3
*
どんっと踊り場に投げ出されたのに気づいたのは、自分の眼鏡が落ちた音でだった。
「っ!?な、なに!?」
俺は廊下を歩いて普通に下校しようとしていただけだ。なのに、いきなり引っ張られ……その相手に驚いた。
……全然知らない。誰だこいつ?クラスも違う、けどスポーツ推薦組の……
(陸上部の……赤井、だっけ?)
なんとか名前を思い出した。多分あっていると思う。けれど、そんな程度の関係の赤井になぜこんなことをされているのか、俺には訳がわからなかった。
覆いかぶさってくるその体躯は俺よりも二回りほどでかい。その身体的特徴で、俺は、まさか……と気づいた。俺の首元に鼻をくっつけてくるその行為に、ぞわりと寒気立つ。
「!?」
「っ……お前、なんだ、これ、すげえ、匂い……っ!」
「!」
……αだ。
赤井はスポーツ推薦枠の特待生。この学校にいるαなのかと気づいた時にはもう遅い。俺の体はその腕に組み敷かれ、太い腕はどうしても動きそうにない。
(ヒート前の薬が足りなかった!?こいつ、αか……!力が入らない!)
(っ、くっそ、こいつ、αのくせにΩフェロモン回避薬飲んでないのか!?)
番を持たないαはΩのフェロモン回避薬が義務付けられている。だから、痴漢なんかをしてくるのはΩフェロモンに弱いβが多い。日本国内の薬の認可が遅いとはいえ、そういう制度と監視のもとに生きているのがαとΩなのだが……どうしてもα側は優位に立つことが多いので、それを守らない奴もいる。この半年、学校内でこんな目に遭ったことがなかったから、完全に油断をしていた。
力が強い。
これがαの力だと思い知らすような力。
Ωはヒート前後は力がどんどん弱くなる。うまく力も入らなくなる。だから、痴漢や黒沢さんにだってうまく抵抗できない。本当ははねつけて詰ってやりたい気持ちもあるのに、俺の性がそうさせてくれない。だから、「Ωが悪い」なんて言われるのだ。
(なんで……なんで俺はΩなんだ……!)
赤井の力はとても抵抗できるものではなく、けれど、俺は必死で抵抗を続けた。
赤井の口が伊崎のうなじに迫ってくる。嘘だ。鍵はついている。けれど、それを歯でずらしてくるような感覚。
(噛まれる……!?)
興奮したαに噛まれるだけでは番にはならない。性行為を伴わなければ成立しないと言われてはいる。
しかし、実際は噛まれただけでフェロモンに変化があり、その後、Ωは障害を持つこともありうるのだ。
だから、この鍵付きのチョーカーはパートナーができるまでは絶対に外せないのだけれど……。
そんな絶望に入り混じり、俺は諦めにも似た気持ちで力の限界を感じていた。
(いや、「本当の気持ち」が叶わないなら、もう誰でも……)
そんな諦めが頭をよぎった瞬間、赤井の体がすっ飛んでいった。俺は一気になくなった重みに驚き、体を起こす。
ぼやけた視界の中、眼鏡を手繰り寄せ、それで様子を見ると……それは安達さんだった。
安達さんが赤井を引きはがし、その体を壁にがんっと押し付けていたのだ。
「何やってんの!?自分が何してるのか分かってんの、赤井!!」
「っ!」
はっとした赤井は一瞬意識を取り戻し、自分がしていたことを認識したようだ。
安達さんは壁に赤井を押し付け、首をしめあげていた。俺はハッとして慌てて立ち上がり、安達さんを止めに入りたかった。けれど、足がいうことを聞かない。
「あ、安達さん!?」
「っ、ぐ、ぁっ!てめ、安達さん、お前、推薦……っ」
「推薦枠はアンタも一緒でしょ!?こんなこと伊崎君にしといて……!!」
「Ωのこいつが悪いんだろうが!」
赤井の言葉に呆然としつつ、乱れた衣服を直すこともできない俺はその場に座り込むことしかできない。
しかし、安達さんがかっとなって赤井を殴ろうとするのを、俺はすがるようにその足にしがみつき、それを止める。
「伊崎君!」
「安達さん、暴力はダメだ!本当に……その、君の推薦に影響でちゃうから!!」
その言葉に、安達さんはハッとして赤井の手を離してくれた。赤井はその場から慌てて逃げていく。もうその背中を追う気力なんてない。
けれど、俺の無気力さに反比例して、安達さんの怒りは沸点に達していたようだ。その背中を睨みながら、怒りを吐き捨てる。
「あいつ、絶対αの薬も飲んでないし!伊崎君のせいにするようなこと……!信じられない!」
俺は……ホッとしたような、もうどうでもいいような……そんな複雑な心境だった。
