第3話 死者と生者
心地の良い夢を見ていたはずだった。
暖かく清らかで、満たされていた頃の、今はもう消えてしまった何かの夢。
そこに存在していたはずのものは今はもうない。
記憶の中にすら存在せず、因果の彼方に溶けて消えた。
なのに、どうして彼女は夢を見るのか。
それは彼女自身にすら分からない。記憶ではないのか。幻想でも、妄想でもないのか。
だが、思考とも呼べない一瞬の心の残滓は、現実的なる感覚情報の上書きによって、すべて押し流されて霧散する。
感じたのは、ひどく不快な、何かが焼け焦げるような匂いだった。
「……おはよぉござぁいます」
眉をひそめながら目を覚ましたクリアは、とても不機嫌そうな顔をして、誰ともなく挨拶をした。
「なんだよぉ。人がせっかく気持ちよく寝てるっていうのに、この匂いはぁ!」
がばっと効果音が付きそうなほど勢いよく体を起こすクリア。
「わうっ」
すでに目を覚ましていたらしいカレンは、主人に挨拶を交わすかの如く、軽く吠えた。
「まだいたんだねー、カレン。お前も物好きだよ」
「わう」
辺りはすっかり明るくなって――いなかった。まだ全然暗い。むしろ深夜と呼べるぐらいの時間帯だろう。
「って、全然おはようございますじゃないし。むしろ夜だし。大体、こんな暗いんじゃ何の匂いかも分からない……」
ぶつくさ文句を言おうとしたクリアだったが、意外と周囲の様子が分かる程度には明るいことに気付いた。
何かと思ってよくよく見てみれば、地面に転がっている円筒型の光源が周囲を照らしている。
そして、その円筒型の光源のそばには、黒ずんだ大きな塊があった。
考えるまでもなく、あれがこの匂いの発生源なのは明らかだった。
「……え、あれ、人? 人だよね? え、こわいこわいこわい。なんでこの人、ここで死んでんの? 焼身自殺? わざわざぐっすり寝てるボクのそばまで近寄ってきて自分の体に火つけたの? こわ、え、こわこわこわ。近寄らんとこ」
などと言いながら、死体に近寄ってみるクリア。
円筒型の光源を拾った。
「ふむ。いいね、これは。軽いし、明るいし、利便性完璧。わざわざ焼身自殺しに来たのはいただけないけど、これを運んできてくれたのだと思えば腹も立たないや」
ありがとうございます、と焼死体に向かって合掌し、死後の安寧を願ってあげる。
それから、軽くストレッチし、体の凝りをほぐした。
「あ~、ねむい~。体痛い~。柔らかいベッドでねむりたい~。うぇ~ん」
さすがに匂いがひどくて、二度寝する気にもならなかったクリアは、光源を獲得できたこともあり、暗い中、再びの探索へと足を進めることにした。当然のようにカレンもついてくる。
向かったのは、焼け焦げた死体とは反対方向だ。
「人がいるのは確かなんだけど、なんで誰も彼も話す間もなく死んでるんだろう。ここは戦場でもあるまいに」
鉄の怪物がうろつく危険な場所ではあるが、少なくとも戦場の類いではない。
戦場ではないのに死が身近にあるというのも、なかなかどうして恐ろしいものではあるのだが。
「まーた、森の中を歩きますよっと。木、木、藪、藪、草、草、葉っぱ、と」
明かりがあり、服もあり、靴もあるから、初めよりは歩くのが楽だが、見えてくるものは代わり映えのしない植物ばかり。
少々飽き飽きしてきたために、クリアは強引な手段に打って出ることにした。
「障壁」
体の前面に障壁を張り、前方の障害物を強引になぎ倒して進むことにしたのだ。
「うわうわ、予想以上に快適」
そうして試してみて初めてわかったが、この障壁には起点となる対象へのフィードバックが一切ない。
クリア自身や弾丸といったように、障壁を張る対象を指定できるらしいのだが、その対象と障壁との間には物理的な相互作用は発生しない。
何かが当たったという感覚はまったくないし、固いものにぶち当たったところで抵抗感などは欠片もない。
ただ単純に、障壁に込められたエネルギーがぶつかったものよりも大きければ貫通するし、小さければ障壁自体が破壊される。
そういう仕組みのようだった。
だから、射出された弾丸に障壁を用いたところで弾丸の速度は落ちないし、あの固い鉄の塊でも撃ち貫けたということなのだろう。
ゆえに、鉄に匹敵するような硬度を持つ物質など存在しない森の中では、道を切り開くのに最適なのだった。
クリアが全力疾走で走っても、障壁はびくともしない。
樹木があれば、抉るように幹を穿って進み、藪があれば、何の痛痒も感じず押しのけて進み、枝や葉などには目もくれずに前に進むことができる。
擦り傷一つ負うことなく森を切り開き、気付けばクリアは森林地帯を抜けていた。
