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 その日も電車は満員だった。俺は面倒だなと思いながら、電車に揺られる。

 もうすぐ夏服だが微妙な時期だ。車内は無駄に息苦しく、気温は外よりも暑く感じられた。

 汗ばむ肌とシャツの感触が気持ち悪い。眼鏡を支えている鼻筋に少し汗を掻くのも嫌いだ。

(あ。しまった。送信忘れてた)

 スマホで今日の授業出欠登録を入れた。

 俺は特殊な体質で、毎朝、ちゃんと登校できるかを事前に担任や学年主任たちに知らせる必要があるのだ。

(「三年A組伊崎薫 出席」と)

 いつもの報告を終え、俺は息の詰まりそうな車内に首を傾けた。どうにも体の収まりが悪い。次の駅で態勢を変えたいところだ。それに……。

 俺は目の前の男の「嫌な視線」に気付いていた。そして、それをなんとか無視する。

(あと少し……あと少しで着く……)

 いつものカーブで電車は大きく揺れ、俺は扉の端の方に追いやられてしまった。

 人の詰まった箱の中、棒がざらっと動くような重力と波に負けて押し潰される。

 ん?という視線をまた感じた。……いつものことだ。

 俺のチョーカーと匂いに気付いたんだろう。俺は顔を隠すように縮こまることしかできない。

 長めの黒髪で隠そうにも、俺の首元には黒革のチョーカーがある。鍵付きのそれを見て、ああ、というような視線。

 それにも、もうとっくに慣れている。俺の性的な特徴を表すそれを見て、動けない車内でも少しばかり俺の周囲を避けようと顔を背ける人がいた。いつものことだ。

 そうしているうちに、また電車が大きく揺れた。俺の軽い体重は情けなくもそれに振り回され、電車の窓に顔を押し付ける形になる。人の呼吸で溢れた窓が吐息で曇った。

「っ、すみません……っ」

 誰かを潰したかと態勢を整えて、一瞬ホッとすると、俺の腰あたりで動く手に気付いた。それに、ヒュッと息が止まりそうになる。

「!!」

(朝から最悪だ……!)

 痴漢だ。間違いなく痴漢である。俺はこの性質的に痴漢にあうことが非常に多い。

 もうそんな生活にはうんざりしているし、こういう連中がどういう奴らかもわかっている。手の甲をさりげなく当ててきている感じ。

 ……本当に最悪だ。荒くなった息が耳元にかかって気持ち悪い。

 その掌が俺の尻を掴んだ瞬間、俺はその手首を強く握って、それを小声で制した。

「やめてください」

 気持ち悪い。本当に心底気持ち悪い。

 一見、普通のサラリーマンに見えるのがまた害悪だと思う。

 細ばった手をそっと払いのけ、少し体を移動させて、わずかな抵抗とばかりに睨みつける。

 次の駅につき、人が移動する瞬間、男は舌打ちをしてその波に飲まれていく。……想像通りの捨て台詞を吐いて。

「Ω(オメガ)が、フェロモンまき散らしてんのが悪いんだろうが」

 舌打ちをした痴漢男は人混みに紛れて消えていった。あと一駅だ。そのことにホッとするも、俺は憂鬱な朝に溜息をつくことしかできなかった。

(……やっぱりもうちょっと早い時間の電車で通学しよう。ヒート明けにこんな時間の電車に乗った俺が悪かった……)

 止まらない溜息をつきながら、なんとか一駅分を耐え、電車を降りると空気が澄んでいる気がした。

 そんなに長い距離じゃない。けれど、俺はこの通学で何度痴漢にあってるんだろう。そして、何度「お前が悪い」という視線にあっているんだろうか。

 この世界は弱者に厳しい。特に俺のような少数性……Ω性を持つ人間にはとことん厳しい世界となっている。

 俺がようやく降り立った駅は学生で溢れていた。主要ターミナルまで三駅という好立地。朝のラッシュは仕方がない。

 駅前は近々ある選挙のためか、立候補者のポスターが貼られているのが見えた。

 「Ω差別をなくそう!」と書かれた胡散臭い笑顔。そんなの、何十年言ってるんだ。

 この国は全てが遅すぎる。俺はよくありがちな政治キャッチフレーズに呆れつつも、通学路を一人で歩いていた。

 20××年以降の突然の性別進化、人間は体に二つの性を持つことになる。男女性の他に「バース性」と呼ばれる別の性が発見されたのだ。エリートのα(アルファ)、一般人のβ(ベータ)、……そして繁殖特化の体とされるΩ(オメガ)という性別。

