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前編

 〇 押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこ田村皇子(たむらのみこ)


 押坂彦人大兄皇子は敏達(びだつ)天皇と広姫(ひろひめ)皇后との間に生まれた嫡男です。

 天皇は年長の皇族の中から群臣の推挙によって選ばれます。崇峻(すしゅん)の次の天皇を決める際に、天皇竹田皇子(たけだのみこ)厩戸皇子(うまやどのみこ)と共に天皇候補となりますが、三人とも年少ということで敏達皇后であった推古(すいこ)天皇が即位します。

 押坂彦人大兄は推古天皇の在位中に早世してしまいすが、糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)の間に田村皇子をもうけます。

 両親が皇族であり、更に父方の祖父が天皇という正統な血筋であるため、田村皇子は有力な皇位継承候補となりました。



 □ 推古元年(593年) 推古天皇即位

 □ 推古元年(593年) 田村皇子が生まれる

 □ 推古元年(600年) この頃に押坂彦人大兄皇子が亡くなる

 □ 推古元年(622年) 聖徳太子が亡くなる

 □ 推古元年(626年) 蘇我馬子が亡くなる

 □ 推古元年(628年) 推古天皇崩御


 敏達天皇 ┐ 

      ├ 押坂彦人 ┐

  広姫  ┘ 大兄皇子 │

             ├ 田村皇子

 敏達天皇 ┐      │

      ├ 糠手姫皇女┘

 伊勢大鹿 ┘

 首菟名子




――本日は皇族の田村皇子(たむらのみこ)にお話を伺います。



田村皇子(たむらのみこ)(以下「田村(たむら)」)「よ、よろしく」



――田村皇子は敏達天皇の嫡孫で有力な皇位継承者です。



田村(たむら)「心にもないことを。最有力は群臣からの人気が高く実績十分な厩戸皇子(うまやどのみこ)―――聖徳太子と皆が言ってる」



――ですが、聖徳太子は推古天皇在位中に亡くなりました。これで父を天皇にもつ皇族がいなくなりました。そうなると両親・祖父母共に皇族で祖父が天皇である田村皇子が血筋としてはもっとも正統ということになります。



田村(たむら)「蘇我馬子が健在の間は蘇我系の皇族が優先されるはず。聖徳太子の皇子の山背大兄王やましろのおおえのおうが最有力だろうな………」



――蘇我馬子が亡くなりました。



田村(たむら)「………もしかすると、イヤ、蘇我氏の権勢は衰えておらぬ。馬子の息子の蝦夷が大臣となり、馬子の弟の境部摩理勢(さかいべのまりせ)が山背大兄王の後見人についている。私の出番など無い」



――推古天皇が危篤となり田村皇子と山背大兄王に遺言を残します。田村皇子には「慎み深く言動に気をつけよ」、山背大兄王には「若く未熟なので群臣の意見を聴きなさい」です。



田村(たむら)「後継者を決めずに崩御された………」



――後継者を指名しなかったと言われることもありますが、天皇は群臣の推挙で行われるので推古天皇は明言しなかっただけとも思われます。発現だけをみれば山背大兄王は若輩なので田村皇子が相応しいと遺言しているようにも思えます。



田村(たむら)「群臣の推挙が必要になるのだろう。蘇我氏の権勢が強い今の時代で私なんかを推挙する者など………」



――推古天皇が崩御された後に群臣たちが集まり次の天皇を決める話し合いが行われました。参加者は蘇我入鹿(そがのいるか)(馬子の嫡男)、蘇我倉麻呂(そがのくらまろ)(馬子の子)境部摩理勢(さかいべのまりせ)(馬子の異母弟)、阿倍内麻呂(あべのうちまろ)中臣御食子(なかとみのみけこ)大伴鯨(おおとものくじら)などです。



田村(たむら)「蘇我氏多いな」



――大友鯨は推古天皇の遺言は田村皇子を後継者に望んでいると解釈して田村皇子を推薦しました。



田村(たむら)「く、くじらぁ~」



――中臣御食子(なかとみのみけこ)はそれに同意して田村皇子を推薦しました。



田村(たむら)「み、みけこ~」



――境部摩理勢(さかいべのまりせ)はそれに反対して山背大兄王を推薦します。



田村(たむら)「だと思った」



――蘇我倉麻呂(そがのくらまろ)阿倍内麻呂(あべのうちまろ)は意見を保留しました。



田村(たむら)「中立的な蘇我氏もいたのか。意外だな」



――蘇我蝦夷(そがのえみし)は田村皇子を推薦しました。



田村(たむら)「えっ?」



――境部摩理勢は山背大兄王を幼い頃から貢献していましたし、蘇我馬子の弟で朝廷内で強い権力を維持していました。このまま山背大兄王が即位すると蘇我氏の嫡流は蝦夷ではなく、境部摩理勢に奪われかねないと思ったのでしょう。境部摩理勢と蘇我蝦夷は激しく議論を交わしました。



