中編
朝日が昇っても消えなかった僕は、屋敷の修繕箇所をオステルフィール嬢に伝えた後、外へと出た。
ものすごく面倒そうな、冷たい目で見られ、凍えた心を、愛しのエンリーアに会って温めたい。
外へ出るときも思ったけれど、扉をすり抜けるのは不思議な気分だ。
周りの景色も、普段のように、はっきりとは見えない。
ぼんやりとしていて、まるでここが夢の中の世界のように感じる。
案外、本当に自分の見ている夢だったりして。
なんて思うけど、夢ならもっと、都合の良いことが起こってほしい。
例えば、エンリーアが、僕のことを見てくれる、だとか。
僕の目の前にいるエンリーアは、普段と変わらず、他の男と腕を組んでいる。
外だというのに、ぴたりと、体を寄せて。
何かを共に話していたのか、離れていても、笑い声が聞こえてくる。
前を歩いている二人に近づくと、男の方の声が届いた。
「で?狙ってた伯爵家の坊ちゃんが結婚したのに、なんでまだ繋がりを断たないんだ?」
言われたエンリーアは、少し困ったように笑う。
「まだまだあの坊ちゃんは私に惚れてるからさぁ、もしかしたら、離縁とかするかな~って」
「はぁ~?それまで待つつもりかよ。ろくに貴金属も貢いでくれない奴なんだろ?」
「……そうなのよねぇ。あ、でもさぁ、私が伯爵家の夫人?になったら、好きにお金使えるでしょ」
「そりゃまた、気の長い計画だなあ」
エンリーアといる隣の男は見たことがある。
男爵家の三男だっただろうか。
彼なら、平民であるエンリーアと添い遂げることも可能なのだろう。
なんて、ずるい。
「そのためにも、病院に行かないとね~。……もう目が覚めてるといーんだけど」
「入院してるんだっけか?」
「そうそう。階段から落ちたとかでさ。すごく心配したのよ~って……言ってあげないと」
「ずっと看病してましたぁ。ってのも言うと良いと思うぜ」
なるほど。貴族しか入れない病院のはずだから、コイツといるのか。
エンリーアは本当に、たくましい。強かだ。
もしかしたら、エンリーアは眠れぬ夜を過ごしているかも、なんて、とんだ勘違いだった。
男とは反対側の、エンリーアの隣に並んだ僕は、エンリーアに声をかける。
「エンリーア!」
しかし、エンリーアはまるで聞こえていないようだ。少しも動きに変化がない。
「それにしても、眠たいわぁ。休みの日くらい、昼まで寝てたかったぁ」
「それな~」
「エンリーア!!」
どんなに声をかけても、届かない。
それがまるで、僕とエンリーアの心の距離のようで、悲しくなる。
あの時。
街を探索しているときに、エンリーアとは出逢った。
笑顔で対応してくれて、使用人へのお土産を包んでくれた。
僕が伯爵家の者だというだけで、すごいと褒めてくれた。
勉強がうまくいかなくて落ち込んだ時に、励ましてくれた。
宝石やアクセサリを、何度もねだられた。
そのたびに、そんなにお金を使うわけにはいかないんだと、花を贈った。
そのたびに、嫌いになっちゃうと、泣かれた。
それでも、ごめんなさいと、謝ってくれた。
どんな花より眩しい笑顔を、見せてくれた。
僕の爵位と、お金目当てなことは、わかっていた。
それ以上に、僕のことを好きになってもらいたかった。
エンリーアには、たくさんの男友達がいることも、わかっていた。
僕が言われた大切な言葉も、他の人にたくさん言っていることも、知っていた。
それでも、好きになった人なんだ。
初恋、だったんだ。
「はぁ、そうですか」
気が付けば僕は自分の屋敷にいて、オステルフィール嬢に語っていた。
オステルフィール嬢は、夜に見たのとはまた違った清楚な佇まいで、紅茶を飲んでいる。
「愛の力で、エンリーアにこの声が届くかと思ったけれど、無理だった。
それはそうだよね。幽霊の声を届ける、その為に、オステルフィール伯爵家があるんだ……はは……」
「まあ、私の家のことを理解されていることは、嬉しく思いますけれど」
ああ、体がないのに涙が浮かぶ。
何もかもが上手くいかない。
「あの。目の前で落ち込まれると、せっかくの王都の紅茶が美味しくなくなるので、せめて床に座ってください」
「あ、うん、ごめんね……」
よろよろと、その辺の床に座り込む。
絨毯の手触りはきっと良いものだろうに、今の僕には、それすらもわからないんだ。
「ええと……ひとつ、お聞きしたいのですけれど」
少しの間が空いてから、オステルフィール嬢から声がかかる。
「イフナース様は、そんなにもエンリーア様のことを想っていらっしゃるのに、どうして私と結婚したのですか?」
「僕は結婚なんて認めていない!」