自分が油断していたことが情けなく、学生生活にボケていたんだと自己嫌悪にも陥りそうだった。
気になっている女の子にまた助けられて、それがどうしようもなく惨めだった。ありがたかったし、助かったとも思った。
けれど、恥ずかしさよりも惨めさで彼女の顔が見れない。
もう……自分の心を押し殺すことしかできなかった。
「いいんだ。……慣れてるから」
膝をぱっぱと払って汚れを落とす。俺の言葉に、安達さんははっとして俯き、ショックそうな表情を浮かべて拳を握っていた。
「……慣れてるって……!」
「ごめん、俺、ちょっと先生のところ寄ってくるから」
「あっ、わ、私、証言するよ!」
「……そういう話じゃないから大丈夫だよ。先に帰ってて」
乱れた夏服のボタンを震える手でとめ、ふらふらと階段をくだりていく。
踊り場には安達さんが買ってきたアイスが二つ転がっていた。安達さんは何も言わずに僕を放っておいてくれた。
……つくづく、優しい人だと思った。
「ありがとうございました」
職員室のドアを閉めて廊下に出た時、もう夕日が沈みそうな時間になっていた。
(秋田先生を困らせちゃったな)
職員室で、生活指導の秋田先生と話をした。彼は少し困った顔をしながらも、パソコンからリストを打ち出してくれた。
……生徒のバース性一覧だ。
「本来なら個人情報なんだが……確かに推薦時期だしな。αへの影響もあるだろう。確かにお前には把握しといてもらうべきだったな。すまない。これが在校しているαのリストだ。今覚えられるか?」
渡すことはできないからな……と言いにくそうな彼に、すみません、と頭を下げる。
「ありがとうございます」
俺はリストを受け取り、それを眺めていた。
リストには「在校生バース性リスト:抽出条件「α、Ω」」と書いてある。
(……Ωは人口の1%。そのほとんどがΩ専門学校にいる)
(この学校に編入しているΩは、今は俺一人だ)
リストには「伊崎薫:Ω・男」と書かれており、その隣には俺の証明写真がある。編入の時に提出したもので、生徒手帳と同じそっけない写真だ。
(同じく、αも人口の1%。しかし、αは一般校に通っている。つまり、この学校で言えば、三学年全体で五、六人はいる計算になる)
俺はじっとリストを見て目を細める。
三年生のリストには「赤井ひろむ:α・男」の下に「安達さん安達さん:α・女」と書いてあり、二人の写真が並んでいた。
俺は……やっぱり、と思っていた。
秋田先生は、ばつが悪そうに頭をかき、俺に真実をつげる。
「安達のバース性なんだが、お前の編入時に赤井とどっちのαの値が低いかを測ってな。安達の方がましだったんだ。本人にも相談したら、薬のコントロールが効きやすいから平気だって色々配慮してくれた。けど、出席番号や座席にも、俺がもっと配慮すべきだったな……」
俺は……安達さんのことを本当に尊敬した。
そして、一方で自分のことを恥ずかしくも思ったし、なんだか合わせる顔がないような気分になった。
俺はそのリストだけを確認すると職員室を出て、廊下をとぼとぼと歩き、遅くなった帰路につくことにした。
俺が廊下を抜けると、下駄箱のところで安達さんが待っていて驚いた。
「ごめん。結局待っちゃった」
「あ……うん」
しんっと二人の間に気まずい沈黙が流れる。
時計は六時を回っており、校内の人は少ない。
安達さんがうんっと伸びをする。くるっと俺の方を向いた彼女は、さっきまでの事件などなかったかのように……ニカっと歯を見せて笑った。
「ねえ、伊崎君」
「ん?」
「海!いこっか!!」
「ん???」
俺たちが海についた頃には、もうとっくに日も沈み、夜になっていた。
比較的街から近い海。砂浜。平日の夜だ。あまりに誰もいないので、安達さんが一人ではしゃいでいるのが、なんだかちょっと滑稽だった。
「海だ!」
「……海だね」
どうしてここにいるんだろう、と自分でも思うのだが……彼女に言われてなぜかついてきてしまった。こんなこと、今までしたことがない。
安達さんはよくこういうことをするんだろうか?学校での彼女しか知らないが、交友も派手そうだし、部活仲間で色々出かけたりもするんだろう。何度でも遊びに来てそうなものだな、と自分との違いを思ったりした。
「いや、今年、あんまり海に来てなくてさー!」
「……いや、でも、今?」
(そもそもなんで俺もついてきてんだか)