 百年近く経って、ようやく社会的制度は整いつつある。……が、αが社会的強者、Ωが社会的弱者であるのが事実だ。そして、俺は……

(特に男のΩはその中でも最底辺)

 その最底辺にいる。レッテルで言えばどこにでもいる男子高校生。

 けれど、それに一番性的マイノリティである男性オメガであることを足すと……どれだけ稀有な存在であることか。

 Ωという俺の性特徴は繁殖特化。特殊なフェロモンが出てしまい、βやαの性欲を誘い出す……とされる。主に効くのはαに向けてなのだが、一般人のβも強いΩフェロモンには逆らえないらしい。フェロモンが効いてしまうαは国の制度で薬を飲むことが多いので、痴漢をしてくるようなのはβがほとんどだ。

 そのような特徴から、先ほどのような性犯罪被害に遭うことが多いのだが……体質的な特徴とされ、世間の目は冷たい。

 俺は薬でなるべくフェロモンを抑えるようにしているのだが、思春期から発現する「ヒート」と呼ばれる発情期が定期的におこる。

 その前後はどうしても薬の制御が効きにくいことがあり、さっきのようなことも起こり得る……。

(って、ヒート前後じゃなくても痴漢にあうって、どうなってんだよ、この路線……最悪だ)

 今の高校に編入し、この通学経路になってから、俺は最悪な日々を送っていた。けれど、俺にはこの学校に通わなければいけない理由もある。

 だから、しっかりと首元を抑えるチョーカーをして、きつい薬を飲み「なるべく普通の生活」ってやつを送れるように努めている。

(変にαを発情させて、好きでもないやつにうなじを噛まれたら終わりだしな)

 また、厄介なことに、αとΩには番というパートナー制度がある。

 しかし、発情したαにうなじを噛まれると、強制的な番になる場合があるため、パートナーのいないΩはこのようなチョーカーをするのが普通だ。

 だから、「ああ、あいつ男Ωなんだ」っていう視線にももう慣れたものだった。

 気温はもう夏なのに、なぜだか体がぶるりと震える。こんな悔しさ、慣れていくしかない。

 自分のチョーカーの後ろ側にある鍵を確認し、よし、と顔をあげると、天気は良かった。唯一の救いだ。

 やっと辿り着いた学校は……一般の高校。そう、バース性にかかわらず受け入れてくれる数少ない普通高校だ。

 男Ωである俺は、この春から「一般」高校にやっと編入することができた。

(国は何も変わってない……けど、少しずつだけどΩへの門戸が開きつつあるんだ。俺みたいなのが頑張らないと……!)

 そう思いながら校門前でチェックしている秋田先生に会釈をすると、向こうは、おう、といつものように手を挙げたあと、ん?と顔を顰めた。

「おい、伊崎」

「はい?」

 秋田先生にちょっとと呼ばれ、俺は校門脇の影にいく。秋田先生は少し言いにくそうに俺に耳打ちしてきた。

「お前、薬飲み忘れてないか?今日、フェロモンのにおいがすごいぞ。ヒート直後だろ?大丈夫か?」

「!!すみません。飲んではいますが、特効薬で調整します……!」

 痴漢に慣れてしまっていたが、今日はやっぱり俺のフェロモンの匂いがきついようだ。カバンの中に入れてある頓服を確認し、先生に頭を下げた。

「おう、気を付けてな。教室行く前に保健室に寄っておけよ。遅れそうなら連絡すりゃいいから」

「ありがとうございます」

 全てのバース性を受け入れる学校なだけあって、ここの教師は皆、俺への配慮が手厚く助かる。しかし、カバンに入っている注射型特効薬のことを思うと気が重い。

(今まではΩ専門学校で教育を受けていたから……薬の加減が難しいな)

(トイレ、いや、言ってもらった通り保健室で打つか)

 Ωは一般的にαと組むことで繁殖に適した体とされる。そのため、どうしてもαを引き付ける「フェロモン」が出てしまう「ヒート」と呼ばれる期間が定期的に体を襲う。

 薬で調整していても、どうしても日によって波が出てしまうし、フェロモンや頭痛や腹痛など様々な症状がきつく出ることもあるため、特効薬を持ち歩かなくてはいけない。

 普段から投薬でおさえたり、同意したパートナー以外に万が一にもうなじを噛まれないようにチョーカーで首元を覆ったり……。

 よくよく考えなくても、なんとも面倒な性質なのだが、もうこれは俺の体の特徴なので、これと付き合っていくしかないのだ。

 保健室に行くまでの廊下でも、チラッと首元のチョーカーを見る視線。そしてヒソヒソと話し合う声が聞こえる。

「あの人だよ。三年に編入してきた……」

「えっ、珍しいね……」

 

