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 学校にも慣れ始めて三ヶ月近く経ったころ、俺は音楽室にいた。この学校のピアノは、指に馴染みがいい。

 部活をしていない俺は、すぐに帰ることができるのだが、少し調子が悪く、通学ラッシュと通勤ラッシュの合間に帰りたくて……。教師に聞いて、空いているピアノを触らせてもらっていたのだ。

 もう何度も弾いた曲は指が勝手に覚えている。ぼうっと考え事をしながらも、運指を確認する。……この時間が心地よい。何曲か弾き終えて、俺は自分の指を見ていた。そして、白い鍵盤をそっと撫でる。

(この学校のピアノ、ちゃんと調律されてるから弾いてて気持ちいい。たまにはこういうのも気分転換にいいな)

 時計を見ると、もう四時半になっていた。つい、夢中になってしまったようだ。

(……そろそろ帰らないと、電車ラッシュになっちゃうな)

 鍵をとって椅子から立ち上がると、ちょっと視界がふらついた。自分の体が熱っぽい感じを受け、ああ、やっぱりと自分の体調を悟ることになる。

(またヒート前か。明後日ぐらいから休みかもな……)

 窓を閉めようと校庭に目をやった。そこで棒高跳びをしている安達さんを見つけた。そういえば、彼女は棒高跳びの代表選手らしい。彼女とは、出席番号が近いので席が近いのだが、この前のくじ引き席替えでも、また近くの席になってしまった。何かと世話を焼いてくれる。……面倒見のいい人だ。

(安達さん、いつも休みの間のノートや連絡をしてくれる)

 安達さんに借りたタブレットや休みの間のメッセージを思い出す。

 彼女は連絡がまめで、この前など「火曜日に出て来れそうなら小テストあるよ!」と教師からの連絡もれのフォローまでしてくれていた。

(俺に偏見もってそうなクラスメイトたちとも、うまく間をとりなしてくれてるし)

 そう、さりげなく優しいのだ。押し付けがましくなく、そっと自分とクラスメイトの間に入ってくれたりする。彼女の周りはいつも賑やかで、友達が多く、華やかだ。彼女自身も見た目も可愛らしく、目が大きくて……表情がわかりやすいからか、裏表がないのがよく分かった。

(……素敵な人だよな。まあ、ちょっと派手で怖いけど)

 どうカテゴライズすればいいか分からないが、俺とは少し違うタイプの人間だ。もちろん性別も違うし、気質なんて全然違う。けれど……

(もう一曲だけ弾いていこうかな)

 音楽室の片付けを終え、もう一度時計を見る。快速電車の時間からいって、もう一曲弾いて出ても十分間に合うだろう。

 俺は再度ピアノの前に座り、そこに譜面を置いた。一度目を閉じると、鍵盤に指を置く。この指先の硬い感触がたまらなく好きだ。

 ……この時間はとても気持ちいい。自分の耳によく響く。音楽室の反響は意外とよくて、放課後、静かな校舎内に音が流れているのが分かった。

 俺はその曲を弾き終わってから、はっと音楽室の外に目をやった。

 すると、そこにジャージ姿の安達さんがいて、こっちを見て唖然としていることに気づく。

 彼女は長い髪をポニーテールに束ね、部活帰りらしくスポーツタオルを首にかけていた。汗ばんだ肌のまま、ぼうっとこっちを見ている。

「あれ、安達さん……?」

 俺がついつぶやくと、安達さんは目を輝かせて、音楽室に入ってきた。

「何、今の!すっご!!」

 安達さんはバタバタっとその場ではねている。その音に、えっ、と驚いてしまった。

「ミレイ、何してんの、先行くよー!」

「先帰っててーっ!」

 安達さんは部活仲間に手を振り、音楽室に入ってきた。え?え?何?と俺が戸惑うのにも構わずこっちに近づいてくる彼女の目は、なぜだかやけに煌めいて見えた。

「あの……?」

「今の何?すっごい曲聞こえるって思ったんだけど!!」

 指をぱたぱた動かしながら興奮している安達さん。

 俺は「すっごい曲」という形容に驚き、いや、としどろもどろに答えるしかない。

「あ……ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ってやつ……」

「らふ……?えーー!わけわかんないけど、すっげー!伊崎君ってピアノ本格的にやる人?」

「あ……」

 別にこの高校では話していなかった。その質問には戸惑いながらも、彼女にならいいかな……と思わず指先で膝を握ってしまう。

「うん。音大受験しようと思ってて……」

「まじ!?すごいじゃん!!やば!!」

 何がすごくて何がやばいのかは俺にはあんまり分からないのだが……彼女のツボにハマったらしい。

 安達さんは俺の手を取ると、へえ!と指先を見つめてきた。そんなに珍しいものだろうか。

「いや、まじ指きれいだね!?指の細さ、やばくない?」

「そうかな。ありがとう」

 俺の手を掴んだ安達さんの手は……棒高跳びの選手らしく、まめも多く、意外とごつごつしていて大きい。

(指も長いし、骨太いよな、この子)

