第19話 従者の思い
ジュリアンが去った後、その日の夕食の席で、ローザマリアは辺境伯にクズ石のドレスについて話をした。
完成品を見てほしい旨を伝えると、辺境伯も快諾した。その後の様子も気になっていたようで、興味津々の様子であった。
その後ろには、感情の見えない顔で立つジュリアンがいた。今の話も聞こえているはずなので、先ほどの誤解も解けただろう。チラチラと様子を窺うも、依然としてその瞳は凍てついており、ローザマリアは困惑した。
ーー他にも何かしてしまったのかしら…?
ローザマリアには心当たりがなかった。そもそも、ジュリアンは、辺境伯と一緒にずっとライン砦で過ごしていたし、城に帰ってきてからも、常に辺境伯のそばにいるため、ローザマリアと関わる機会はあまりない。あそこまでの敵意を向けられる理由が分からず、困り果てたローザマリアは、一度きちんとジュリアンと話し合うことにした。
従者といえど、婚約者以外の男性と部屋で二人きりになるのはよろしくないということで、口が固いロエナに後ろに控えてもらっていた。ロエナには、今日見聞きしたことは他言無用だと、事前に言い含めてある。
緊張の面持ちで待ち構える中、ジュリアンがやってきた。
「お呼びでしょうか?」
「ええ、来てくれてありがとう。どうぞ、かけてちょうだい」
ジュリアンが椅子に座ると、ロエナが二人の前に紅茶を置いた。そして気配を消すように、ローザマリアの後ろに下がっていく。
「閣下のお側をあまり離れられませんので、手短にお願いします」
「…分かったわ。じゃあ、単刀直入に聞くわね。ジュリアンは、私のことが嫌い?私、あなたに何かしてしまったかしら?悪いけど心当たりがなくて…。教えてもらえると嬉しいわ」
「…なんのことをおっしゃってるのか、分かりかねます」
「誤魔化さなくていいわ。さすがに、私もそこまで鈍感じゃないのよ?」
むしろ侯爵家にいるときは、悪意に満ちた視線の中で暮らしてきた。前妻を心底嫌っている義母など、まるで視線で人を殺せるほどであった。それに比べると、ジュリアンから向けられるそれは可愛らしいものではあったが、今も良くない感情を抱いていることがビンビンと伝わってくる。
「先日の件でしたら、私の誤解でした。申し訳ありません」
「誤解が解けて良かったわ。でも、それだけじゃないでしょう?私の何が気に入らないのかしら?」
「…」
ジュリアンは何も答えない。笑顔を浮かべてはいるものの、目は全く笑っておらず、口元がピクピクと引き攣っている。
「言いたくないならいいわ。でも、そうしたら私は何も改善できないわ。あなたに不愉快な思いをさせてしまっているのに…。これからもこんな状況が続くのは、お互い嫌でしょう?」
ローザマリアの言葉を受け、何か思うところがあったのか、ふーっと長く息を吐いたジュリアンは、重い口を開いた。
「私は…、長年閣下のお側にいました。思いやりのかけらもない、閣下の手を煩わせる悪女達から、ずっとお守りしてきたんです!なのに、それなのに…。こんなにあっさりと婚約して…!!面白いわけないじゃないですか!!」
ジュリアンの叫びが、部屋に響き渡った。
言葉は分かるはずなのに言っていることが分からず、ローザマリアは混乱した。思わず後ろに立つロエナに目を向けると、彼女はひどく冷たい、まるで道端に落ちているゴミでも見るような目で、ジュリアンを見ていた。
ローザマリアはすっと体を前に戻し、もう一度ジュリアンが言っていた言葉を反芻した。しかし、さすがに予想もしていなかった事態に、どう反応していいか分からない。
「…つまり、今まで女っ気がなかった閣下に、急に婚約者ができて、気に入らないってことかしら?」
「そうですけど、何か!?いいですか、閣下は本当にすごい方なんです!頭の軽い、王都の貴族の女には勿体無いほど、素晴らしい方なんですよ!所詮あなた達は、ちょっと噂を流せばすぐそれを鵜呑みにするようなバカなんですから!」
「噂…?それって王都に広まってる血塗れの辺境伯という噂のことかしら…?もしかして、それを流したのはあなたなの…?」
「そうですよ!普通に考えればおかしいと分かるような噂なのに、すぐに広まっていきました。閣下と直接話したこともないのに、そんな眉唾物の噂だけで恐れるなんて、本当にどうしようもない!その程度の女なんて、閣下には必要ありません。排除できて清々しましたよ」
血塗れの辺境伯。ローザマリアも、辺境に来る前、義母達に散々聞かされた噂だ。まさかそれを、辺境伯に女を近づけないため、ジュリアンが流していただなんて、思ってもみなかったことである。
「そのようなこと、たとえ閣下をお守りするためとはいえ、閣下を貶める行為よ!?」
