第17話 原因と結果
意識を失ったトーマスを見下ろして、クリアは自分と同じだと思った。
あのときの自分もこの人と同じように取り返しのつかない状態に陥っていて、それを覆すためには因果を捻じ曲げる必要があった。
それをなしたのはクリアでもカレンでもなく、どうやらヨークらしいということは分かっているが、だとしても、クリアが現在ただ今トーマスにしてあげられることは何もないだろうか。
既に起こってしまったことは変えられない。過去は過去。現在は過去の上に成り立ち、未来は現在の上に成り立っている。時間の流れは不可逆で、過ぎ去った時を取り戻すことはできない。
それでも、その時間の流れの外にいる者なら、その因果の流れの外にいる者なら、三次元から二次元を見下ろすように、描かれてしまった物語に干渉するように、書き換えることもまた可能なのではないだろうか。
クリアは自分が因果を切り替えたとカレンに聞いたときから、ずっと考えていた。
果たして自分はこの世界の人間と言えるのだろうかと。
クリアの親は恐らくこの世界にいない。
クリアが赤ん坊として生を受けたときに彼女を取り上げた人間も、クリアが病気に伏せったときに看病してくれた人間も、クリアが毎日生きていくために食べてきたであろう食べ物すらも、この世界には存在していないし、存在した痕跡すらない。
この世界にとってクリアは完全に異物で、現在のクリアを構成するために存在する要素が――因果が、この世界には一つたりとも存在してはいない。
だからこそ、彼女は思うのだ。
自分は因果の外にいる。理の外にいる人間なのではないかと。
理の外側にいて、それらに囚われていないからこそ、この世界におけるクリアの記憶は一つも存在していないのではないか。
子犬のカレンという例外はあったものの、カレンはこの世界では桐華レンであり、現在の彼女を彼女たらしめる要因はすべてこの世界に存在している。
名前も家も職もあり、恐らく家族も普通にいる。
そんなふうに、カレンはレンになり、恐らく他の人間も同じように因果の改変に飲み込まれたはずだ。
けれど、クリアにはそれがない。
変わる前も、変わった後も、すべて等しく同じクリアであり、彼女だけが因果の改変から取り残された。
何も変わらない自分がそこにいる。
まるで世界から置いてけぼりにされたように。
お前はこの世界の人間ではないと現実を突きつけられるように。
クリアは因果の外にいる。
だからこそ、干渉することができるのではないだろうか。
この世界の因果に、理に、理不尽に、取り返しのつかなくなったすべてに。
「――因果断絶」
イメージしたのはトーマスを縛り付ける鎖を断ち切ること。
倒れ伏したトーマスを見て、はっきりと分かった。
彼の鉄仮面は常識的な手段によって形作られたものではないと。通常の物理的な手術の類いによってなされたものではないと。
彼の顔には、黒い魔力がこびりついていた。
黒いというのはイメージの話で、実際に黒いかどうかは分からない。魔力を感知したとき、彼の顔には、いろんな人間の魔力が入り混じったような歪なエネルギーを感じた。
魔力にも人それぞれ固有の周波数があり、人それぞれ、色があると言える。
例えば、クリアの魔力を白とするなら、カレンは青、バルクセスは黄色といったように。
けれど、トーマスの顔に滞留していた魔力は、単一の人間のものではなく、不特定多数の人間のものがないまぜになったような気持ちの悪い魔力だった。
その気持ちの悪い魔力こそが彼の顔を鉄仮面に変えている。クリアはそう確信していた。
しかし、その気持ちの悪い魔力を振り払うためには、通常の手段ではどうにもならない。
そもそも魔力なんて勝手に減衰して消えていくものなのに、いつまでもその魔力は滞留している。
それが異常なのだ。
その異常な状態を打破するため、クリアは因果に干渉し、トーマスの顔を変化させた『原因』と『結果』を分離する。
起こった『原因』はそのままに、現在ただいまの『結果』とのつながりを断ち切る。
そうすることで、『原因』は『結果』につながらず、『結果』は『原因』との接続を断たれる。
行き場をなくした『結果』は、『原因』の束縛を離れ、本来あるべき姿に回帰する。その『原因』が存在しなかったときと同様の『結果』に。
落ちたりんごは木に戻り、降った雨滴は雲に返る。
それこそがカルマ・ディバイド。