 大きな手は広げやすそうだ。俺もそこそこ手は大きいが、指の細さや節の感じは彼女と全然違う。

「わ。細いけどおっきーんだね!あと、指長い!私もおっきー方なんだけどなあ」

 安達さんが指をあわせてきていたのには驚いた。

 思わず手を引っ込めた俺に、安達さんは、あ、ごめんごめん!と悪びれずに返す。けれど、流石に少し恥ずかしくなったのか、時差で少し顔を赤らめていた。

「私の指、ふっといでしょ。結構棒持つのに大変でさあ。指も太いから恥ずかしい」

「えっ、そんなことないよ」

 どう答えていいのか分からなくて、少し気まずい沈黙が流れた。俺はなんだかその空気がむず痒く思えてしまい、あのさ、と自分の話を始めてしまう。

「……音大はΩ専門学校からじゃ受験受け付けてくれないから、受かるか分かんないけど」

「は!?なんなの、それ!」

「そういうものなんだ。音大って生徒にαが多いからさ。Ω専門学校からは入れないのが通例で」

 そう。それこそ、俺がこの高校に編入してきた理由だ。すぐに察してくれたんだろう。安達さんは、なるほど……と顎を指でむにっとつまんで首を傾げた。

「あー、だから三年から編入って、そういうこと?意味わかんないねー。あ、これ、譜面?うわ、すっごい。見てもいい?」

 どんどん話を進める安達さんに笑ってしまう。俺はどうぞと譜面を渡した。

 クラスメイトの「つか、なんでわざわざ三年から一般に編入なんだよ」という疑問を思い出した。

 普通は変に思うに違いない。

 なぜΩがわざわざ危険を冒してまで普通高校に編入するのかなんて……音楽の道でも目指していなければ、知られないマイナー中のマイナーな理由だ。

「それに、普通学校に一年ちゃんと在籍しないと卒業資格とは認められないんだ」

「えー……本当になんなのそれ……」

 安達さんは腑に落ちないという顔だが、俺はあきらめたように笑う。

「仕方がないんだよ。俺はΩで、しかも男だからさ……」

 自分に言い聞かせるような言葉だった。

 そう話しながら、俺は自分のバース性が発覚した十歳の頃を思い出していた。


 


 その日、俺は何が起こったのかを知らなかった。

 郵便物を確認した両親が深刻な顔をした後、やけに笑顔でいつもより早く寝に行くように促されたことを覚えている。

(どうしたんだろう……?)

 結局、夜中に一度目覚めてしまった。ちょうど日付が変わろうとしているぐらいの時間だっただろうか。一階のリビングで両親が何か揉めているような声が聞こえて、俺はびっくりしたような気がする。なぜだろうか、幼い俺にも「この会話を聞いてはいけない」とわかってしまい……この階段を降りてはいけないような気さえした。

 結局、俺はそっと部屋を抜け出すと、階段の影から、その会話を盗み聞いた。

 耳に届いてきたのは、動揺した父親の声だった。

「薫が男Ωだと……ありえない!!もう一回再検査させるんだ!」

「そんな言い方やめて!あの子自身を受け入れてあげてよ!」

「俺と君がα同士なのに?なぜ……確率的にはほとんどありえないじゃないか」

 私を疑うつもり?そんなこと言ってないだろう!話は全く噛み合わず、けれど、その話題の中心はわかった。自分が数週間前に受けた第二次性徴時のバース性検査。体の変化とともにバース性の特徴が現れ始めるこの時期、国からの検査を受けて申告する義務がある。あの郵便物はその結果だったのだ。

 バース性についての特徴は小学校でも学習済だった。親が二人ともαだった俺は、当然自分のバース性もαだろうと思っていた。俺がΩ……?そんなバカなことがあるか、という気持ち。これは自分が眠って見ている悪い夢なのではないかという疑い。けれど、父親と母親はいつもとは違い声を荒げ、俺の性別についてずっと議論している。しかし、その内容は入ってこない。……次にハッと気づいたのは、父親が告げた残酷な事実だった。