田村(たむら)「どうしよう、どうしよう。オロオロ」



――騒ぎを聞きつけた山背大兄王は群臣が割れるのを危惧して、天皇家の嫡流である田村皇子が天皇に即位するのが相応しいと辞退しました。



田村(たむら)「や、やましろのおおえー」



――納得のいかない境部摩理勢は自宅に引きこもり蝦夷に反旗を翻したので、蘇我入鹿に謀反の罪で討たれました。






 〇 舒明(じょめい)天皇即位と宝女王(たからのひめみこ)立后


 舒明天皇は即位すると宝女王を皇后にしました。

 舒明天皇には既に后がいましたが、天皇となりましたので皇族出身の宝女王を皇后に迎えたのです。

 舒明天皇には蘇我馬子の娘との間に皇子が一人生まれています。古人大兄皇子ふるひとのおおえのおうじです。

 新たに皇后となった宝女王との間に皇子が二人、皇女が一人もうけられました。

 次世代の皇位争いが水面下で始まろうとしています。



 □ 舒明元年(629年) 舒明天皇が即位する

 □ 舒明 2年(630年) 宝女王が皇后になる




――舒明天皇が即位しました。



舒明(じょめい)天皇(以下「舒明じょめい」)「ほ、本当に私でいいのかな」



――舒明天皇は宝女王(たからのひめみこ)を皇后に立后しました。では、ゲストとして宝女王をお呼びします。



宝女王(たからのひめみこ)「わらわが宝女王じゃ。旦那様、しっかりして欲しいものじゃの」



――宝女王の家系図です。父の茅渟王(ちぬのおおきみ)は舒明天皇の異母兄ですので叔父姪婚です。


 敏達天皇 ― 押坂彦人 ┬ 茅渟王  ┐

        大兄皇子 └ 舒明天皇 │

                    ├ 宝女王

 欽明天皇 ┬ 桜井皇子 ― 吉備姫王 ┘

      └ 推古天皇



宝女王(たからのひめみこ)「古代では珍しいことでもないのじゃ」



――宝女王は再婚だそうですね。



宝女王(たからのひめみこ)高向王(たかむくのおおきみ)に嫁いでおったのじゃが、先に逝かれてしまったのじゃ。そんなわらわを后にして皇后にまでして下さった旦那様はこう見えて甲斐性があるのじゃ」



舒明(じょめい)「こ、皇后の座が空いてたし」



宝女王(たからのひめみこ)「子宝にも恵まれたのじゃ」



舒明(じょめい)「皇子が二人、皇女が一人だ。だが、私の後継者は古人だ………ぞ」



宝女王(たからのひめみこ)「わらわは旦那様のおっしゃる通りにするだけじゃ」



――失礼ですが、皇子二人は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)大海人皇子(おおあまのみこ)ですよね。史料によっては大海人皇子が年上なので、高向王の子ではないかとの説もありますが?



宝女王(たからのひめみこ)「失礼じゃのぉ。史料の読み方が恣意的じゃ。同一資料を読めば大海人が弟というのは一目瞭然であろう。生年が史料によってバラバラだからと異なる史料が自説に合う部分だけ抜き出すとは何事じゃ。そうであろう、旦那様」



舒明(じょめい)「う、うむ」



――高向王と宝女王の間には漢皇子(あやのみこ)という皇子が生まれていますが、名前しか残されていません。漢皇子が大海人皇子であるという説があるので………。



宝女王(たからのひめみこ)「しつこいのぉ、旦那様からも何か言っておくれ」



舒明(じょめい)「不遜であるぞ! 大海人は我が子である!」






 〇 遣唐使の派遣



 舒明天皇は遣唐使を派遣した。



 □ 舒明 2年(630年) 第一回遣唐使

 □ 舒明 4年(632年) 犬上御田鍬が帰国する



――隋が滅んで唐が建国されてから初めての遣唐使を派遣することになりました。



舒明(じょめい)「蝦夷がそうした方が良いと行ったのでな」



――犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が任命されます。どのような意図があったのでしょう?



舒明(じょめい)「蝦夷に聞け………そうだな。『Interview with 遣唐使』の第一回遣唐使の章を参考にせよ」



――作者の別作品を勧めるというメタ。



舒明(じょめい)「犬上御田鍬は二年後に難波に帰って来たから大伴長徳(おおとものながとこ)を迎えに送っておいたぞ。なぜか新羅の使者もいっしょに来ていたが」



――大伴長徳は継体天皇の時代に活躍した大伴金村(おおとものかねむら)の子孫ですね。大伴金村の失脚と共に大伴氏は衰退したと思われますが、朝廷では重用されていました。


 大伴金村 ┬ 大伴狭手彦

      │

      └ 大伴阿被比古 ― 大伴咋 ― 大伴長徳


舒明(じょめい)大伴咋おおとものくいは丁未の乱で物部守屋軍と戦ったり、征新羅大将軍に任命されたり軍事的に活躍した人物だ。推古朝では高句麗へ派遣されたり遣隋使の使者を迎えたりと外交でも活躍していたな」



――大伴氏は軍事・外交を担当する氏族というわけですね。ですから唐や新羅の使者を出迎えに難波へと行ったのは当然の話です。この時に遣隋使で唐へ留学した僧|旻が帰国しています。



舒明(じょめい)「詳しくは『Interview with 遣唐使』のプロローグ遣隋使を参考にせよ」



――宣伝をありがとうございます。旻は唐での知識を披露して朝廷に仕えました。易経……占いの学問、陰陽五行説みたいなものでしょう。陰陽道の基礎の知識とも言えますが、この頃に役小角(えんのおづぬ)が生まれて修験道を発展させて、その一族が賀茂氏として陰陽師となったともされてます。



宝女王(たからのひめみこ)「知っておるぞ、ZENKIを使役しておった術者じゃな」



――役小角は前鬼と後鬼の二匹の鬼を弟子にしたといわれています。


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