「ここに……なにか、いるんだ……」


 彼が何度もそう(つぶや)くたび、ビル全体が深い闇の底へ沈み込むような圧迫感を放つ。踏みしめる床は、おそらく人骨が砕かれた粉末に混じった泥なのだろう。ざらざらと嫌な音を立てながら靴の裏を(むしば)んでいく。数日前、このビルで異様な事件が相次ぎ、警察が封鎖したとの情報を聞いてきたはずなのに――私たちはどこかに魅入られたように、ここまでたどり着いてしまった。すでに正気の境を踏み越えているのかもしれない。


 階段を降りていくたび、壁や天井にこびりついた黒い染みが視界を覆い尽くす。それは血の成れの果てか、あるいはもっと別の得体の知れない液体か。舌先を刺すような鉄臭さと(かび)くさい臭いが混ざり合い、喉が焼けるように苦しくなる。ライトを点けようとしても、どの階も電源が入らないのか真っ暗なままだ。かすかな懐中電灯の光が切り裂く闇の先には、得体の知れない陰影が揺らめいている。


 降りるたびに、階段の踊り場からはじめはポツリ、次にドロリとした液滴が落ちているのに気づく。友人がそれを踏みつけた瞬間、ぬめりとした感触が足元を包み、彼は悲鳴とも笑いともつかない声を上げた。明らかに“水”とは違う粘度を持ったそれは、まるで血と(うみ)と何か別の物質を混ぜ込んだように、嫌な糸を引きながら階段を染めていく。私の心拍が鼓膜を揺らし、視界がじわじわと赤黒く(ゆが)む。


 不意に、コツン……と硬い物が当たる音がして、足元を見ると、人間の指の骨のようなものが二つ、階段の隅に転がっていた。乾いているのに、表面には奇妙な光沢の膜が張っている。ふとそれを拾い上げようとする自分がいることに気づき、ゾッとして手を引っ込める。けれど、何かが手招きするように頭蓋の奥へ囁くのだ。


 「集めて……並べて……」


 頭の中で自分の声なのか分からない囁きがこだまする。隣の友人もまた、同じ声を聞いているのか、目を見開いたまま震えている。見えぬ何かに追われるように、私たちは階段を駆け下りた。


 三階に差しかかったとき、突如としてドアが目の前に崩れるように開いた。そこには巨大なホールがあり、床全体が真っ黒な液に浸され、あちこちで泡がぷくぷくと湧き立っている。アンモニアのような刺激臭が鼻を突き、私は思わず(せき)き込んだ。友人の手を引いて一歩ずつ進むと、天井近くからヒタ……ヒタ……と液体が垂れてきて、髪を()らしていく。しゃがみ込んでライトを当てると、その液体には白い繊維のようなものが絡んでいる。肉? 皮膚? いや、何か腐敗したものが溶けているのか――想像するだけで頭が割れそうになる。


 「やめろ……やめて……」


 隣の友人がまたうわごとのように言う。ふと見やると、彼の目は焦点が合わず、唇からはよだれと血が混ざった液が垂れている。過呼吸のように浅い呼吸を繰り返しながら、腕を傷つけるほどの勢いで自分の肩を()いていた。体中に貼りついた黒い液体の刺激で、皮膚が焼けるような痛みに耐えているのかもしれない。頬の肉がそげ落ちそうなまでに()せて見えるのは、ほんの数十分前までとは別人のようだ。


 怖い。だが、このホールを抜けなければ外へは戻れないと、なぜか理性が訴えてくる。足元を懐中電灯で照らしながら、慎重に一歩ずつ進む。ぬめりを増した床は、まるで底なしの泥沼に足を取られるようだった。友人が私の服を(つか)む指先が、白く変色するほど力がこもっている。そのくせ、目は宙をさまようばかりだ。


 ホールの中央近くへ差しかかったとき、とんでもないものが視界に飛び込んできた。床の液体から、何十本もの人間の腕や脚が突き出しているのだ。ほとんどが皮膚を失い、骨が露出し、筋がねじれている。誰かが膝まで浸かったまま絶命したのか、そもそもバラバラに解体されたものをここへ放り込んだのか……どちらにしろ、理性的な理解を拒む(むご)い光景。ここだけは通りたくないという本能が叫ぶが、引き返しても同じ道を通るしかない。私は息を飲み、友人の腕を引きながらこの死の海を横切ろうとした。


 すると、突如として闇の奥から甲高い声が響き渡った。それは人の笑い声……あるいは泣き声のようにも聞こえる。まるで自分の発する音に耐えきれず狂乱しているかのようだ。あまりにも不快な周波数が頭蓋骨を振動させ、私は耳を塞ぐ。すぐに後ろから友人の悲鳴が聞こえた。振り返ると、彼が何かに脚を掴まれ、ホールの液体へと引きずり込まれかけている。


 「離せ、離せええええっ!」


 友人が狂ったように脚をばたつかせる。足元を見ると、確かに人形のような白い腕が、友人の足首を(つか)んでいるのがわかった。皮膚のない青白い手が、ぎりぎりと彼の骨を砕くほど力を込めている。どうやって振り解けばいい? 助けようと腕を伸ばすが、私の手首にまで何かの粘つく触手のようなものが絡みつき、身動きが取りづらい。友人は激しい痙攣(けいれん)を起こして息が詰まるような咳き込みを繰り返し、やがて目を白黒させながら瞳孔(どうこう)が開ききった。