「助けたったぜ……」
トーマスの顔は完全に元通りになっていた。
彼が黒い魔力に干渉される前に持っていたであろう顔に戻っている。
なかなかに彫りの深い精悍な顔立ちをしていた。
代わりに、クリアの体を重たい疲労感が襲い始める。
「あー、これ、やばいかも」
自分の中のエネルギーが――魔力が全部持って行かれたように感じた。
まるで全身の血を抜かれたような気分だ。
この世界の因果律に干渉する。
言ってしまえば、それだけのことをクリアはしたわけで、ならばそれに比するだけの代償を払うことになっても不思議ではない。
魔法一つ放つにしても、そのための魔力がいる。
ましてや因果を断ち切るためには、どれだけの魔力が必要になるだろうか。
全身を襲う虚脱感はまさに、クリアがすべての魔力を絞り尽くした証だった。
断ち切るだけでもこれなのに、因果を書き換えるともなれば、一体どれだけのエネルギーが必要になってくるのか見当もつかない。
「ヨークさん、君は一体何者だよ……」
そんなつぶやきとともにクリアもまた意識を失った。
※
※
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「あはっはははっは!」
軽やかな笑い声がクリアの意識を浮上させた。
目を開くと、カレンの顔が目の前にある。
「お目覚めになりましたか?」
「おはよう、カレン」
「はい、おはようございます」
カレンの膝枕から頭を上げ、笑い声の主を見る。
すると、満面の笑みを浮かべたトーマスの姿がそこにあった。
「よかった、夢じゃなくて。治ったんだね、トーマスさん」
「もちろんだとも! ということは、やはりこれは君がやってくれたということでいいんだね?」
「うん。そうだよ。ボクが治した」
「心の底から礼を言わせてくれ。ありがとうクリア君。君はまごうことなく私の人生の恩人だ!」
「うんうん。とっても感謝してね」
デスクの椅子に座っていたトーマスがソファに寝かされていたクリアのそばまでやってきて膝をつく。
「ありがとう。このトーマス・グリアスは永劫、君の味方であり続けると誓おう!」
「……重いね。ほどほどでいいんだけどさ。で、ここはどこ?」
「私の執務室だよ。本部棟と呼ばれている場所だ」
きょろきょろと周りを見回す。
デスクとソファと本棚しかない殺風景な部屋だった。
アイアンガーデンの所長の執務室とは思えない。普通こうした囚人をいじめる施設の長というのは傲慢でがめつい人間だと相場が決まっているものを。
「なんにもない部屋だね」
「あっははははは! まあ、何分、私もあんな顔だったからねえ! 部屋を飾り立てるだけの心の余裕なんてなかったのだよ! あはははははは!」
「……う、うん」
異様なテンションの高さと笑い声に、さすがにクリアもちょっと引き気味になっていた。
何年かぶりに顔を取り戻したということで、否が応でもテンションが上がってしまう気持ちは分かるのだが、それでも、怖いものは怖かった。
カレンも少しだけうんざりしたような顔をしている。
「ちなみにボクってどのくらい寝てたの?」
「二時間程度ですかね。わたしが意識を失っている二人を発見して、三十分ほどでトーマスさんが意識を取り戻しました。だいぶ混乱されている様子でしたし、わたしも顔を取り戻した彼に驚愕しましたが、どうせ姫様の仕業だろうと分かっていましたので、その線で彼を説得し、和解したというわけです。それから、あなたをこの本部棟まで運び、目を覚ますのを待っていたと。ちなみに服はわたしが着替えさせました」
「ん? 服?」
見れば、確かにクリアはあのつぎはぎだらけの囚人服ではなくなっている。
白いシャツに七分丈のズボン。何なら下着まで付けていた。
「トーマスさんから備蓄している物資を分けていただきました」
「そうなんだ。ありがとね。トーマスさん」
「いやいや! 私にお礼など言う必要はないよ。そんなものでは到底釣り合わないだけのことを君はしてくれたのだから」
「それでもお礼は言うよ。ありがとう」
「……どういたしまして」
感激したように、トーマスは目を潤ませていた。
顔を取り戻したばかりで感受性が豊かになっているのかもしれない。
「それで、トーマスさんはボクたちを見逃してくれるんだよね?」
