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静寂に笑う歪影

 廃れた村の入口には、ひび割れた案内板が立っている。文字はすでに黒い(こけ)浸蝕(しんしょく)され、もはや何と書かれているのか判別できない。そこから先へ踏み出すと、どこからともなく動物の死骸が腐るような酸っぱい匂いが鼻孔を刺し、土の奥から湿った気配がじわりと(にじ)んでくる。夕闇に包まれた村は、一見静まり返っているが、その静寂には妙に張り詰めた狂気が混ざっているのを感じた。


 土の道を進むうち、家々がまばらに現れる。どの屋根も傾き、壁は土埃で茶色く塗りつぶされている。窓ガラスは割れ、木造の(きし)む音が風とともに耳を打つ。だが、その誰もいないはずの建物の隙間から、かすかに低い笑い声のようなものが聞こえる気がした。まるで薄皮一枚隔てた向こうに、息を潜める狂人たちが(うごめ)いているかのように。


 ある家の戸口は半分開いており、そこだけ強烈な臭気が流れ出ていた。足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは、濡れたように赤黒い床。点々と滲むその色は、いかにも血液の(あと)だ。よく見ると、肉の破片のようなものが散らばり、乾ききらない生臭さが部屋の空気を充満させている。壁を照らすと、子牛ほどの大きさの獣の死骸が転がり、腹が裂けて内臓が飛び出していた。その周囲には奇妙な文字のような模様が血で描かれているが、言語とも呪文ともつかない線が錯綜(さくそう)している。


 「ここは…何なんだ…」


 恐怖よりも不気味な寒気が背を走り、私は思わず後ずさる。そのとき、不意に足元が柔らかく沈んだ。見ると、そこには人間の腕が転がっていた。手首の部分で千切られており、骨と筋繊維がむき出しのまま乾ききっていない。皮膚には奇形じみた爪痕のような傷が残り、血と泥と何か他の粘液が混ざり合い、靴底にまとわりつくようにぬめる。吐き気がこみ上げ、口元を押さえながら外へ駆け出そうとするが、玄関付近で奇妙な足音が聞こえ、私は身を強張らせた。


 戸口に立っていたのは、痩せぎすの人影だった。髪はべったりと泥に塗れ、皮膚は薄汚れた布の切れ端で所々だけ隠されている。(あご)はありえないほど尖り、唇が裂けて歯茎がむき出しになっていた。両目は血のように赤黒く、狂気に満ちた光が宿っている。その姿はまるで人間というより“獣”に近い。やつは私に気づくと、裂けた唇から(しわが)れた笑い声を漏らしながら、家の中へずるりと足を引きずるようにして入り込んできた。


 「……だれだ……おまえは……」


 低く軋む声が喉の奥で震え、私の鼓膜をじわりと(しび)れさせる。逃げたいのに、足がすくんで動かない。どうにか唾を飲み込み、半歩下がろうとした刹那、やつは地を()うような動きで一気に距離を詰め、冷たく泥だらけの指で私の足首を掴んだ。両手とも指が異様に長く、爪が半分剥がれて血が滲んでいる。そこから吐き出される生臭い呼吸と、(あざけ)りに似たかすれ声。心臓がドクン、ドクンと痛みを伴って脈打ち、血管を焼き尽くすような恐怖がじわじわと全身を浸す。


 「おまえも……同じに、してやる……」


 私は咄嗟(とっさ)に足を振り払い、どうにか家の外へ転がるように逃げ出す。夕暮れの赤い光が、さらに不気味に村の通りを染め上げているのをぼんやりと視界に捉えつつ、全力で走る。だが、背後からは明らかに人間離れした速さの足音が追いかけてきた。地面が粘つくように感じられ、私の足を取る。周囲の民家からも低い笑い声が何重にも重なり、四方八方でうごめく何かがこちらを見下ろしているようだ。


 狭い路地へ飛び込み、息を呑んだ瞬間、そこには()り下げられた人間の死体があった。天井から垂れるロープで首を吊られ、足元からは内臓がこぼれ落ちている。しかも、まだ新しいのだろうか、肺や肝臓の赤黒い色が生々しい。滴る血が地面にこびりつき、ハエのような虫が群がり始めていた。茫然(ぼうぜん)として立ち尽くしていると、すぐ脇の暗がりから別の影が姿を現す。痩せこけて背骨が浮き出た姿のそれは、泥のような液体を口元から垂らしながら、じっとこちらを伺っている。


 近づくほどに、その眼窩(がんか)には既に眼球がなく、代わりに黒い穴が覗いていた。それにもかかわらず、まるで私を正確に捉えているかのように視線を送ってくるのが恐ろしい。震えと混乱で思うように動けず、私は通りに転がるように飛び出す。辺りを見回すと、村の建物という建物から異形の者たちが湧き出すように姿を現していた。


 どれもこれも骨ばった手足でよろめき、肌は内側から腐っているかのようにただれている。その裂けた唇や剥き出しの歯には、人の肉か獣の肉か分からない赤い繊維が絡まりついていた。そこらじゅうに散乱する動物と人間の死骸――そして血の臭いが混じり合い、この村全体が狂気に満ちた“巣”と化していることを悟る。鼓動が爆音のように耳元を打ち、まともに考えることすらできない。