「あれだけピアノの才能があるのに……男Ωだと音大は無理だ!!」

「そんなの、今の制度なだけで……変わるかもしれないじゃない!薫はあの年でいくつコンクールで優勝してると思ってるの!?」

「大人数と関わるような場所に男Ωなんて入れないに決まっているだろう!!まして、音大なんて番のいない若いαの巣窟なんだぞ!?」

 そう、自分はαで音楽家の系統。幼い頃から徹底的にピアノを教えられ、そして、俺もそれを愛していた。

 コンクールに出られる年齢になってからは、どの部門でも賞をとり、学年を飛ばしてでも出てみないかと言われていた。自分に才能があると驕ったことはない。俺は、人前でピアノを弾くことが楽しく、それを褒められることで成長してきたのだ。

 けれど……どこかで自分はピアニストになるのだ、と思っていた。親と同じ道を辿って、プロとしてやっていくと……。

 次に現実に戻ったのは母親の意見が耳に届いた時だった。

「大学までに「番」になってくれるαが現れれば……それに制度だって変わるかもしれないじゃない……っ!」

「そんな都合のいいことあるものか!社会など数年で変わらん!」

 理想を語る母親と現実主義の父親。まるで自分の中の意見を代弁するかのようだった。

 けれど、幼い頃の自分は「そうだ。未来には変わるかもしれない」そう思っていた……。

 それから数年、社会は父親の言う通りであった。たった数年では何も変わらない。社会的弱者は社会的弱者のままなのだ。


  ………あの頃の自分には、何も分からなかったけれど。


 


 まだ日はそこまで沈んでいない。俺は、一瞬思い出したの夜に奥歯を噛み締めた。

(……十歳のバース性確認の結果を受けて、両親は混乱した)

(なんせ父はオーケストラの有名指揮者、母は楽団所属のピアニストだったし……本人たちも生粋のαだ。親戚にもΩなんていない)

 しかも……俺は男でΩなのだ。構成比率から言えば、国内では1%未満のマイノリティである。

(一番の社会的弱者。社会的な制限は多く、その特性から生きにくい。音大の受験資格についてもそうだし……ある意味、マイノリティを性的被害から守るって名目もあるから全然変わる気配はなかった)

 俺は幼い頃にコンクールで一緒だった面々を思い出す。どいつもこいつも腹立たしいことにα家系のエリートだ。……俺もそうだと思っていたのに。

(Ωは音大には入れない。才能あるエリート……αの巣窟である場所に、そんな危険因子を放り込めないのは明らかだ)

 そう、Ωは自分の意志に関係なくαを誘惑するフェロモンを出してしまう。Ω側の性被害ももちろんあるが、α側をそれから守るという制度でもある。

 ……まあ、本当は薬でお互いに抑えられるのだけれど、どうして自分たちがそんなことをしなくてはいけないのか、と言うのがαの主張。

 個体としても優秀で社会的地位も高いα。Ωと同じぐらいの数しかいないのに、社会的発言力が強い立場にいる者が多い。両親と付き合いのある家族など、構成比からはおかしなぐらいにαだらけだった。そんな中でΩは暮らしていけない。父も母もいつからか俺のことは世間に隠すかのような振る舞いをしている。本人たちは気づいていないだろうが。

 バース性には色々と厄介な点がある。それが番というフェロモン抑制の制度だ。αもΩもちゃんとしたパートナーがいれば、そのフェロモンにしか反応しなくなり、そういった、いわゆる性的な暴走を止めることができるのだが……。

(「つがい」と呼ばれるパートナーのいない若いαは……Ωに発情すると暴走化する。大学なんて大変なことになるのはわかっている)

 αが投薬を嫌がるのは、この国の薬の認可が著しく遅れているからというのもある。

(日本はまだΩのヒート抑制剤もαのΩフェロモン回避薬も認可降りてるものが少ないし、効果が弱いものが多いから……。パリやロンドンぐらい、薬の認可が緩ければなあ……)

 そんなどうしようもないことを考えて、俺はハアッとため息をつくしかなかった。

(父親の力で、一般学校に一年在籍「できれば」、受験資格は与えてやろう、という話になった)

 そう、現実主義者の父親は正しかった。

 しかし、俺の才能を諦めたわけではなかったらしく、音大の教授に頭を下げて、俺の受験資格に関して、特別枠を作ってくれたのだ。しかし、普通学校に一年在籍という、今のΩ性にはなかなかハードな条件を課して。