「もちろん。ここで君たちを捕まえたりなんてしたら、私は七大企業のクズども以上のゴミカスになってしまうよ。それにこちらの被害は少し施設を壊された程度。人的被害は出ていない。実験機の被害こそあるが、アイアンドールの方は桐華君がどうとでもするということだし、フライビーは野生動物にも壊されるような代物だ。いくらでも隠ぺいが利く」
「じゃあ、囚人の人たちはどうしたの?」
「彼らに関しては、さすがにこの本部棟まで連れてくるのは問題があり過ぎたため、森で解放することにしたよ。君によろしく伝えておいてほしいとのことだった」
「そうなんだ。よかったあ」
言葉も交わさずに別れたのは残念だが、彼らが無事逃げおおせたというのなら、それ以上のことはない。
胸を撫で下ろすクリアに、カレンが疑問に満ちた目を向けた。
「どうやら姫様は状況を理解された様子ですので、改めて聞きますが、トーマスさんに何をされたんですか?」
「何って……、口で説明するのはめちゃくちゃ難しいけど、強いて言うなら、因果を切った!」
「は?」
「……仮にも主人にその反応はないと思うんだけどなあ」
カレンに冷たい目を向けられるクリアに助け舟を出すように、トーマスが柔らかく聞いた。
「ふむ……。その因果を切る、というのは具体的にどういう現象なのかな?」
「ええとね、物事っていうは全部、原因と結果で成り立ってるでしょ。ごはんを食べればおなかが膨れるし、体を動かせば疲れが溜まる。雨が降れば地面が濡れるし、太陽が照りつけば大地は乾く。そんなふうにどこにでも存在する原因と結果にボクは干渉して、その間にあるつながりを断ったわけ。そうすることで、原因は結果につながらなくなり、トーマスさんの顔も元に戻ったというわけなの」
「……荒唐無稽な話だが、それで助けられた身としては疑う余地もないね。だが、どうして君にはそんなことができるのかね」
「ボクがこの世界の外側にいる人間だから、だと思う」
クリアがそう言うと、カレンもトーマスも一様に何を言っているのか分からないという顔をした。
「姫様はここにいると思いますが……」
「せ、世界の外側か……、うむ、まあ、そうしたこともあるだろうか……」
どこか憐れみさえ感じるような二人の表情に、さしものクリアもこれ以上説明をしようという気をなくした。
「もういいよっ! 説明するだけ訳分かんなくなるんだから! ボクは因果に干渉できるの! 端的に言えばそういうこと!」
「まあ、嘘やごまかしの類いではないということは分かりますが……。とりあえずそういうことにしておきますか」
「説明して損した……」
聞いてきたから答えただけなのに、と落胆するクリアを放置して、次にカレンはトーマスに顔を向ける。
「姫様の話はいったんそれでいいとして、わたしとしては、トーマスさんにも確認しておきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「かまわないとも。何でも聞いてくれ」
「わたしたちの所業について、七大企業への報告はどの程度されましたか」
「……なるほど。それは確かに君たちの今後にかかわる死活問題だね。その答えは、何も報告していない、だ」
「……確かですか」
「もちろんだとも。君たちに嘘をつくわけがない。何分わたしは左遷された身の上であるからして、軽々に応援を求めるわけにはいかなかったのだよ。まあ、求めたところで、よほどのことがない限り、彼らが助けを送ったかは怪しいところだが」
「なら、今後も報告はしないと、そう理解してよろしいですね」
「聞くまでもなく、そんな恩知らずな真似はしないよ」
「ありがとうございます」
カレンが丁寧に頭を下げると、トーマスもそれに応じるように深々と頭を下げた。
「では、差し出がましいようですが、わたしたちが破壊してしまった施設やわたしたちが映っているであろう、企業側に見られてはまずい映像の処理などもお願いしてかまいませんか?」
「無論それは私も抜かりなく行うつもりだったとも。君たちを逃がしたことがばれると困るのは私も同じだからね」
「ありがとうございます」
細かいことにこだわるなとクリアは思ったが、カレンとしてはそうした小さな綻びこそが今後の危険につながると考えたのかもしれない。
実際どこまでこの施設のことが企業側に注視されているか分からない以上、そうした慎重さこそが命を救う場面もあるだろう。
クリアとしては、何とでもなれとしか思えないのだが。