「うるさい!いい人ぶるなよ!じゃあ、それ以外どうすれば良かったんだ…!!それでやっと落ち着いたと思ったら、まさかいきなり婚約するなんて…。しかも、貴族の女の癖に性格も良くて、仕事もできて、辺境のために尽くしている!?なんだよそれ!そんな女、いるわけないでしょう!おかしい!!俺は絶対認めな…」
ジュリアンが言葉を言い終える前に、バシャッという音が響いた。
一瞬の間に、ジュリアンは水浸しになり、頭からはポタポタと水滴が落ちてくる。
急な出来事に驚きながら、横に立つ人影を見ると、ロエナが立っており、その手には空になったティーポットがあった。そう、ロエナがジュリアンに向かって、ティーポットに残っていた紅茶をかけたのである。
「すみません、手が滑りました」
ロエナは、いつものように真面目な顔をして、淡々とそう言った。
「何するんだよ!」
「何するんだ、はこちらのセリフです。困りましたね。やはり冷めた紅茶では、熱くなった頭は冷やせないようです」
「なんだと!?」
「少しは頭を冷やせと言ってるんです」
ロエナは、冷たくジュリアンに言い捨てると、驚きで固まっているローザマリアの方を向いた。
「ローザマリア様、そろそろリタさんがくる頃です。こんな人放っておいて、行きましょう」
「…ロエナ」
「安心してください、紅茶は冷めてるので、火傷の心配はありません」
ロエナは、少しでも早く、この場からローザマリアを連れ出したかった。後ろで大人しくしてるよう言われてはいたが、これだけ自分の主を侮辱され、黙っているほどできた人間ではない。しかも、ローザマリアの人格云々ならともかく、ただ辺境伯への想いを拗らせた八つ当たりで、子供の癇癪としか思えないものを、これ以上聞く必要性も感じなかった。
ローザマリアを見つめる瞳からは、主人への忠誠とジュリアンへの憤怒に溢れていた。その思いを受け止めたローザマリアは、優しくロエナを諭した。
「ロエナ、私のためにありがとう。でも、紅茶をかけるのはやりすぎよ。ジュリアンに謝りなさい」
「ですが…!!」
言い返そうとするロエナであったが、穏やかな顔でこちらを見つめるローザマリアに、言葉が詰まった。そして嫌そうな顔をしながらも、ローザマリアに従い、ジュリアンに向かって頭を下げる。
「…申し訳ありませんでした」
それに続き、ローザマリアもジュリアンに謝罪する。
「ジュリアン、ごめんなさいね。これを使ってちょうだい」
ローザマリアは懐からハンカチを取り出し、それをジュリアンに手渡した。
水浸しになり、さすがに頭が冷えたのか、大人しくしていたジュリアンであったが、まさかこの状況でローザマリアから気遣われるとは思わず、驚きの声を上げた。
「は?どうして俺に…?」
「いいから、使ってちょうだい。それと、すぐに着替えないとね。風邪を引いたら大変だわ」
困惑しながらもハンカチを受け取ったジュリアンを、ローザマリアは丁重に部屋から帰した。
それを黙って見送ったロエナが、おずおずとローザマリアに声をかける。
「あの、ローザマリア様。…怒っていらっしゃいますか?」
「いいえ。…ごめんなさいね、ロエナ。嫌な思いをさせてしまったわ」
「いえ、そんなこと!それより、ローザマリア様が…」
「私は大丈夫よ。ありがとう、代わりに怒ってくれて。紅茶をかけるのはいけないことだけど、でもあなたの思いは本当に嬉しかったわ」
ローザマリアは立ち上がると、ロエナの手を取って感謝を述べた。いつも真面目で冷静なロエナが、自分のためにあそこまで怒ってくれたことに、心から感謝を伝えたかったのだ。
目を潤ませたロエナは、そのままぎゅっと、ローザマリアの手を握った。
「ローザマリア様に、あのような言いがかりをつけるなんて、最低です…」
「それだけ、ジュリアンは閣下のことを大切に思っているのよ。きっと今はまだ、気持ちの整理ができていないだけだわ。だから、ジュリアンのこと悪く思わないであげてね」
「…今日のことは、誰にも言いません。でも、忘れもしません。もしまた、ジュリアンさんがあのようなことを言ったら、その時はシドさんに言って、この城から叩き出してもらいます!」
怪我をして前線から引退したとはいえ、がっしりとした体つきのシドであれば、ジュリアンなどすぐに追い出せるだろう。これまでのローザマリアの献身を知ってるシドであれば、協力してくれるはずだ。
シドに掴まれて、城から放り出されるジュリアンを想像したローザマリアは、ふっと顔を緩めた。
「ふふふ、シドならやりかねないわね。頼もしいわ。…ロエナ、いつもありがとう」
ふわりと微笑んだローザマリアは、深い感謝を胸に、優しくロエナを抱きしめたのであった。