後編
僕の世界は、暖かかった。
優しい両親。優しい周りの人々。
勉強は、苦も無く覚えられたし、運動は少し苦手だったけれど、及第点はもらえた。
楽しい世界、楽しい毎日。
このまま僕は、日々を過ごしていくんだと、思っていた。
僕が知らない世界に触れたのは、物語の本がきっかけだった。
友人から借りた本。友人の妹や姉から、教えてもらった本。
どれもこれも、新鮮な刺激がいっぱいだった。
僕は運動が苦手だったから、冒険譚には、なかなか入り込めなかったけれど。
令嬢たちが夢中になる恋愛物語には、見事に入り込んでしまった。
だから、初めての恋に浮かれた。
この恋を、大切にしようと思った。
だから。
「イフナース様が、もし……もしも『生きたい』と思っていないのであれば」
僕のことを真っ直ぐに見ていたオステルフィール嬢の目が、揺れる。
「それは、この結婚のせいなのでは、ないかと……。そんなにも、絶望させてしまったのでは、ないかと」
「それは違う!」
オステルフィール嬢の目から、雫がこぼれる前に、僕は声をあげた。
「この結婚は、僕の力不足で起きたことだ!ただの障害のひとつでしかない!」
憧れの物語の世界の中のように、キミを愛することはない、などと言って。
物語では、その後、愛の力で、次々起こる困難な出来事を乗り越えていったのだ。
オステルフィール嬢にだって、きっと素敵な結末が用意されている。
オステルフィール嬢の、震える声が聞こえる。
「どうか……教えてください」
いつもあんなにも、はっきりと力強い声だったのに。
「イフナース様……。あなたは……『生きたい』と思っていますか……?」
僕は。
自分の口を、開こうとする。
そうして、閉じて。
また開く。
「僕は、エンリーアに恋をしたんだ」
苦しい。
気持ちを言葉にすることは、こんなにも苦しいことだったのだろうか。
「初めての恋なんだ。大切にしたいんだ。だから……初めての恋で、最後の恋にしたいんだ」
「…………ええと、つまり、どういうことですか?」
遠慮がちに、オステルフィール嬢に聞かれる。
「恋をしたのだから、その恋が叶わないのならば、死ぬものだろう?」
また僕は、当然のことを言った。
当然のことを言ったのに、オステルフィール嬢は、ゆっくりと天井を見上げて、目を閉じた。
叶わない恋をしてしまった僕のことを、憐れんでいるのだろうか。
「……イフナース様」
「なんだい?」
たっぷり時間を置いてから、オステルフィール嬢は言った。
「人は、失恋をするものです」
うん。
それも物語で見た。
「いや、知っている。知っているけれど、僕はこの恋を大切にしたいのであって」
「そのために、生を手放したいと?」
「うーーん。でもほら、僕の話、素敵だろう?平民と将来有望な貴族との恋」
今までになく、大きなため息が、オステルフィール嬢から発生した。
「……そのために、あなたを心配する他の人たちを、切り捨てるのですか?」
「いや、それは……ええと……うーーん」
少し前までなら、エンリーアとの恋のためなら、そのとおりだと言えた。
エンリーアが僕を見てくれないのなら。
今、僕が意識不明の重体だというのなら。
このまま、死んでしまっても、良いのではないか。
恋に殉じるバカな男で、良いのではないか、と。
でも、みんなが泣いてくれている。
こんな、どうしようもない僕のことを想って、泣いてくれている。
とっくに見限られたと、思っていたのに。
「私、昨日まで、思っていましたよ、イフナース様が、天へ還ればいいのにって。
離縁するより、不仲の夫婦でいるより、未亡人の方が、世間だって同情してくれそうだって、思って」
なんだか顔を上げられなくて、床を見ている僕の前で、声がする。
震えたままの、オステルフィール嬢の声だ。
「なんでこの人、みんなに慕われているんだろうって。不思議だなって、思って、ました。
ただのバカなのに。話し合いにもこないし。他に好きな人がいるって、ずっと言って。