(αとΩという「運命の番」。その相手が見つかれば、このフェロモンやヒートといった機能も落ち着き、Ωでも通常の生活を送ることができるらしい。しかし、「番」が見つかるのは早くても二十歳前後というのが一般的。この年で番を探すのよりはよっぽど現実的だけれど……)

 そこで俺は男Ωのもう一つの制約事項を思い出す。

(男Ωは女性と結ばれてはいけない。繁殖に支障があるからという理由で、男Ωの異性愛はかなりの偏見をもたれる)

 俺は少し悲しい目で安達さんを見てしまった。……別に恋愛をしたいわけでもないとは思っていたけれど。なんとなく気になる……と思ったとしても、自分の特殊な性や偏見が気になってしまうのは仕方がないことだろう。

 安達さんは俺の譜面を見るのに必死で、俺がしばらく考え込んでいたことには気づいていなさそうだ。音楽するのかな?と思ったけれど、ううん、と難しそうに眉間に皺を寄せているので、そういうわけではなさそうだ。「全然わからん!」と譜面を返してくれようとした時、バチっと視線があってしまった。

「伊崎君?どした?」

 自分のほのかな気持ちを隠すようにぱっと視線を逸らしてしまう。不思議そうな顔で見られると、余計に座りが悪かった。安達さんから譜面を受け取り、荷物をまとめ始めて帰ることにした。

「俺、もうそろそろ帰らないと。電車が混むの嫌だから」

「あ、ちょっとだけ待ってて!ちょっぱやで着替えてくるわ!」

「え?」

「もうちょい話したいし、一緒にかえろーよ!」

 その言葉に俺はきょとんとして、ええ……?と混乱してしまった。しかし、俺の返事も聞かずに安達さんは廊下を走っていく。「下駄箱で待ってて!」と言う声がすごい速さで遠くに消えていった。



 

 電車の揺れで安達さんの体が近くなってしまう。触れてはいけない、と必死で距離を取ろうにも、まさかの満員電車で、どうしようもない。

(最悪だ……やっぱり今日は残らず帰った方がよかった)

 安達さんは吊り革を持ちながらバランスをとって、俺に苦笑いをこぼしている。

「人身事故で本数減ってるとか、まじついてないねーっ!」

「あ、う、うん……」

 いつものカーブで電車が揺れた。その動きで俺は電車の端まで行ってしまう。鞄が当たってしまった女性にすみませんと頭を下げて、安達さんを確認すると、彼女とは一人隔てて別れてしまった。電車の遅れもあって、みんな余裕のない顔をしているし、俺は大人しくそのまま電車に揺られることにした。

(すごいマシンガントークだったな……)

 さっきの帰り道での安達さんとの会話を思い出す。安達さんが「まじであれすごくない?どうやって動かしてんの?え?週四レッスンで空き日は自主練?すげー!だから部活やってないんだ!」とまくし立ててきたのは面白かった。

(まあ、教室で授業の話以外しないしなあ……バース性はバレてるし、偏見とかもなさそうな人だしなあ)

 やっぱり面白い人だな、と思い出してほっこりしていると、また……慣れた感触があった。

 その手が俺の腰元を撫でて、思わずびくりとする。

(ああ、また……最悪!!)

 近くに安達さんもいるというのに。男なのに痴漢にあっているなんて情けない。できれば彼女には知られたくない。

 そんななけなしのプライドはあれど、易々と自分の体を触らせることは嫌だった。

 とはいえ、この電車の混み具合と遅れだ。周りもイラついているし、今声を上げたところでどうしようもない。

 次の駅につくところでやめてくださいと捻り上げるかと思っていると、その手が股間の前側に伸びてきて、最悪すぎて吐きそうになった。

 もう我慢できない、捻り上げてやる、と思った瞬間、先にその男の手を掴む指先が見えた。


 ……安達さんの手だった。


 「おい、やめろや、おっさん」

 安達さんは痴漢と俺にしか聴こえない、けれどいつもよりも随分低い声で凄む。

 混んでいる中、そそくさと逃げていく痴漢。周りの人は「いたっ」「なに!?」という反応で呆然としているうちに電車はゆっくりだが進んでいた。

「あ。次の駅までもう少しだね」

 安達さんは痴漢については何も言わず、痴漢がいたスペース、つまり俺の前を陣取り、他の人との間に立つ。扉にぐっと押し付けている腕に力はありそうに見えるが……それでも俺より細い女の子の腕だった。俺はこの腕に守られたのかと思うと、嬉しさよりも恥ずかしさが先にたった。

