第16話 勝ちと笑み
トーマス・グリアスには二人の少女たちに対する恨みなど欠片もなかった。
自身が所長を務めるアイアンガーデンの中で好き勝手な振る舞いをしたことに対しても、何の悪感情も抱いていない。
むしろ爽快だとさえ思っていた。
七大企業の非人どもが考えた、反乱分子を的にするだけの悪趣味な檻など、いっそのことすべて壊してくれたらいいのにと思った。
その中にトーマス自身が含まれていたとしても、何ら構いはしない。むしろ望むところだった。
トーマスは、顔がなくなってもなお死ぬ勇気がない。
自分の未来には絶望しか残っていないと知っていても、それでも、自ら死を選ぶ気にはなれなかった。
生き汚く、自らをこんな有様にしたイエローコートにしがみつき、閑職とはいえ、いっぱしの施設の長の職すら得ている。
トーマスはどこまでいってもどっちつかずだった。
恨みに生きることもできなければ、潔く死ぬこともできず、さりとて義憤のためにも動けない。
ただただ与えられた仕事だけを全うし、明日を生きるためにのみ今日を生きている。
だから、本当に恨みなどないのだ。
恨みなどないし、こんな非人道的な施設から囚人を逃がそうとする彼らの方が正しいと分かっている。
けれど、トーマスにはその正しさのために命を捨てられる勇気などない。
彼にできるのは、ただ己が生きるために他者を切り捨てることだけだった。
「どんなに足掻いたってどうせ最後は惨めな結末が待っているだけだろうに」
空中に派遣したいくつもの腕から送られてくる映像をトーマスは自身の周囲に投影している。
彼は今、腕のドームの中にいた。
空中に浮かんだ腕が周囲を回転しながら彼を守る盾となり、そして、周囲の映像を投射するスクリーンとなっている。
そのスクリーンに映る二人の少女は、遠くから見ても分かるほどに、いっそ楽しげですらあった。
「何がそんなに楽しいのかねえ」
トーマスには理解できない。
追い詰められて、攻め立てられて、取り囲まれてもなお楽しいと思えるその神経が理解不能だ。
「これを喰らってもなお楽しいと思えるかな」
相手の動きは想像よりも速いと見て、攻め方を変える。
トーマスが操る『腕』には、さまざまな用途に対応できるよういくつもの機種が用意されている。
見た目はすべて腕だが、今までクリアたちに突っ込ませていた物理型もあれば、銃弾を放つ中距離型もある。
そのうちの一つの群れを彼女たちに向かわせる。
――自爆型。
「……さすがに硬いね」
物理型の群れの中に自爆型を混ぜ込み、彼女らに接近したところで爆発させる。
そうした腹積もりだったが、爆風はすべてクリアの障壁に阻まれた。
フライビーとの戦闘映像には一応目を通していたとはいえ、その反応の速さには舌を巻く。
「じゃあ、これはどうかな」
上空からの絨毯爆撃。
腕の中に仕込んでいた爆弾が次々と投下される。
だが、これはすぐに失敗だったと気付いた。
爆風のせいで、舞った土埃や燃えた木々のせいで、クリア達の居場所を完全に見失ってしまった。
「散水型・消火型起動」
地下道からホースを引っ張ってきた腕が水をまき散らし、消火剤を仕込んだ腕が燃えた木々に向かっていく。
彼女らの正確な居場所は分からなくなったが、この周辺半径一キロメートルを取り囲むようにして上空にカメラは設置してある。
その囲いから逃げ出そうとする人影の姿が見えないということは、少なくともまだ彼女らには戦う意思があるということだ。
戦う意思があるのなら、必ずこちらに近づいてくる。
トーマス自身の周囲も常に警戒は怠っていない。近づいてくれば、いずれかのカメラには映るはずだ。
そう思っていたのだが、しかし、次の瞬間カメラに映ったものを見て、トーマスもさすがに血の気が引いた。
「投石か」
トーマスの口の位置にあるスピーカーから発せられた音声はことさらに平坦なものだったが、その平坦さとは裏腹に、彼自身の気持ちはかなり動揺していた。