王家の命令なのに、他の人の話も聞かない、ただのバカなのに。って。すごく失礼な、人なのにって」
返す言葉もない。
僕は、エンリーアのことだけを想って、動いていたから。
他の人の迷惑なんて、考えずに。
自分の手を強く握る僕の前で、声は続く。
「でも、私、知ってしまった」
顔を上げる勇気が、出ない。
「イフナース様が、ちゃんと、目をみて話してくれること。話を遮らないこと。失礼な人なのに、謝ってくれること。
バカなのに。バカだから、まっすぐで、濁っていないこと」
ぱたり、ぱたりと音がして、反射的に顔を上げた。
目の前のオステルフィール嬢は、泣いていた。
「生きていて。死なないで。恋のためになんて、死なないで。
もっと、あなたのことを知りたいんです。イフナース様」
オステルフィール嬢の目から零れる雫が眩しくて、ハンカチを渡したくなった。
どうして、今、僕に体がないのだろう。
彼女は、だって。僕のために、泣いてくれているのに。
目を開けると、知らない天井と、両親の顔が見えた。
「なんてことが、ありましたねぇ」
「あったっけ。覚えていないなぁ」
「ふふ、お顔が真っ赤ですよ」
僕の隣で笑っているのは、アルメリー。
今でも、あの日のことを話されると、恥ずかしくなってしまう。
僕の大切な想い出の、エンリーア。
あの日、僕が目を覚ましてから数日後に、すごく心配したと言いにきてくれた。
その頃には、僕は体を動かせるようになっていたから、上体を起こして、エンリーアに別れを告げた。
エンリーアは、少し固まった後、今にも泣きそうな笑顔で、素敵な思い出をありがとうと、言ってくれた。
こんな男もいるんだっていうことに、勇気づけられたと、言ってくれた。
『幸せにならないと、許さない』
その言葉は、今も大切に、僕の心の中に灯っている。
エンリーアにとっては、恋じゃなかったんだろうけど。
二人の間にはきっと、愛があったのだ。
そう、思いたい。
「イフナースってば、また思考の中で語っていますね?」
「はっ、すまない」
気付けば僕の姿勢はまた、舞台役者のように、胸に手をあて声をあげる形になっていた。
「ところで、イフナース。また仕事の途中で抜けてきたのでしょう」
「何故わかったんだ!」
「幽体になっているのだから、わかります」
そう。
あれ以来僕の魂は、ちょくちょく体から抜け出るようになってしまっていた。
強く何かを思うと、体を置いて、魂が先に駆け出してしまうのだ。
アルメリーのご両親からは、これはもう体質といえる。とまで言われてしまった。
まあ、この体質のおかげで、王都の幽霊騒動を、アルメリーと二人三脚で解決したり出来たのだが。
さらに、この頃は辺境の地でも、幽霊騒動で駆け回っていた。
だからこそ。
「身重のキミが心配で、気付けば霊体になってしまっているんだよなぁ」
「何回目ですか、もう!」
周りの使用人たちも、慣れてしまったのか、僕の声が聞こえなくとも、会話を察して笑っている。
もうすぐ出会える、僕たちの子。
僕が霊体の状態で、アルメリーのおなかに顔を突っ込めば、
僕は先に子どもと顔を合わせることが出来るのでは?と思ったけれど、
絶対にやめてほしいとアルメリーに言われたので、顔合わせはまだ先だ。
「ちゃんと、生きて帰ってきてください。戻る気になるまで、あの時の話をしちゃいますよ」
「そ、それは恥ずかしいから、困る」
「……一応、私も恥ずかしいんですからね、バカ」
拗ねたように顔を赤らめたアルメリーが可愛くて、気付けば僕は体に戻っていた。
すぐに抱きしめに行きたくて、気持ちが先走りそうになる。
落ち着け、落ち着け。
霊体で帰っても、抱きしめられないんだぞ。
深呼吸する間に、いろんなことを思い出す。
次は、どんな物語の登場人物になろうか。
出来れば、誰の事も悲しませない物語が良いな。
とりあえず、子どもを溺愛する父親、にはなるだろうな、と思って。
僕は、ふふ、と笑った。