(見られた……痴漢されてたところ……最悪すぎる……)

 Ωだからよくありそう、ぐらいは思っているのかもしれない。けれど、クラスメイトの、しかも自分に優しくしてくれている子、しかも女性に守られたという事実に、俺は耳が熱くな理、黙り込んでしまった。

 駅に着いて、人の流れに押し出されるように駅のホームにたどり着く。人波を抜けたところでようやく落ち着き、お礼を言っていないことに気づいて慌てた。

「あ……ありがとう。ごめん……」

 恥ずかしくて声がうわずってしまう。しかし、安達さんは俺を振り向くと、少し間を置いてから、にこりと笑った。まるでなんでもないことのように。いや、むしろ、自分が悪かったような声色で。

「なんで伊崎君が謝んのよー。ごめんごめん、私、手がすぐに出ちゃう方でさあ!あんなこっわい声出しちゃった。引かないでね!」

「いや、こんな混む時間帯に電車に乗った俺が悪いから……」

 思わずそれに答えると……その言葉を聞いて、安達さんは反射的に短く叫んだ。

「どう考えても痴漢が悪いに決まってんじゃん!そんな風に思わないで!」

 その言葉に思わずびくっと反応してしまう。

 それに安達さんは頭をガシガシかいてバツが悪そうな顔をしていた。違うの、伊崎君が悪いんじゃないんだよ、あああ、ごめん、おっきな声出して、と慌てた彼女を見ているうちに、駅のホームが空いてきた。

 安達さんは目元から耳を赤らめて、うう、と下唇を噛んだ。

「ごめん……私、すげー仲よかった幼馴染にΩの女の子がいて……中学まで通学できてたのに、痴漢被害ひどくて引きこもっちゃって」

「あ、そうなんだ……」

「私がいつも助けてたんだ。守るから一緒に高校も通おうよって言ったんだけど……」

 安達さんはいつもとは違い、少し暗い表情になる。そしてポツポツと話してくれた。

 幼馴染の彼女は、俺と同じく国の検査でΩ発覚したらしい、両親ともにβだったが数代前に一人Ωがいたらしく、かなり変わった遺伝の仕方で、家族の理解を得るのにも時間がかかっていたとのこと。

(話を聞くだけで、自分のことみたいに思えてくるな……)

 彼女は必死で自分のバース性と向き合おうとしたらしいが、次第に笑顔が消え、通学途中の痴漢被害に引き篭もりがちになってしまった。

 安達さんは、彼女が本当は学校に行きたいと言っていたこと、同じ陸上部で頑張っていた姿を知っていることから、彼女が行きたいなら、といつも通学のボディーガードをしていたそうだ。

「……でも、痴漢だけじゃなくて、ひどい被害にあったみたいで……」

 守りきれなかったんだ、と話す安達さんは……見たことがないような辛い表情をしていた。自分にできることがあれば手伝いたい、と彼女の家に行ったのがよくなかったらしい、

「ミレイにはΩの気持ちなんかわかんないよ、って言われて……わからなくても寄り添いたかったけど、今は無理だなって……」

「そっか……」

「私、こういう性格だから、踏み込みすぎちゃって、親友を傷つけてたことにも気づかなかったんだと思う。でも、またやっちゃった……」

 安達さんはふっと首を振った後に苦笑いをこぼし、ぱんっと顔の前で手を合わせた。

「だから、今日もお節介すまん!!女に守られるのとか嫌だよね……頭より先に体動いちゃったんだ……嫌な気持ちにさせたと思う。ごめんなさい」

「いやっ!」

 安達さんが深々と頭を下げるのに、俺は一瞬固まって反応が遅れてしまった。顔あげて、そんなこと全然思ってない、と俺は慌てて取り繕う。……恥ずかしかったが嫌ではなかった。それに……

「助かったし、うれしかったよ。ありがとう」

 思わず漏れた笑みと言葉に安達さんは一瞬固まっていた。まだ目元が赤い。

 それなら、うん、といつになくモゴモゴして、俺に小さく手を振った。

「じゃ、じゃあ、私、こっちだから!気を付けて帰ってね!」

「うん、俺はここから歩きだし」

「今度、またピアノ聞かせて!!」

 少し距離を置いた後、いつものように大きく手を振る安達さん。それにちょっとだけ手をあげて応え、その場で彼女と別れて改札を出た。

(……守られてしまった……)