下駄箱で戸惑っていた俺に、安達さんが「特急乗れば二十分でビュンだよ!」と言って手を引いたことを思い出す。
……確かに、ビュンでついたが。でも、なぜ海。
「ほら!まだギリいける気温だよ!」
靴を脱いで波打ち際に入り、ぶんぶんと手を振っている安達さん。
それに思わず微笑んでしまう。
(まあ、もうどうでもいいか……)
二人で少し波打ち際で遊ぶことにした。早めの月光が海を照らしているのが妙に煌めいて美しい。
さっきまでの暗い気持ちが少しだけ晴れたような気がして、自分は至極単純なのだな、と思ったりもする。
時間を忘れそうになるほど、波を足で遊び、9月らしい気温にブルリと一回震えた。それもなんだかおかしくて、俺たちは無駄に笑い合った。言葉にするとさっきの出来事を、知ってしまった事実を話してしまいそうになるから。
しばらく二人で遊んだ後、砂浜から少し離れた堤防から海を眺めていた。
ぼうっと俺は座って、ただ海を眺めている。本当にいつぶりだろう、海に来るなんて。
俺の家はインドア派だから、こういうところに連れてきてくれたこともほとんどない。そう一瞬家族のことを思い出してスマホを見る。
……母親からの着信が死ぬほど入っているが、そちらは見ないふりをした。
今は、もう、どうでもいい。
数分もすると、コンビニ袋をもった安達さんが俺の隣に走って戻ってきた。束ねた長い髪が跳ねて、なんだかウサギみたいだな、とも思える。
「はい、これ!」
安達さんが見せてくれたアイスに、あ、と俺は思い出した。
さっきの踊り場でのアイスの惨状を。
「えっ、あ、ごめん、さっきもアイス買ってきてくれてたよね……」
「あれ、全部私が食べちゃったから大丈夫だよ!伊崎君待ってる間にお腹空いちゃってさあ!」
安達さんの反応に、つい笑ってしまった。
「で、またアイス?三本も食べたらおなか壊すんじゃない?」
「こんなの一本に入んないっしょ!」
二人で分けるタイプのアイスだ。こんなのも食べるのは久しぶり。ぱきっと割って俺に渡してくる彼女の笑顔が眩しくて……見ていられなかった。
安達さんは俺の隣に座って、ただじっと海を見つめる。静かな時間だ。
綺麗な三日月がそこには浮かんでいて……静かで綺麗な海は、ささやかに煌めく。
「月だねえ」
「ああ、綺麗だね」
色気も何もない会話と沈黙。安達さんが、あのね、と話を切り出した。
「私、さっき弾いてくれてた月の光が好きだな」
「あれってドビュッシーが好きな女性のために作った曲らしいよ」
「まじ?ロマンティックじゃーん!」
そんなアイスを吸いながら、俺はそっと俯いた。
情けなかった。悔しかった。怖かった。けれど、ちゃんとお礼は言いたい。
俺を見ていてくれて、守ってくれようとしてくれてありがとう、と。
けれど、俺の小さなプライドが、彼女にうまく感謝を伝えられなくて喉が震えた。
「さっき……ありがとう。俺、動けなくて」
安達さんはその言葉には反応せずアイスを食べきって、うんっと伸びをした。
「……伊崎君さあ、もう気づいてるよね。私のバース性」
「……」
俺の沈黙に、安達さんは申し訳なさそうにこちらを覗き込んでくる。
「ごめん。最初からちゃんと言って、距離置くべきだったよね」
「そんなふうには思ってないよ」
そう答えたのは本心だ。けれど、彼女は……言いにくそうに、きっとエゴなんだよね、と話を続けた。
「その……前言ったとおりさ、私……もうΩ相手に間違えたくなくて。幼馴染みたいに伊崎君を傷つけたくなかったんだ」
「……うん」
「ちゃんと傍にもいれるぞって気持ちもあったかもしんない。エゴでごめん」
彼女の言葉は常にまっすぐだ。許してほしいとか保身とか、そういうものがなく、ただ自分の考えを通して、自分の考えを顧みて、素直な気持ちと言葉。
それがわかるからこそ、自分と比較して情けなくもなる。けれど……俺はそんな彼女に惹かれていた。確実に。
「いや、多分……いろいろ薬も飲んで、俺とフラットに接してくれてたんだよね」
俺が色々と選んだ言葉に、安達さんは少し恥ずかしそうに唇を尖らせた。
「べ、別に薬飲むのは伊崎君のためだけじゃないよ。ちゃんと自分でこの性をコントロールしたいから」
「えらいな。強いね」
いや、強くなんかないよーと言いつつ、立ち上がる彼女を見つめる。彼女はまっすぐに海を見据えたまま話し始めた。それは……俺が予想もしていない話だった。
「……うちさあ、両親が女α・男Ωの夫婦なの」
「え?」
(それって……!)