その先にあったのは険しい斜面がところどころに覗く山岳地帯だった。
「森の次は山ですか」
だが、この先には生きている人がいる。クリアはそれを認識していた。
自分の内側に感じるエネルギーと同種のエネルギーの塊が、この先に一つある。自分のものよりはかなり小さいが、人間には違いない。
なぜそんなことが分かるかと言えば、障壁を使っていくうちに、自然と自分の内側にあるエネルギーにも目を向けることになったからだ。
というのも、障壁は何も代償なしに発動できるわけではない。
作れば作るほど、自分の中の何らかのエネルギーが消費されている。
クリアは実感として、それを理解していた。
そして、自身の内側に存在するエネルギーに意識を向けることになった結果、逆に自分の外側にあるエネルギーをも知覚できるようになった。
さっき目が覚めたときにもそれは感じていて、あの焼死体にもわずかながら同じようなエネルギーが残っていたのが分かった。
生命エネルギーに近いものらしく、死んで間もないから残っていただけだろうが、生きている人間が近くにいれば、もっと明確に感じられるだろうと予想していた。
その予想はこうして実際に人の気配を感知したことで裏付けられたわけだ。
感じられる範囲では一つだが、もっと離れたところに行けばもう少しいるに違いない。その誰かからは情報を得られるはずだ。
まずは一番近い一人から。
目の前にある楕円形の小山の奥、おそらくは洞窟のような場所に潜んでいるようだ。
「場所が分かれば後は楽勝。レッツゴーっと」
障壁でごり押せば障害は一つもない。障壁が障害を退けるなんて、ちょっと皮肉な話だが。
ぐるりと小山を回り込むように迂回し、感じたエネルギーに最も近い洞窟の入口に足を踏み入れた。
そのまま感覚を頼りに生きている人間を探す。
洞窟内には明らかに人が生活している痕跡が見て取れた。
動物の骨や皮、枯れ枝などがまとめて置いてあったり、松明を作ろうとして失敗したような太い枝が壁の穴に差し込んであったりする。洞窟暮らしをしてそう日は経っていないのかもしれない。試行錯誤の結果がそこかしこに感じられた。
そうして十分ほど歩けば。
「――見つけた」
動物の毛皮にくるまって眠る生きた若い男がそこにいた。
※
※
※
年はたぶん、二十代後半といったところだろうか。
黒髪にやや低めの鼻、目を閉じているので正確には分からないが、割合整った造作をしているように見える。
痩せぎすで線は細く、あまり体を動かすことに向いているとは思えない。
昨日見た三人の死体と同じく、上下共に灰色の服を着ている。
これはもう偶然ではなく、何らかの理由があると考えて間違いないだろう。
「もしもし、お兄さん」
「うーん、ユリア、あと五分」
「……あのー」
「ユリア、静かに」
「ユリアじゃねーし」
名前が似ている誰かと間違えるばかりで、男には起きるそぶりがない。
仕方がないので、鼻をつまんで起こすことにした。
「ふがっ」
豚のような声を上げて、男は目を開けた。
ぱちくりと瞬きを一つして、クリアと目が合う。
「君、だれ?」
「はじめまして、クリアクレイドです」
「こちらこそはじめまして、ヨークトーク・カルギュリアです」
「わう!」
「この子はカレン、犬です」
「それはまあ、見れば分かるけど」
体を起こしたヨークはクリアとカレンを交互に見つめ、首を傾げた。
「君たち、どうしてこんなところにいるんだい? ここは年端もいかない少女がうろついているような場所じゃないのに」
「うーん、どうしてボクがここにいるのか。それは他ならぬボク自身が知りたい命題なんだよね」
クリアは極めて簡潔に自身の置かれた状況を説明した。
記憶喪失で丘に放り出されていたこと。
森で鉄の怪物に殺されかけたこと。
障壁を使って怪物を破壊したことは説明がめんどくさかったので、今は省いた。
「なるほど。記憶喪失かぁ。その年で大変だね。うちの妹よりも年下っぽいのに」
「あ、もしかしてユリアさん?」
「え、どうして名前を?」
「寝言言ってたから」
「……恥ずかしいところを見られたね」
ごまかすように頬をかくヨークにクリアは率直な疑問をぶつける。
「それで、ここは一体どこなの? ボクみたいなかよわいおんなのこがいるべき場所じゃないは分かるけど」
「あ、うん。そうだよね。気になるよね」
ヨークはどこか意味深な笑みを浮かべながら言った。
「ここはアイアンガーデン。アルコ・イーリス企業連合の支配する流刑地。言ってしまえば、罪人に死を与えるための処刑場かな」