 情けない気持ちも恥ずかしい気持ちもないとは言えない。

 けれど……嬉しかった。あんな風に自分のことを思ってくれたこと。反射的にでも動いてくれたこと。

(ああいう人もいるんだから)

 俺はいつになく満たされた気持ちで、自宅への帰路を急いだ。

 


 

 玄関で靴を脱いでいると、珍しく母がいそいそと迎えに出てきた。電車の遅れについては連絡していたはずだが、母は少し過保護なところがある。靴を揃えながら口だけで話す。

「ただいま。遅くなりました……」

「まあ、薫、ちょうどいいところに帰ってきたわね!待ってたの!!」

「?」

 なんだ?と玄関からリビングダイニングに入る。この時間なのに珍しく父まで帰宅していた。そして……ダイニングのところに、両親とともに一人の男性が座っている。落ち着いた感じの茶髪の男性で、にこりと俺に微笑みかけてくる。

(誰だ……?)

 見たことのない来客に、俺は軽くだけ会釈を返した。

「初めまして、薫くん。黒沢と言います」

「……こんばんは。初めまして」

「黒沢くんはお父さんの楽団オーケストラでも一番有望株のバイオリニストなのよ。今年音大を卒業するの」

「そんな。自分などまだまだです。薫くん、よろしく」

 すっと手を出す黒沢さんに俺は驚いたが、まあ、父の関係者かということだけは分かった。何回か演奏を見に行ったことがあるので、その中にいたんだろうか、ぐらいの認識だ。

「はい、よろしくお願いします」

 握手をして、彼の手に触れた瞬間、びりっと何かを感じて、その場に座り込んでしまう。

(えっ、なに!?)

 自分でも自分の体が分からない。急に動悸が激しくなり、戸惑った。いきなり座り込んだ俺を見て、母は少しうろたえていた。

「あっ!!相性が良すぎるのも考えものね?薫、あなたヒート前だったから……」

「すみません。私が勝手に触れたばかりに……」

「母さん、この人……、まさか……っ!」

 ヒュ、ヒュ、と息が上がる。自分の体の反応、動悸、息切れ、めまい……発熱に近い症状が一気にきた。ヒートがくる、そう本能的に感じてしまった瞬間……目の前の男が恐ろしくなった。

 戸惑う俺に対して、嬉しそうに話しかけてくる母。やめろ、言うな。その男を俺から離してくれ、その言葉が出てこない。

 そして、母の言葉に絶望した。

「黒沢くんはαなの!しかもまだパートナーもいないし、AI審査のマッチングだと、あなたとのバース性相性もばっちりって結果が出ててね!」

「!?」

 まだ混乱しているのに、母は嬉しそうに話を続ける。なんだって?マッチング?バース性の相性?

 目の前の黒沢さんは、大丈夫?と俺の様子を気にしている。息が上がり、自分の頬が上気して赤くなっていくのがわかる。けれど、頭の中は真っ白だった。

「黒沢くんもそろそろパートナーのΩを探してるって聞いて。ほら、男Ωには男性のαしかパートナーに「なれない」じゃない?一度、薫に会いたいって……」

「!!」

「大丈夫?」

 伸ばしてきた黒沢さんの手を必死で振り払い、二階にある自室までかけ上がる。

 なんとか部屋の中に逃げ込んだ俺は、鍵をかけ、その場で座り込んで膝を抱えてしまった。

 まだ呼吸がおさまらない。あれがパートナーなしのα?相性がいいとはいえ、Ωがいる家に抑制剤も飲まずにきてるのか?

 いや、まさか、薬を飲んでいてもこんなことになるのか?ヒート期にαに出会うことなんて滅多にないから……!

 頭の中が全然整理できない。なのに、母が部屋のドアを叩いて「開けなさい」と言ってきた。

(開けられるわけないだろ!?)

「薫、薫、どうしたの?失礼でしょ?」

 本音を言うこともできず、俺は息をのんだ。そして、自室の棚にある薬を漁る。

「……ちょっと、刺激が強すぎて、こ、今度……薬を飲んでから……改めて……っ」

「特効のお注射あるでしょ?それ打って出てこれない?」

(!?)