「そういえば、トーマスさん、お茶菓子とかは出ないのかね。あなたの人生の恩人はあまーいお菓子とコーヒーを所望しているよ」
「姫様、意地汚いですよ」
「おお! これは失礼した。確かに客人にはそれくらいしなくてはいけないね。ましてや君は私の恩人だ。最上級のおもてなしをしなくてはいけないところだ! すまないね、気が利かなくて」
「かまわんよ」
トーマスが軽くデスク上の端末を操作すると、ふんぞり返るクリアの前にテーブルが運ばれてきた。
運んだのはもちろん宙に浮く腕。
それから続けて、コーヒーポットと皿に乗ったクッキーがたくさん。
それにクリアは目を輝かせた。
「これまでの私はまともな食事を必要としていなかったものでね。保存の効くクッキーぐらいしかなくて、心苦しいのだが……」
「全然これでいい! 全然これで十分! ありがとう、トーマスさん!」
「姫様は甘いものに目がないんでしたね、そういえば」
そうして、数時間前にはあれだけ対立していた間柄とは思えないほど平和的に、クリアたちはちょっとしたお茶会を楽しんだ。
時刻は既に夜分遅くと言える頃合いではあったが、昨日から鹿肉ぐらいしか食べていなかったクリアは、保存食のクッキーだろうと喜んで食べたし、口を取り戻して久方ぶりの食事を取ったトーマスはそれ以上だった。
カレンだけは付き合い程度に留めていたが、うれしそうなクリアを見て、幸せそうに微笑んでいた。
「では、そろそろお暇させていただきますか」
そして、一通りお菓子を楽しんだ後、頃合いを見て、おもむろにカレンが口にする。
囚人たちを逃がすことはできた。
トーマスも助けられた。
自分たちの安全も確保できた。
ならばもう、ここに留まる理由は何もない。
「……まあ、いつまでもこんな寂れた島に引き留めるわけにはいかないね」
あの顔のせいで、まともに人と接することに飢えていたのだろう。トーマスは寂しそうな笑みを浮かべて、それでも、クリアに笑顔を向けた。
「しつこいようだが、本当にありがとう。君のしてくれたことは一生忘れない。何か困ったことがあればいつでも私を訪ねてくれ。他の何をおいても君の力になると約束しよう」
そんな彼の姿にクリアは屈託なく笑いかけた。
「うん。また来るね、トーマスさん」
「……ああ、また会おう、クリア君」
また来れるのかどうかなんてことはクリアは考えない。
また来ると決めたから、また来ると口にした。
それだけなのだ。
本部棟を出ると、すっかり辺りは暗くなっていた。
「これから海の向こうへ行くんだっけ? ずいぶん暗いけど大丈夫?」
「問題ないですよ。小型飛行機の運航はすべて自動化されています。この時間ならまだ運航可能のはずですから。あ、ちなみに飛行機というのは空を飛ぶ機械です」
クリアに聞かれる前に先んじて飛行機の解説を入れたカレンだったが、星空を見上げるクリアの耳には入っていなかった。
肩をすくめたカレンが飛行場に向かって歩き始めると、黙ってクリアはその後ろに従う。
「カレン。一つやりたいことができたんだけど、聞いてくれる?」
「……なんですか」
「この国をぶっ壊したい」
クリアが言うと、カレンはぴたりと足を止めた。
数歩進んで彼女を追い越したところでクリアが振り返ると、暗闇の中でカレンが唇を歪めるのが分かった。
「なぜそんなふうに思ったんですか?」
「だって、バルクセスさんたちもトーマスさんも大したことしてないのにひどい扱いばっかり受けてかわいそうじゃん。だから、あの人たちがもっとまともに平和に暮らせる世界を作りたい。そのためにはこの国をぶっ壊すしかないでしょ」
「とんでもないことをあっけらかんと言いますよね、姫様は。まあ、この国が腐っているというのには同意しますが。人間一人ではできることとできないことがありますよ」
「一人じゃないじゃん。カレンもいるでしょ」
「……たった二人で何をしようと言うんですか」
「二人で足りなければもっと人を増やせばいいじゃん」
「はあ……」
深々としたため息をついて、それから、カレンは猛々しい微笑みを浮かべた。
「あなたがそれを望むのなら、わたしは黙って従いましょう。わたしは姫様の犬ですから」
「それでこそカレンだよね」
あてどない目標だけが定まり、クリアとカレンは暗闇の中を歩いていく。
そうしてようやくクリアは鉄の庭から自由になった。