第0話 負けず嫌いと代価
「はははっ」
少女は燃え盛る国土を見下ろし、渇いた笑い声を上げた。
戦火はこの国を焼き尽くし、全てを滅ばさんとしている。
国の元首たる少女がこれからいくら力を尽くそうと、もはやこの国の滅びの運命は変えられない。どころか、彼女自身の命運さえもろくな結末を迎えないだろう。
家は燃え、土は抉れ、人は殺される目前の景色を見れば、誰もがそう思う。
この国は負け、そして、この少女は惨たらしく死ぬのだろうと。
「この部屋もいつまで安全かな」
既に敵の追手は城内にまで迫っている。彼女の腹心が足止めを図っているはずだが、それもいつまでも続かないだろう。
これから増えるばかりの敵のすべてを一人で押し留められるはずがない。
親友を死地に追いやってしまったことを少女は深く後悔する。
けれど、彼女にはやらねばならないことがあった。
絶望的なこの状況においてなお、すがるべき希望がそこには存在していた。
「『光性循環』」
つぶやくと同時、彼女の足下から部屋全体に広がっていくように光が満ちていく。
その光は魔力の光。その光で部屋全体を包むことが特別な儀式を行うための手順だった。
「『代価なくして成果は成せず、意志なき成果に意義はなし。神なる天秤をここへ』」
少女があらかじめ定められた起句を唱えると、部屋の中央のテーブルの上に白金色の小さな天秤が現れた。
秤には何も乗っていない。にもかかかわらず、風もないのに左右にゆっくりと揺れている。
「クリアクレイド・ウィートゲーターの名の下に、至上の天秤に願い奉る」
そして、少女――クリアは天秤の片方の皿に自らの手を乗せた。
普通ならそれだけで崩れてしまいそうなほどにその天秤は小さい。
しかし、実際は手を乗せた皿の方にわずかに傾くだけで、天秤はほとんど動きもしなかった。
(申し訳ありません。お母さま。クリアはあなたの言いつけを守ることができませんでした)
至上の天秤は絶対に使ってはならない。
先代国王である母にそう厳命されたときのことを思い出す。
「いいですか、クリア。至上の天秤はこの世のありとあらゆる万物・事象を代替することができる。宝石を欲すれば与えられるし、命を欲すれば生き長らえる。どんな願いも叶えられる、そうした万能の力を持つ天秤よ。でも、その代価はとてつもなく大きい」
クリアが王座を継ぐ数カ月前、王しか入ることを許されぬ儀式の間に連れられ、小さな天秤を前にした彼女は、険しい顔をした母にそう告げられた。
「何を失うことになるのですか?」
「天秤が願いに釣り合うと判断した代価よ。何を失うことになるのかは使ってみるまで分からない。クリア、あなたも知っているでしょう? 私たちの血統に刻まれた呪いを」
「『王は常に一人でなければならない』」
王国では、貴族も国民も、誰もが知っていることだった。
この国では、王の世継ぎは一人しか生まれない。
そして、その世継ぎが王座を継いだとき、先代の王は必ず死ぬ。
「その通りよ。言い伝えでは、後継者争いを防ぐために初代国王が掛けた魔法によるものだと言われているけれど、実際は違う」
「……それが天秤の代価であると?」
「そう。初代国王が天秤に願ったゆえの代価。その代価を今に至るまで数百年もの間、子孫の私たちは払い続けている」
「初代国王は一体、何を願ったんですか?」
子孫に引き継いでまで代価を支払い続けるほどの願い。
それがどんなものなのか、クリアには想像も付かなかった。
「クリア、資源も特産品も何もない、海に囲まれた孤島に過ぎないこの国が、どうして広大な領土を支配し、数々の国を従えるまでに至ったのか。その理由が何かをあなたは知っているかしら」
そう言われてクリアの頭の中には、考えるまでもなく、一つの答えが浮かんだ。
「……魔法」
「正解よ。魔法は初代国王が外敵の脅威を受けて開発されたものだと王国史には記されている。しかし、その実態は違う。王は国家危急に際して天秤に願ったのよ。あらゆる代価を覚悟の上でね。そして、実際に魔法という強力な手段を手に入れ、数百年の繁栄を手にすることになった」