 それが息子にかける言葉か!?とも思ったが、母の気配の隣に違う雰囲気が来る。

 扉越しなのに、自分の体が発熱したような感触。それに……正直、吐きそうになった。

「すみません。今日はやめておいた方がいいかと……」

 聞こえてくる優しい声色は、明らかに本心から自分を気遣ってくれているものだ。それは分かるけれど、それでも俺は吐き気を抑えられなかった。

「今日は失礼します。また今度音大でも案内しますよ。勿論、あまり学生(αたち)のいない時間にしますので」

「ごめんなさいね。ちょっと引っ込み思案な子で……」

 母の声に被せるように階下から黙っていた父の声が聞こえてきた。

「じゃあ、車回してくる」

「すみません。ありがとうございます」

 黒沢さんと母も一階に降りていくようだ。けれど、黒沢さんの雰囲気はまだ扉の向こうにいる。少しの沈黙の後、彼はこう言った。

「薫君、君の演奏映像を見せてもらったよ」

「……」

「素晴らしかった。君はピアノが本当に好きなんだね。……音大に進んで、ピアニストになるべきだ」

 その言葉は彼にとっては慰めや鼓舞のつもりだったのかもしれない。

 けれど、「持つアルファ」に言われたその言葉は、俺の胸を深く深く抉ってくる。

 電気もつけない暗い部屋の中で、俺は膝を抱えることしかできなかった。

(……分かってた。いずれはこうなるって……)

 父さんが音大理事会と約束したことは二つ。

 一般の高校で一年間過ごせるだけの社会性があると証明して見せること。

(そして……)

 ほかの学生(αたち)に影響を与えないよう、入学までに「つがい」となるαのパートナーを作ること、だ。

 二つ目の条件について、俺は聞いていなかった。後で両親の会話で聞いてしまったのだ。

 ……けれど、決定的なことを言われるまでは気づかないふりをしていた。

 俺は自分のうなじを撫でて、ぐっとそのチョーカーを掴んだ。

 どうして首元をこんなもので隠し、怯え、生きていかなくてはいけないのか。

 保身のためとはいえ、自分の体質が恨めしい。

 好きでこんな体に生まれたわけじゃない。

 構成比としては人口の1%もいないΩ。その中でも数少ない男のΩは0.2%と言われている。なぜ俺はそれになってしまったのか。

 Ωの厳しい社会生活。それの足を引っ張るヒート期間とフェロモンは憎くて憎くて仕方がない。

 それは特定のαにうなじを噛まれ、正式なパートナー「番」になることで安定され、フェロモンはその番以外には効かなくなるとは言われているが、だからと言って、こんな風にパートナーを決められることがあるだろうか?俺は頭を抱えて眼鏡を外した。目頭が膝を熱くする。

(分かってる……!俺には時間がないことも、両親が俺のことを考えてくれているのも……でも!)

 頭の中にはさっきまで一緒にいた安達さんの顔が浮かんだ。何を馬鹿なことを。分かっている。全部わかっていて、けれど、自分でもなんなのか分からない感情に支配されるようだ。耳の奥が痛い。心臓の音で痛い。ヒートなのか胸の痛みなのか分からず、自分の気持ちとは裏腹に熱をもつ体が憎い。

「どうして、俺はΩなんだ……」

 自分の細い指先を見つめながら、ぼろぼろと涙をこぼれた。自分の指はピアニストの指だ。細い手首も、その割に動く指も大きな掌も……その形を嫌いだと思ったことはない。けれど……

 さっき電車で庇ってくれた女の子の、あの分厚い手のひらが、とても羨ましく思えて仕方がなかった。


 


 九月になり、暑さと涼しさが入り混じる時期となった。俺は音楽室でもはや日課となったピアノを弾き終わる。ふうっと息をついて時計を見上げると、いつもの時間よりも時計の針が先に進んでいた。

(ちょっと長く居すぎちゃったな。部活組で電車が混む前に帰らなきゃ)

(でも、今日は黒沢さんが家に来る日か……)

 嫌な用事と相手を思い出し、この前、帰りにハグされたことを思い出す。しかし、自分は寒気を覚えて拒絶してしまった。してしまったけれど、それが本心だ。向こうは苦く笑っていたけれど……。

(……いや、あれが「普通」なんだ。男Ωの俺のパートナーには男αしか「なりえない」んだから……!慣れないと……)

 俺は黒沢さんとの「番」契約を受けざるを得なかった。両親からは「ここまでいい条件は他にない」と諭され、強制的に会う時間を増やされた。

 事実、彼はいい人だった。

 話しやすく才能豊かで、両親がいない時も人間的に問題はないと思う。

 俺が接触を避けているのを察し、無理なことはしない……が、父か母に何か言われたのか、この前抱きしめられたことには驚いたし、無理だ、と思った。

 ……つまり、そういう感情しかもてないのだ。

(ヒート期間も近いし、ちょっと今日は会いたくないな。万が一にも何かあったら嫌だ)