「はぁ、それは知っていますけれど」
エンリーアに告白をして、僕たちは恋人になった。
もちろん、恋人になったからといって、婚約者でもないのに手を繋いだりだなんて、出来るわけもない。
僕の密かな夢でもある、恋人との手を繋いでのデートをするために、僕はエンリーアを両親に紹介することにした。
まずは、会わせたい人がいる、ということを伝えたのだが。
「何故か、僕の外での行動は見張られていて、両親は既にエンリーアのことを知っていたんだ」
「見張られてっていうか、普通に護衛が報告していたのでしょうね」
「エンリーアは他にも恋人がいる、とか、僕の爵位や金目当てだ、なんてことを両親に言われたけれど、
僕はそんなことはとっくに知っていたんだ。それでもエンリーアと一緒になりたかった」
「ご両親の絶望が浮かびますね」
いっそ廃嫡してくれとも思ったが、そうすれば間違いなく僕はエンリーアに捨てられる。
そもそも、僕が将来有望すぎて、両親は僕が家を飛び出すことすら許してくれない。
「それから、オステルフィール嬢との結婚が勝手に決まってしまった。僕は何度も両親と話し合った」
「王家からの命令ですから、難しいですよねぇ」
「王様にだって、何度もかけあったさ」
「え」
何通も何通も、謁見許可を得るために手紙を書いた。
兵士が何度交代しても、城の前から動かなかった。
そのうち両親がやってきて、僕のことを殴りだす頃に、なんか悪いから、と言ってくれた王様と話す機会が出来た。
「王様に、エンリーアとの愛だって語った。だけどいつだって、答えは変わらなかった」
「本当にすごく、頑張っていたのですね……」
オステルフィール嬢や、ご両親との話し合いの時も、出発前に何度となく自分の両親と話し合った。
もうその頃には、言葉より手が飛んできて、僕の顔はボコボコになり、話し合いには毎回参加出来なかった。
「殴られる痛みすら両親の愛だと思っていたけれど、もう僕は、両親の愛を疑っているよ……」
「話し合いには毎回欠席するなぁって思っていたのですけれど、そういう理由だったのですね」
「ご令嬢に、痛々しいものを見せるわけには、いかないからね」
オステルフィール嬢が紅茶を飲み終わると、どこからともなく現れた使用人が、カップを片付けた。
他の人に僕は見えていないだろうに、動じないところを見ると、
オステルフィールの使用人たちは、こういうことに慣れているのだろうか。
「イフナース様は、意外と、私が思っていたようなお人では、なかったようです」
「いったい何を思われていたんだ……」
オステルフィール嬢を見ると、少し困ったような笑みを浮かべていた。
外から差し込む光がまぶしくて、なんだか輝いて見える。
「バカだバカだとは聞いていたんですけれど、本物の馬鹿ではなく、本物のおバカだなぁと」
「あっ、また心に傷が」
友人や両親からはよく聞く台詞だけど、ご令嬢に言われると、また傷つくなぁ。
「……私、こんな性格だから、婚約者もいなくて。なんなら、嫌われることも多かったのです」
呟かれた声は、独り言のようにも聞こえた。
だから僕は、よく聞くために立ち上がった。
「こんな性格?」
「ほら、思ったことをすぐ言ってしまうので、人を傷つけてしまったり」
「それはとても理解出来る」
僕が、うんうんと頷くと、オステルフィール嬢は遠くを見た。
「いつだって、他の人には見えないものが見えてしまうから、自分本位でしか動けないのです。
例えば、危ない目にあっている人が目の前にいたとしても、
それが生きている人なのか、死んでいる人なのかわからないから、咄嗟に動けない」
「ふむ」
「一緒に何かをしよう、と誘われても、それがどちらの誘いなのかわからないから、無視するように動いてしまう」
オステルフィール嬢は、幽霊が見えるということを、隠していたのだろうか。
それとも、見えることで、何か意地の悪いことを言われたり、したのだろうか。
「こんな冷たい娘、とても嫁の貰い手がなくて……王家の命令になってしまったのは、私の責任でもあるのです」
「いや、そんなことはないだろう」
「え?」
オステルフィール嬢の話が終わったようなので、遠慮なく、僕も話させてもらう。
「王家の命令になったのは、王都に幽霊の目撃証言が急増しているからだ」
「それは、そうなのですけれど」
「それに、オステルフィール嬢が咄嗟に動けないのならば、僕が動けば良いだけだ」
よくわからなかったようで、オステルフィール嬢が瞬きを繰り返す。
こんなに、とても簡単なことなのに。
「相手が、生きているか死んでいるかわからないから、動けないのだろう?