 ……俺は、何かと生きにくい。ただ、男のΩに生まれただけなのに。



 

 保健室での投薬を終え、教室に入ると、少しだけ教室のざわめきが収まった。俺は窓際の前から二番目の席に座る。まだ出席番号順での席順なのだ。久しぶりの登校だからだろう。クラスメイトからの悪意なき噂が聞こえてきてしまう。

「伊崎、ヒート期間終わったのかな」

「一か月に一回だっけ?休めるなんてずりぃよな」

 ……そんなもんだ。世間の理解なんて。

 この学校の教師たちは仕事として理解をしてくれるが、思春期の同級生に理解してもらえると期待するほど、俺も馬鹿ではない。

「男Ωにヒート休暇あるなら、女にも全員生理休暇欲しいわー」

「つか、なんでわざわざ三年から一般に編入なんだよ。Ω専門学校でいいだろ」

 予想はしていた。期待もしていなかった。けれど、こっちの事情も知らないくせに、勝手ばかり言いやがってという気持ちもある。

(初めてのヒート明け……。想定してた反応だ。Ωなんて人口の1%もいないマイノリティなんだから……)

 気にするな。気にした方が負けだ、と自分につよく言い聞かせていると、予鈴と同じタイミングで騒がしい声が教室の中に入ってきた。

「おっはよー!」

 陰口をたたいていたクラスメイトたちの肩を強くたたいて入ってきたのは、安達ミレイさんだった。アッシュピンクの長髪をなびかせ、短くしたスカートで豪快に入ってくるのは、いかにも陽キャのギャルという感じだ。俺の目の前の席に座る彼女とは、まだ何回かしか話したことがなかった。あまり集中力がない方らしく、前の方の席のくせに、授業中でも話しかけてくる……変わった子だ。

 どかっと大きな音を立てて部活バッグを机に置いた安達さんは、俺を見ると、おお!と大きな口を丸くして、話しかけてきた。

「伊崎君、久々だね!おはよー!」

「……おはよう」

「あ。そだそだ。これ!!」

 安達さんは自分のカバンの中のタブレットを、はい、と俺に渡してくる。

「これは?」

 受け取ったそれを不思議そうにそれを見つめてしまった。安達さんは俺の席に向きながらVサインを作って笑ってくる。

「伊崎君が休んでた間のノート。フォルダにまとめてるから、パッとコピーしちゃってー」

「えっ、悪いよ!」

「中身適当でごめんだけどー!あと、数学は全然わからん!ごめん!」

 俺は驚いた。休みの間の授業については教師に相談しようと思っていたけれど……まさかクラスメイトがそんなことをしてくれるなんて、思ってもみなかったからだ。数学は別にいいけど……と答えようとすると、安達さんは、その言葉を待たずに俺の机に頬を乗せて笑う。

「あ、そだ!伊崎君、編入試験、数学満点だったんだって?今度教えてよー!!」

 安達さんの勢いに圧倒されて、俺は思わず釣られるように笑ってしまった。

「うん、いいよ」

「やたっ!約束ね!」

 そんな会話をしているうちに、担任の大田先生が教室に入ってきた。

「朝のHR始めるぞー。おい、安達、こっち向け」

「アッ、やばっ!すみませんー」

 慌てて前を向く安達さん。彼女は慌てて長い髪をゴムでまとめ、聞いてます、という顔を大田先生に向けた。向こうも呆れているが、なんだか憎めないキャラだ。

(安達さんか。俺の性別については分かってるだろうけど、フラットで優しい人だ。確かスポーツ推薦だっけ?ちょっと……ギャル?で怖いけど)

 渡してくれたタブレットを開いてみる。中には余計なものは入っておらず、授業用タブレットとして真面目に使っているようだった。トップ画面にある「伊崎君用!」ファイルの中を見ると、日付のフォルダとともに、授業の資料とノートメモが入っていた。ところどことにタッチペンで書いたんだろう、らくがきやふきだしで「ここポイント」とかがあるのが面白い。

 人種が違う、と思いつつも、安達さんのノートを見て笑ってしまっている自分に気づいた。


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