そう、俺はすぐに一つの結論に思い当たった。
それの答え合わせのように安達さんが苦く笑う。
「駆け落ちだってさ。籍も入れられない。意味分かるよね。女αと男Ωは禁断の組み合わせだって」
「……あの……」
俺はその真実をうまく告げられなかった。安達さんが、その代わりのように淡々と自分の過去を告げる。
「私を産んだ父さん、粘ったんだけどねー。やっぱりだめだった。私が五歳になる前には死んじゃった」
αとΩ、なぜ男Ωの相手は男αで「なければいけない」のか。なぜ俺の母が俺の相手に男αにこだわり……そして、安達さんはαなんじゃないかと思っていた俺が、彼女への気持ちに踏み切れなかった理由。
それは……女αと男Ω夫婦の出産は、なぜか死産の確率が高いからだ。
なんとか低確率の出産を経たところで、男Ωは産後数年以内に死んでしまう。
いまだにその謎は解明されていないが、ごく少数のα・Ω、そしてそのカップル……その中でも女α・男Ωのカップルは「非生産的」と世間からは批難され、社会的に認められていない。
そう……社会的に抹殺されているのだ。
安達さんはわざとらしいくらいの力こぶを作り、ニッといつものように笑った。
「私はこの通り、すっごい元気でさぁ。世間の数字知った時は嘘でしょって思ったよ!」
「……」
俺には返す言葉もない。
「でも、父さんや母さんが苦労してたのは、子供ながらも知ってるんだ。……?だから、私はこのαってバース性に頼るだけの生き方はしたくないんだよね」
その言葉で、「優位」に立っているはずのαである安達さんが、どうしてここまでフラットに俺に接するのか、どうして自分のバース性をひけらかさないのかを理解した。
「スポーツでさ、どれだけ自分が努力してても「αだから」って片づけられんのも嫌いだし。いや、特性は分かってんだけど……そんなの表に出すのも嫌じゃん?」
それから、安達さんは俺の編入に関しての話をしてくれた。
俺の編入が決まった二年の秋頃、学校唯一のΩ受け入れに関して生徒には説明があった。それに他の生徒たちは少なからず(と彼女は言っていたが、きっとかなり)動揺していたらしい。
「最初Ωが編入って聞いたとき、なんでそんな危険なことするんだろって思ったけど、何かしら事情があるのかなとも思った」
安達さんと赤井が秋田先生に呼び出され、改めてαとΩの危険性について別途説明を受けた。
どちらかのクラスには入ると思う、お前たちはどう思うかという意見も求められたらしい。
「先生にα数値の件で相談を受けた時も、自分にできることなら協力して居心地よくしようとも思ったんだよね。薬増やすのはちょいきつかったけど、それでも、きっと伊崎君に比べれば全然だしさ」
「伊崎君の環境に憤りを覚えた。けど、幼馴染に言われたあの言葉も心に残ってて」
安達さんは幼馴染に言われた『「αの」ミレイにはΩの気持ちなんてわかんないよ!』の言葉がきつかったらしい。
ずっと「自分じゃΩに何もできないのか」と思い続けていた、と。
安達さんはきゅっと唇を結んで少し黙った。
そして、沈黙の後に、目元を赤くしてこっちを見てきた。俺は……その少し潤んだ瞳にどきりとする。胸の奥が跳ねる。ヒートの時みたいに。でも、それとは少し違う……心地よい痛みと心臓の速さ。
「だから……、だけど……?なんて言っていいか分かんないんだけど」
彼女の耳が赤くなっているのに気づいた。あ、と俺が口を開く前に、安達さんが短く叫んだ。
「私が伊崎君を好きなのは、私がαで伊崎君がΩだからじゃないよっ!!」