僕には、幽霊が見えない。だから、もし目の前で危ないことがあれば、僕が助けるし、
どちらの誘いなのかも、僕が教えられる」
そもそも、目の前で危ない目にあっている人がいるのなら、ご令嬢ではなく、僕が動くべきだろう。
僕は運動神経が良くないが、護身術くらいなら身についている。
「それに何より、オステルフィール嬢は可憐だ。所作も美しく、光を背負っている姿は女神のようだ。
性格なんて相性の問題だし、嫁の貰い手がないだなんて、そんなことあるはずがないだろう」
「………………あの、イフナース様」
「うん?」
僕は当然のことを言っただけだが、何故かオステルフィール嬢の頬は少し赤らんでいる。
「もしかして、私を口説かれています?」
「なんでそうなる??」
僕には、愛するエンリーアがいるのに!!
今のどこが、口説くことになるというのだろう。
愛しているも好きだとも言っていないのに!
僕が混乱しているうちに、オステルフィール嬢は軽い深呼吸を繰り返していた。
「ごめんなさい、少し……取り乱しました」
「いや、こちらこそ。何か誤解をさせてしまったのなら、すまない」
そういえば、以前にも何回か似たことがあった気がする。
その時は、僕の友人が助け船を出してくれたのだが。
「ええとですね、結婚のことについて話をしたのには、理由がありまして」
「僕は認めていないぞ」
「それは知っています」
大事なところだから何回も言わないとな。
オステルフィール嬢は、軽く目を瞑ったあと、僕を見て、話を続けた。
「今朝、私の両親に、生霊が成したいことを成したのに、体に戻れない。という現象について聞いてみました」
そういえば、そうだった。
エンリーアに謝りたい気持ちと、エンリーアが僕の方を向いてくれない寂しさ。
あと、屋敷の修繕箇所を必死で覚えようとしたせいで、色々と記憶が抜けていた。
オステルフィール嬢は続ける。
「霊となった人物の『生きたい』という気持ちと、その人のことを想う人が『戻ってきてほしい』と願う気持ち。
その二つの気持ちが重なったときに、生霊は元の体に戻ることが出来るそうです」
自分の手を見る。
僕の手は、まだ透けている。
「だいたいの人は、その気持ちが普段から繋がっているので、成したいことを成せばすぐ、戻れるのだそうなのですが」
「つまり、僕は……」
「はい」
わかっていた。
わかっていたことだけれど。
僕は
「誰にも、戻ってきてほしい、なんて。思ってもらえていないんだな……」
目を閉じる。
浮かぶのは、後ろ姿のエンリーア。
泣きながら怒っている両親。
何か言いたげな使用人。
軽口の中にも、心配する気持ちが滲んでいた友人たち。
ああ、僕は……。
「いえ、違います」
「ん?」
せっかく浸っていたのに。
僕は目を開けて、オステルフィール嬢を見た。
「イフナース様のご両親も、使用人の方々も、お友だちの方々も、みんな今も病院で泣いています。
そもそも、ヴェイナンディア家の使用人の方々が病院に詰め掛けているので、
ここには今、オステルフィールの使用人しかいないのですから」
え。
「目を覚ましてと。皆さま、あまりに耳に残る悲しい声で叫ぶから、私は夜にお酒を飲んで気を紛らわせていました」
後半はきっと嘘だろう。
ちょっとオステルフィール嬢の目も泳いだぞ。
夜に見たときは、好きなだけ飲めるのが嬉しそうだったぞ。
「イフナース様。あなたは、『生きたい』と思っていますか?」
オステルフィール嬢の目は、まっすぐに、僕を見ていた。