狂乱の座標
その古い洋館は、さながら悪夢を詰め込む棺桶のように、鬱蒼とした森の奥にひっそりと建っていた。錆びついた門をくぐると、途端に肌を刺す寒気がじわりと広がり、足元からは何かの囁きが聞こえるような錯覚さえ覚える。誰にも踏まれなくなった庭は荒れ放題で、何本もの枯れた木が骨のように突き出していた。玄関の扉を押してみると、意外にも容易く開き、埃と腐臭の混じった空気が流れ出す。
もとは優雅な屋敷だったのか、ホールの天井には大きなシャンデリアが吊るされている。しかし、今は歪んだ鎖で繋がれたまま、かすかに揺れて悲鳴のような軋む音を立てるだけ。その光景はまるで、長らく人知れず“狂気の客”を招き続けてきた証拠のように見えた。
玄関ホールの奥にある廊下へ足を踏み入れると、壁一面にナイフやハサミ、曲がったフォークなどが何十本も突き刺されていた。しかも、ただ乱雑に刺してあるだけではない。一本一本、その周囲には意味を成さない英字や記号が書き殴られ、赤黒い液体が所々を滴り落ちている。床に目を落とすと、長い髪の毛や血がこびりついた絨毯の切れ端が散乱し、不気味にくしゃくしゃと踏みしだかれていた。どこか奥で、わずかに重低音の唸り声が響いている。何かが生きている気配……いや、もっと“狂おしい存在”があるのだ。
意を決して進むと、奥の部屋の扉がほんの少しだけ開いている。そこから手首ほどの太さの鎖が何本も伸びていて、その先には誰かが押し込められている形跡があった。覗き込むと、弱いランプの明かりの中、床に鎖で縛られたまま動かない人影が見える。まるで人形のように四肢があり得ない角度で折れ曲がり、皮膚の裂け目からは乾きかけの血が黒い筋を描いている。苦しそうに呼吸しているのか、胸がかすかに上下しているが、目の焦点は完全に虚空を見ていた。
その隣に立っていたのが、“狂人”としか呼びようのない男だった。まだ若い顔立ちだが、顎の骨が尖り、両目はどろりとした光を放っている。薄汚れた白衣のようなものをまとい、そこらじゅうに血の飛沫や染みがついていた。手には形の崩れたノコギリを握りしめ、先端には布切れや肉片が絡んでいる。その男は私の存在に気づくと、ふいに顔を上げ、ひひっ、と小馬鹿にするような笑い声を洩らした。
「……いらっしゃい。新しいオモチャが来たなぁ。えぇ? 退屈してたところなんだよ」
そう言い放った瞬間、男の目がギラリと輝き、脳裏に嫌な警鐘が鳴り響く。血走った瞳と、裂けた口角から見える歯茎は、いかにも獣じみている。部屋に充満するのは血と錆と消毒液のような入り混じった腐敗臭。壁には骨や歯のようなものが雑に並べられ、赤黒い塗料で描かれた不可解な紋様がいくつも重なっていた。
私は逃げるべきだと直感したが、狂人はあっという間に距離を詰め、ノコギリを振りかざしてくる。かろうじて身を避けたものの、刃先は私の腕をかすめ、薄く裂けた皮膚から血が滲み出る。軽い切り傷でも、狂人の“凶意”が伝わってくるようで呼吸が乱れる。一瞬の隙を突いて扉の外へ逃れようとするが、足元には鎖や汚物、床に放置された器具が邪魔をしてスムーズに動けない。
「待てよ……逃げるなよ……! こっちに来いっての!」
追いすがる男は、まるで子供が喜ぶようなテンションで声を張り上げている。私を恐怖の底へ突き落とそうとしているのではなく、あくまで“遊び”を楽しんでいるように見えるのだ。その無邪気さと狂気が混ざった笑みが、理性を大きく削り取っていく。ノコギリの刃が床に擦れて、嫌な金属音を響かせながら私を追い詰めてくる。後退を繰り返すほどに、私はある一点に気づいた。廊下の天井――そこには何体もの“人形”のような存在がぶら下がっている。
よく見ると、それは死体だった。手首を鎖で吊るされ、両足が無残に切断された形跡もある。いくつかは片目がえぐり取られたのか、穴の奥に蛆虫が湧いている。化膿した傷口からは、色の変わった体液が垂れ、ぴちゃりぴちゃりと床を濡らしていた。まさに狂人の“作品”が天井を埋め尽くしているのだと理解した瞬間、頭が真っ白になる。こんな地獄が人の手で作り出されているなんて、にわかに信じがたい。
「どう? すごいだろ? ひひっ。こいつらはみんな、僕の最高傑作なんだ。痛みが溜まると面白い声が出るし、命を繋ぎとめるとどんな顔になるか気にならない?」
男はノコギリを上下に振りながら、興奮に身を震わせている。私の絶望に満ちた表情を観察し、歓喜の笑みをさらに深く刻む。血と屍のにおいが充満する中、頭がクラクラして動きが鈍くなった私を見て、男はまるで優しい指導者のように言葉を投げかけてきた。
「大丈夫……痛いのは最初だけ。慣れたら楽になるからさ。ほら、こっちへおいで――」
ゾッとするほどの“慈悲”が、まるで子守唄のように響く。男は私の腕を掴み、ズルズルと引きずるように“実験室”へ戻ろうとする。抵抗しようにも体が思うように動かず、視界はぐらついて足元がおぼつかない。そこへ、廊下の隅にうずくまっていた鎖の囚人が、かすかな声を上げた。見ると、その人間は両足を切り取られた跡からひたすら血を流しており、怯えたままこちらを見つめている。助けを求める表情で私を見上げるが、どうにもできない絶望が満ちていた。
すると、男はその囚人に気づき、鼻で笑った後、手にしていたノコギリを鎖の囚人へ向ける。まるで自分の“玩具”を披露する子供のような身振りで、切断された下半身を蹴り飛ばし、ニタリと笑ってから私へ視線を戻した。
「さあ、次は君の番だ……どんな風に壊れるかな?」
絶句する間もなく、私の腕は乱暴に捻られ、男は満足げにノコギリをゆっくりと私の肩口にあてがう。血の気が引いて呼吸が止まりそうになるが、男の腕力から逃げ出す術はない。かたかたと歯を鳴らしながら、私はせめてもの抵抗を試みるが、狂人は私の苦しみを見てますます楽しげな表情を浮かべるだけ。薄闇を切り裂く金属音が耳を貫き、刃が皮膚に触れた瞬間、生温い血がじわりと染み出す。
「……ひひっ、これからが面白いんだよ……」
その嗤い声は、広い洋館にくぐもったエコーを作りながら消えていく。後には、私の絶叫と狂人の歓喜が交じり合った歪な“旋律”だけがしばらくの間、館の奥深くまで響き渡った。血の匂いと、折れた骨の感触、そして狂った男の笑みが一体となり、夜の闇をさらに濃く染め上げていく。
――こうしてこの洋館は、今夜も“狂人”の手で作り出される惨劇の舞台となり、澱んだ闇の中で新たな犠牲者を待ち受けている。誰ひとり救いの手が届かぬまま、狂乱と苦痛だけが永遠を続けるかのように。