「……」
理屈としてはクリアも理解できた。
そうしなければならなかった理由にも納得がいく。
国が滅ぶかどうかという瀬戸際に立たされた国王は、国家存続のためにはどんな代価も飲み込むだろう。
けれど、王座を継承することが母を失うことに直結しているクリアにとってみれば、初代国王のその願いはとても身勝手な代物に思えてしまう。
初代国王がそんな願いを抱かなければ、これから王となるクリアが母を失うこともなかったのにと。
「クリア、あなたにはその場その場の勢いで動く悪癖がある。でも、どんなに感情的になったとしても、決して天秤を使ってはダメよ。あなた一人だけじゃなく、その代価は、あなたの子孫にさえ波及するものになりかねないのだから」
そのとき、クリアは母の警告に黙って耳を傾けるだけだった。
そのときのクリアにとっては、天秤がどうとかなんていうことはどうでもよくて、ただこれから母を失うのだというその事実だけが心に重くのしかかっていた。
今にしてみれば、母はクリアの危うさに気付いていたからこそ、何度もそうした警告を重ねたのだろう。
追い詰められれば何をするか分からないクリアの不安定さを見越して、そうした言葉を残してくれていた。
「これも身勝手な願いに過ぎないんだろうな」
結局、クリアも初代国王を馬鹿にできない。
同じような場面で、同じような選択をしたのだから。
これから何を失うとしても、クリアは後悔しない。後悔するつもりはない。
母は止めるだろう。臣下に聞いても同じだろう。誰も彼もがダメだと言うかもしれない。
けれど、クリアには我慢がならなかった。
まだできることがあるのに、ほんのわずかでも可能性がそこに転がっているのに、すべてを諦めて現実を受け入れることは彼女にはできなかった。
クリアという人間は負けず嫌いなのだ。
戦いに敗れ、追い詰められて、王城まで攻め込まれてもなお負けを認められないほどに諦めが悪くて、負けず嫌いで、意地汚かった。
だからこそ、クリアは願う。
最後の最後まであがくために。
可能性にすがるために。
「この国の滅亡の未来をどうか退けられますように!」
そのためなら、何を失ってもいいとクリアは本気で思っていた。
自分の命も財貨も国土も人も何もかも。
けれど、天秤が輝き、すべてが白い光の中に包まれる中、感じた。
すべての因果が消えていくのを。
クリアの願いの代価が何をもたらすことになったかを。
――それは消滅だった。王国のすべての因果の消滅だ。
もはや滅亡の決定した王国の、それでも、滅びを避けたいと願ったクリアの想いは、初めから王国が存在しなかったという因果の消失により、叶えられることとなった。
存在しない王国の未来に、滅びなどありえない。そもそも最初からそんな国はなかったのだから。興っていない国が滅びることはない。
それはただそれだけの話だった。
白い光の中でそんな不条理を感じ取ったクリアは、それでも、満足げな微笑みを浮かべた。
「ああ、それでも、負けるよりはましだ……」
つぶやいた瞬間、気付く。
クリアは決して王国の滅亡を避けたいと願っていたわけではないと。
天秤に願う際、そうした言葉は口にしていた。
意識の上でもそのつもりだったし、そのために自分のすべてをささげてもいいと本気で思っていたはずだった。
けれど、心の奥底では、クリアが願っていたことはたった一つだけだった。
クリア自身が負けたくない。
それはただそれだけのことだったのだと。
「ごめんね……」
こぼれた謝罪の言葉はもはや誰に対して言った言葉なのか、クリア自身にも分からない。
そして、消えた因果の先でなお、クリアの存在だけが消滅を免れる。
まるでそれでもなお生き続けることが、お前の願いの代価だと言わんばかりに。
自らの願いの代償を背負えと運命を突き付けられるかのように。