彼女の言葉に驚き……つられて……俺は自分の顔が死ぬほど赤くなっているのを自覚する。自覚するけれど、もう冷やすアイスはない。
「あっ、えっ、あ……」
その反応がまずかったのか、彼女もさらに真っ赤になり、ううう、と頭を抱えていた。
いや、頭を抱えたいのはこっちだ。
こんな恥ずかしくて……こんな格好悪いことがあるだろうか。
安達さんにはいつも先を越されてしまう。
「くっそ、はず……!!こんなタイミングで告るつもりじゃなかったのにぃ!!」
「あの……」
俺はもごもごとして、うまく言葉をまとめられない。脳みそがぐちゃぐちゃになってなんの言葉も浮かんでこなかった。
ちゃんと言いたい。言いたいのに喉に何かがつっかえている。
その間に、安達さんは悲しそうに膝に顔をうずめてしまった。今まで聞いたことがないような掠れた声。
「……でも、この関係がダメなのも分かってる」
――女αと男Ωのカップルは「非生産的」で社会に認められていない。
「父さんのことがあるし、うちの母さんだって戸惑うだろうし……きっと社会もしばらくは変わらない」
「そんなこと、分かってるの」
「でも、私の気持ちだけは知っててほしかった」
素直な言葉。まっすぐな言葉。それが俺の胸に突き刺さる。
なんとか答えようとした瞬間、すぐそばでスマホが震えた。やむなくそれをとると相手は母だった。
通話先の向こうでヒステリックな声が聞こえる。
「どこにいるの!?黒沢くんが来てるのよ!?」
ぐっと自分の気持ちをおさえ、俺はそれに反射的に「すぐ……」と答えそうになるが、その言葉をなんとか飲み込んだ。
反抗したい。もうやめてくれと言いたい。
――けれど、思考はまとまらない。
(気持ちは安達さんに向いているのに、きっと、未来のためには俺は……)
(それに、安達さんだって、俺たちの関係がいかに弱いかというのをよく分かっている)
(俺たちの恋愛は誰にも迷惑をかけてないはずなのに)
(女αと男Ωというだけで、どうして!?」
白くなるほど唇を結び、俺は何か言いなさいと喚く母に初めて……初めて抵抗した。
「……戻りません。黒沢さんには帰ってもらってください」
「!?薫!?何言ってるの!!」
「俺は……海外でピアニストになります。日本の音大にはいきません!」
その後の母の返事を待たずに電話を切ってしまう。
もういい。これでいいんだ。
震える足を抑え、立ち上がった。
え、今のって……?と戸惑っている安達さんをまっすぐに見つめる。
「……もし、俺がこのΩというバース性を乗り越えて、ピアニストとして成功したら!」
「?」
「安達さんにまた「月の光」を聞いてほしい!!」
さっき曲の意味は告げた。
そのことに気づいたのか、安達さんは耳から首まで赤くして、口元を震わせていた。
…………死ぬほど、かわいいな。
素直に思えた。
この子のことが好きなんだって。
今まで、恋愛なんてできないと思っていた。
俺の気持ちと体を動かすのは、俺の憎い性とヒートという仕組みだけで、そこに心なんてないと思っていた。
けれど、俺にはまだ何かあったらしい。それに気づかせてくれたのは、他でもない彼女だ。
「……俺、もう行かなくちゃ。親がいろいろ邪魔してくる前に、手配のこととか調べないと」
俺は恥ずかしさもあってその場から駅に向かって駆け出した。
後ろから安達さんの声が聞こえる。
「伊崎君!!あのね、その日が来たら……!」
「君の…… !」
その言葉は俺の背中から胸に突き刺さった。
また先を越されたと思った。
そのぐらいのセリフ、俺が君に月の光を聞かせる時に、こっちから言ってやりたかったよ。