 そのとき、はっきりと視界の端に何かが映った。ホールの奥、ドロドロの液の中から現れた“何か”――それは人間の形をしているが、まるで無数の死体を繋ぎ合わせたように、あちこちから手や足や頭の断面が飛び出している。複数の口が同時に開閉し、何十もの濁った瞳がこちらを(にら)んでいた。全身が互いに引き裂き合うような造形で、悲鳴と(わら)いの中間の音を発し、ホールの液体を撹拌(かくはん)している。理性で処理するには余りにおぞましく、脳が悲鳴を上げる感覚をはっきりと感じた。


 「……あ、ああ……」


 友人がかすれ声を出したきり、口から泡を吹き、意識を失いかけている。私は必死にその腕を掴み、なんとか引きずり出そうともがく。だが、その“何か”が近づいてくると同時に、床の液体が沸騰するように泡立ち始め、ひどい腐臭と熱気が巻き上がった。もはや目も開けていられないほどの刺激臭が肺に流れ込み、思考の奥をぐちゃぐちゃにかき回す。意識が遠のきながら、私も友人も、この化け物の餌食となるしかないのだろうか――そんな絶望が、脳髄まで染みわたる。


 異形の怪物に抱かれているかのように、大気全体が湿りきった手で私の首を絞めるようだ。耳鳴りがキーンと鳴り、頭蓋の奥で何千匹もの虫が()い回るような感覚がする。口内には血の味が広がり、歯の根が合わないほど震えが止まらない。友人の瞳はもはや濁りきり、歯を食いしばったまま意識が抜け落ちている。


 「はは……あは……」


 不意に自分でもわからない笑い声が漏れた。こんな地獄のような場所で生き延びても仕方がない――そんな思考が一瞬かすめる。理性は崩れ去り、狂気だけが波紋のように心を飲み込む。隙間だらけの精神に、“ここにいればいいじゃないか”という誘惑がささやいてくる。こんなにも血と肉と溶けた意識が共鳴する世界で、一体何をあがいているのか、わからなくなってきた。


 あの化け物が、何十もの歯を擦り合わせるような声を響かせているのがわかる。ピチャピチャと泡立つドロに、友人の身体がついに沈み込み、その姿は見えなくなった。私は(すが)り付くように彼の手を探すが、液体の中でそれらしき感触はもう見つからない――代わりに、ぐにゃりと弾力のある“何か”を掴んだが、それが彼の腕か、あるいは別の死体の一部かすら判別不能だ。口元まで迫る泥の海が、私の耳を覆い尽くそうとする。


 「……あああ……!」


 悲鳴を上げても、口からは泥が流れ込むばかり。舌が焼けるように痛み、喉を裂くほどの酸味と腐臭が胃へ達し、内側から壊されていく。目を開けば、何もかもがぐにゃりと歪んだ赤黒い空間。視界の端で、あの化け物が無数の手を振り乱し、よろめきながらこちらへ歩み寄るのが見える。助けて――こんな地獄はもう嫌だ――理性の最後の叫びが虚空へ消えていく。


 ――どのくらいの時間が経ったのか。気づくと、私は膝まで泥に沈み、頭はほんの少しだけ地上に出ていた。そこに呼吸があるのか、それとも幻想なのかもわからない。身体中の感覚はほとんど失われ、筋繊維がとろけそうなほど疲弊しきっている。友人の姿はもうどこにもない。遠くのほうで、異形の怪物が口々に笑い声を立てている。耳を塞いでも染み込んでくるその声に、私は薄く笑みを返すしかなくなっていた。狂気に汚染された笑いが、震える唇の端からもれる。


 おかしい。自分が何をしているのか、どうしてここにいるのか、すべてのつじつまが合わなくなってきた。ただ、ひとつだけ確信がある。このビルからはもう抜け出せない、少なくとも正気のままでは。いっそこの泥に身を沈め、すべてを終わりにするほうが楽かもしれない……。


 そのとき、薄闇の向こうで聞こえてきたのは、また別の足音。誰かが階段を下りてくるのか。犠牲者なのか、それとも仲間なのか。その気配を感じ取ったとき、私の意識は既に狂乱の海の底だった。ぼんやりと笑いながら、私は迎えにくるのかもしれない“新たな獲物”を想像する。そして、何かが私のなかでささやく。「ようこそ、こちら側へ。理性など投げ捨ててしまえ」と。


 壊れきった頭蓋の内側で、目醒(めざ)めるような(かね)の音が鳴り響く。見えない血のしぶきが脳を染め、記憶の断片を削っていく。その鐘はきっと、誰かの死や苦痛を喜び、さまよう者たちを狂気へ引きずり込む屍鐘(しかばねがね)なのだ。ドクン、ドクン……と脈打つ音が地面を揺らし、私はもう自分が人間なのかさえわからなくなる。雨のように降り注ぐ肉塊と泥の粒が、ぬるりと両頬を舐める。私の笑い声がこの空間に重なり、次の瞬間、すべてが真っ暗に閉じていく。


 最後に頭をよぎったのは、友人の面影でもない。帰る場所でもない。ただ、頬を突き破るような痛みと、耳鳴りに溶けた怪物の声と、私を壊す死の鼓動だけが――あの赤黒い泥のビルの中で永遠にこだまするのだった。

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