 俺との相性を鑑みて、投薬も増やしてくれているらしい。こんな方はいないわよ!と何度母に言われたか分からない。それに何よりも俺が音大に行きたいのは変わらなかった。音楽への道を諦めたくない。その想いはずっとこの胸の中にある。

 けれど、本当にこのままでいいのだろうか。

 無理矢理に自分のバース性に合わせ、好きでもない相手とパートナーになり、契約結婚みたいな生活を送る。

 それで音楽の道に進めたとして、俺はずっと何かの引っ掛かりから抜け出せないんじゃないだろうか?

(だめだ。考えすぎると碌なことにならないな)

 俺はもう少しだけ弾きたくなり、またピアノに向かう。

 短くて好きな曲。このアルペジオは指に馴染んで、何も考えなくても自然と指が動く。自分の心をリセットするには最高の曲だ。昔からこの曲が好きだった。

 ふと気づけば、ジャージ姿の安達さんがやってきていた。彼女が部活の帰りにここを覗きにくるのもいつものことになっていた。

「きれいな曲ー。それ、私も知ってる!音楽の授業で聞いたことあるよ!」

「じゃあ、曲名は?」

「えっと……月の光!」

 俺は笑いながらそれを弾き切った。安達さんがぱちぱちと拍手をしてくれる。毎回のことだが、どうも妙に照れ臭い。

「曲名はあんまり覚えてないけど、伊崎君が弾いてくれた曲のメロディはすぐ覚えちゃう」

「結構な回数聞いてるもんね」

 俺は音楽室に残るのを日課にし始めていたので、自然と安達さんとの会話も増えた。

 それがかすかな癒しだというのは秘密である。安達さんは汗を拭きながら、グランドピアノの横にある椅子に腰掛けた。

「いいよねえ、音楽って。できる人尊敬する!」

「俺は運動神経が悪いから、安達さんみたいに陸上できるのがうらやましいけど」

「あはは!ま、私には棒高跳びしかないからなー」

 彼女は変わらない。多分、俺が編入した当初から何も変わってないんじゃないだろうか。

 そんなフラットな彼女の佇まいが好きだ。その笑顔にホッとしている自分に安心するし、この学校に入ってよかったと思える大きな要因であることは間違いない。本人に言うつもりはないけれど……。

(レッスンがない日しか残れないけど……音楽室からは校庭がよく見える)

 そっと覗いていることも、彼女に告げる気はない。

 安達さんは、そんな俺の思考には気づくはずもなく、いつも通りの明るい口調で、なんでもないことのように言った。

「部活休憩の時も伊崎君のピアノ聞こえてくるとホッとするよー。聞いてる子多いんじゃないかな?」

「あっ、そ、そうなんだ……それは、恥ずかしいかも」

(だから、この前あんなこと聞かれたのか)

 数日前、あまり話したことのないクラスメイトから、「お前、たまに音楽室でピアノ弾いてるって本当?」と訊かれたのはそれだったのか。恥ずかしい限りだ。

(ヒート時期の薬や休みにも慣れてきたし、最近学校に馴染んできた気がする……あと半年!卒業までいけるかも……)

 少しの慣れに自信もついてきた。けれど、卒業するまで油断はできない。それに……もう一つの条件についても、今後考えていかなくてはいけないし。

 安達さんはパタパタと手で自分を扇いでいる。さっき窓を閉めてしまったので、音楽室には西日がさし、少し暑くなっているようだった。

「しかし、九月なのにあっついねー!」

「そうだね。もう帰るところだったから、窓しめちゃったし……」

「あっ、まじ?もう帰る?さくっと着替えて、更衣室帰りに学食寄ってアイス買ってくるわ!」

 え?と俺が問いかけると、安達さんがニカっと笑って意味なくVサインを出した。

「伊崎君、何味がいい?下駄箱すぎたロビーあたりで待ってて!今日は一緒に帰ろうよ」

「え!?あっ!ちょ、チョコミント!」

「オッケー!」

 彼女はもう一度Vサインを出してから、ばたばたっと走っていく。俺は荷物をまとめて、先にロビーに向かうことにした。

(アイスか。なんか「普通の」学生っぽくていいな)

 そんなたわいもない会話。それすら少しうれしく思いながら、廊下を歩いていた。


 

 その時は、あんなことになるだなんて思ってもいなかった。

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