 私は、見つけた道なりに全力で走り出す。だが、ほどなくして行き止まりにぶつかった。その先にあるのは、石造りの倉庫のような建物。扉は開いていて、薄暗い内部に何かが蠢く気配がある。戻るとあの化け物たちに捕まるのは必至だ。意を決して中へ滑り込むと、そこには幾体もの死体が無造作に積み上げられていた。血と腐肉が混ざり合い、壁には粘液が絡んだ塊がこびりついている。ひときわ大きな死骸は、腹から裂かれ、溶けかけの臓物がべったりと床を覆っていた。


 その時、背後から鋭い爪が私の肩を掴む。思わず叫び声を上げようとするが、同時に地面へ突き飛ばされ、口から(ほこり)と血の味が広がる。振り返ると、最初に家で遭遇したあの痩せぎすの化け物が、横に裂けた唇から泡立つ唾液を垂らしながら(のぞ)き込んでいた。私を見下ろすその赤黒い眼には、“獲物を確保した”という喜悦(きえつ)のような光が宿っている。心臓が潰されそうに痛む。恐怖で声にならない悲鳴が喉の奥で詰まる。


 「やめろ…やめてくれ…!」


 それでも本能的に言葉が漏れるが、化け物に届くはずもない。奴は私の喉元に鼻を押し付け、血と汗の混じった臭いを嗅ぎとるように深く息を吸い込み、いかにも満足げに喉を鳴らす。伸びきった腕の爪先が、私の胸を切り裂く勢いで引き下ろされ、服も皮膚も一緒に破れた。鮮血が勢いよく飛び散り、床にいた別の死体の顔を濡らす。呼吸ができないほどの激痛が全身に走り、骨の奥で悲鳴が反響する。目をそらそうにもそらせない。奴の舌がだらりと伸びて、私の頬を舐める。生臭い唾液と血の匂いが混ざり、脳が焼き切れそうになる。


 爪がさらに深く肉を裂き、血の(しずく)(あぶら)がぐちゃりと混ざって滴る。ひゅうっと漏れる息が荒れ狂い、視界の隅が暗くちらつく。遠くでは、他の化け物たちの足音やうわごとのような笑い声が小さく聞こえる。まるで私の死を待ちわびるように、倉庫全体が震え、臭気が強まった気がした。何かが私の腹部を圧迫する。見ると、痩せこけた別の“腕”が私の腹部を押さえ込み、鋭い骨のような爪をあてがっている。やつらは二体、三体と集まり、私を取り囲んでいるのだ。


 「殺さないで……」


 その声すらもう震えに飲み込まれ、耳鳴りに消えそうだ。化け物たちは、私の脚を掴んで引き裂こうとするように力を入れ、骨がきしむ音が生々しく体内に響く。激痛で悲鳴を上げ、腕を振り回すが、ただ宙をかくばかり。狭まる意識の中で、裂けた胸や腹から何か温かいものが流れ出しているのを感じる。体が次第に冷えていくが、痛みだけが最後の生を証明するかのように強烈に訴えかけてくる。


 息が詰まる。血液と空気が喉で混ざり合い、しゃくり上げるように(せき)をするが、もう言葉は出ない。化け物たちは、一気に私の身体を押さえつけ、胸の裂け目をこじ開けようとしている。急所を外して苦しみを長引かせるつもりなのか、それともただ愉悦に浸りたいがための行為か。どちらにせよ、私に逃れる術はない。噛み合わない(あご)から生臭い息を吐きながら、やつらは闇の中で獲物を喰らう飢えた異形(いぎょう)と化していた。


 胸の奥へ爪が触れる瞬間、狂ったような電流が神経を走り抜け、断末(だんまつ)の叫び声さえ封じ込められる。脳が焼け切れ、目の前が赤黒く染まる。最後の最後で、これが自分の最期なのだと朧気(おぼろげ)に悟る。それと同時に、村の静寂の底からまた狂気じみた笑い声が鳴り響く。私を餌にするこの巣窟(そうくつ)は、まだまだ血と肉を欲しているのだろう。


 瞼を閉じることすらできないまま、視界が大きく揺らめき、すべてが遠のいていく。じくじくと熱を放ちながら、命がこぼれ落ちる。痛みの波が頂点に達し、次の瞬間にはもう、痛覚さえも消えていく。自分が地面に横たわる(むくろ)へ変わりゆく過程を感じながら、私は息絶えた。かすかに聞こえるのは異形たちの咀嚼音(そしゃくおん)と、村を覆う血の臭い。それらがまるで共鳴するように、最後の鼓動すら呑み込むかのようだった。


 こうして私の命は、静寂に笑う(いびつ)な影の中に呑まれ、赤黒い肉塊と化して、この狂気の村の“一部”に取り込まれる。再び夜が訪れ、やがて朝が来ても、この地獄の巣窟は変わらぬ姿で獲物を待ち続けるのだろう。誰もが二度と抜け出せないまま、その血をもてあそぶかのように。

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