地響きのような凄まじい音がして、彼の横、五メートルほどの位置に大きな岩が着弾する。
慌ててトーマスは腕のドームの一部を窓のように広げた。視界を広く取り、次弾に対処するためだ。
次の岩が飛んで来るのを確認すると、大きく跳んでその場を離れる。
トーマスの寸前までいた位置に正確に、二メートルほどの大きさの岩が着弾していた。
「向こうもこちらの位置を把握しているというのか。どうやって?」
次々と飛んでくる岩を避けながら思案を巡らせるが判断はつかない。
いったん思考を止め、岩の投射軌道から逆算して、クリア達のいるであろう位置に観測型の腕を向かわせる。
するとすぐに、岩山の近くに岩石を砕いているレンの姿を発見する。
ただしクリアの姿はない。先ほどまではレンの背に背負っていたはずだが、今の彼女の背中はまっさらだ。
「ふむ。まあ、どこぞに潜んでいたとして、あの少女の機動力ではさして問題にならないか」
発見したら即、腕の群れを向かわせればいいだけのこと。
むしろ足のあるレンの方を先に発見できたのは幸運だった。
「行け」
上空に周遊する腕の群れを次々にレンの元へ向かわせる。
爆弾の投下は悪手だと分かったから使わない。
あくまで直接攻撃によってけりをつける。
相手もまたサイボーグであるがゆえに多少時間はかかるかもしれないが、手数は完全にこちらが上だ。
どれほど粘ったところでレンにこちらに近づく手段はなく、トーマスが失うのは代わりのいくらでも利く使い捨ての腕だけ。
半ば勝負を決めた気になってレンに腕が殺到する様を観察していると、いきなり彼女が急加速した。
「なに」
トーマスのいる方向目掛けて一直線に向かってくる。
先ほど逃げ回っていたときとは比べ物にならないほどの異常な加速。
これは速力を抑えていたというよりも、
「足に何か仕込んでいたか」
零細企業のサイボーグでも、足に小型の加速機構を備えるくらいは可能だろう。
しかし、それを戦闘開始のタイミングではなく、トーマスが勝負を決めにかかろうとしたこのタイミングで使ってきた。
「いやに戦い慣れているね」
サイボーグになって日が浅いという印象は動きのぎこちなさから何となく読み取っていたが、カードの切り方はまあまあだ。
「だが、こちらもそれだけでやられるほど無防備ではないのだよ」
トーマスは自身の周囲に展開していた腕をすべて前方に集中させる。
彼女の動きは速い。上空を周遊している腕では追いつきもしないだろう。
既にトーマスの周囲に存在している腕を使わなければ間に合わない。
何重にも張り巡らせていた腕のドームが解け、それを構成していた腕たちが、今度は一つの巨大な腕を形作る。
それを向かい来るレンを叩き潰すように振り下ろした。
「所詮、君たちのような偽善者は私のような卑怯者に踏み潰される運命なのだよ」
レンの動きは直線的であり、上から覆いかぶさるように振り下ろされる巨大な腕を避けるだけの余裕はない。
「私の――」
「ボクらの勝ち!」
瞬間、後ろから聞こえた勝利宣言に振り返る間もなく、トーマスの体は容赦なく投射された雷球によって徹底的に麻痺させられる。
倒れながら振り返るトーマスが見たのは、にんまりと微笑んで胸を張るクリアの姿だった。
「……どう、して、君、が……?」
「うん? 岩に隠れて飛んできた。それだけ。人を舐め腐るからこうなるんだよ、ばーーーか!」
「――」
真正面からの罵倒にトーマスは不意に笑ってしまいそうになった。
けれど、彼の言葉を外部に伝達するための機構は笑い声を備えていない。
顔を失って以来、笑いたいと思うことさえなかった彼だが、このときばかりは笑うことができないことを心底残念に思った。
そして、遠ざかる意識の中、トーマスはあどけない少女の声で、不思議な言葉がつぶやかれるのを聞いた。
「――カルマ・ディバイド」