八重桜の秘め事
「お姉様、私最近思うんですの。人間は、人それぞれ持ち得る愛には上限があるということを」
八重子は、まるで詩を暗唱するようにそう私に告げました。
彼女の前に置かれたティカップは未だふわりと湯気を立てています。
「生まれ持った許容量があって、それが家庭環境や生活環境、その人が生きてきた人生や人間関係によって、どんどん少なくなったり、反対に増えたりするの」
ふふっ、と彼女は恥ずかしそうに––––まるで恋する思春期の少女のようにはにかみ笑います。
口元で指先を合わせ微笑むその様子は、彼女自身の器量の良さも相まってさながら異国の少女を描いた西洋絵画を思わせました。
「ねぇ、お姉様。私は櫻子お姉様のことが大好きですわ。お姉様は、私のこと好いてくださっていますか?」
祈りを捧げるような面持ちで私の答えを待つ八重子に、私は微笑みながら囁きます。
「私も、八重子のことを好いているわ。貴女のことが、まるで本当の妹のように愛おしく思える」
私の答えに安心したのか、彼女は眉を下げ、安堵の表情を浮かべました。
「ああ、よかった……。本当に良かったですわ。お姉様に嫌われてしまったら、八重子は決して生きていかれませんもの……」
「まあ、大げさだわ、八重子ったら」
私がくすりと笑いを漏らしながらそういうと、彼女は驚いたように目を見張り必死に否定の言葉を紡ぐのです。
「嫌ですわ、櫻子お姉様ったら。私は本当にお姉様のことをお慕いしているのですよ?例え世界一の殿方に求婚されようとも、八重子には櫻子お姉様が世界で一番大切な方です」
そう言いながら、彼女は徐ろにテーブルの上の私の手を取り、その華奢な両の手でまるで陶磁器を扱うように握りました。彼女のその慎重な様子は、本当に壊れ物に触れているかのように見えます。
「だから、だからお姉様。私はお姉様に本当に幸せになって欲しいの。あの人がお姉様の生まれた時からの許嫁だということは、百も承知ですわ。でも、もしもお姉様があの方と生涯を共にすることが幸せではないというのなら、私は……」
顔を伏せ表情を硬くする彼女の顔には、つい先程まで浮かべていた無垢な笑顔はなくなっていました。薔薇色に色づいていた柔らかな頰は青ざめ色をなくし、天使の如き愛らしさは影を潜めまるで蝋人形のように虚ろな瞳をしています。
じっと私を見つめる八重子の虚ろな瞳に、私の顔がいっぱいに映り込んでいるのを見て、私は思わず微笑んでしまいました。
「仮令『家』が決めた婚姻だとしても、私は幸せだわ。私は優次郎さんのことを愛しているのだから。愛する殿方と生涯を共にすることができるだなんて、私は幸せものだわ」
「っでも!あの方は、藤堂のご令嬢と恋仲だと噂されてますわ!それに、秋津の奥様ともいい仲だと使用人が笑っていました!何よりお姉様にひと月の間一度もご連絡することすらないだなんて、そんなのあんまりでは––––」
「八重子。いくら貴女でも、私の未来の夫を侮辱することは許せないわ」
「、……。はい、お姉様」
申し訳ありませんでした。消え入りそうな声でそう謝罪をする彼女は俯き、長い睫毛が影を落としました。彼女の瞳に私だけが映るその様子が見られなくなり、少し残念に思いました。
なので、少しだけ私は彼女に悪戯をしようと思います。
「……ねぇ、八重子。貴女先程、人には愛の上限があると話していたわね?」
「……はい」
「その話しに擬えると、私の愛の上限はどうやら貴女までみたいね」
「––––え?」
私の言葉が意外だったのか、彼女はぽかんとした表情をして顔をあげました。その瞳は潤み、常よりもより艶やかに煌めいていることに、どこか安堵を覚えたのは、おそらく気のせいではないのでしょう。
「私は家族が大切よ。それはきっと、多くの人がそうでしょう。それから、優次郎さん。そして、八重子。私が愛せるのは、きっと貴女までなのね」
それではダメかしら?
小首を傾げ、眉を下げて困り顔で問いかけると、彼女は即座に私の言葉を否定しました。
「いいえ、いいえ、いいえ……!そんな、ダメだなんてこと…!」
「私は、貴女のことも優次郎さんのことも同じくらいに愛しているわ。だから、愛しい二人には出来れば仲良くして欲しいの。ほんの少しだけでいいから。ね?」
「お姉様がそう仰るのならば、八重子はお姉様の望み通りにいたしますわ。お姉様の望みが、八重子の望みです」
涙を浮かべながら微笑む八重子の、なんと美しいこと。思わず感嘆のため息が漏れそうになるのを必死にこらえました。
「嫌だわ、私ったら。涙なんて……お姉様の前ではしたない……」
「いいのよ、気にしないで。……ところで、八重子」
「なんですの、お姉様?」
にこりと笑う八重子。愛しい愛しい、私だけの八重子。
「私は貴女に、このひと月一度も優次郎さんから連絡がないことを話した覚えはないのだけれども、どうして貴女がそのことを知っているのかしら?」
教えてくださる?
私の笑顔は、一体彼女にはどう見えていたのでしょうか?