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痩せの大食い  作者: 卓上調味料愛好会会長
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第一話

汗で前が見えない。それどころか手元すら覚束ない。それでも右手に掴んだ箸を動かし、無心で口へと運ぶ。もうすでに胃の容量を超えた量を詰めこんでいる。体はとっくに全てを吐き出そうと逆蠕動を開始している。自分の生きる証でもあるこのタイトルだけは絶対に手放せない。無敗の(過食エンペラー)でなくなった時、おそらくこれまでの人生で感じた全ての不安や後悔を肯定してしまうことになるだろう。もともと大食いだったが、なんの気なしに始めた過食。テクニックと呼ばれる悪魔の手法に騙され、いや、もちろん誰に強制されたわけでもない。なぜか手を染めずにはいられなかったのだ。学もなく、コネもない自分が唯一輝ける場所を守るために、文字通り全てを犠牲にしてきたのだ。そう、寿命も含めて全てだ。おそらくこの決勝に残った他の二人も同じだろう。人生に希望などなく、恍惚と絶望を日々繰りかえすことで得られる異常性に、生きる価値を見出し縋り付いているのだろう。圧が高まり過ぎた風船のように、入ってきた入り口、つまり口に向かい中途半端な大きさで嚥下した咀嚼物が上がってくる。吐けばそこで終了だ。勝ったところで捨ててしまった人生を取り返せるわけでもないが、負けてしまうのも悔しい。根性で喉を締め、逆蠕動が収まるのを待ってもいいが、開発したばかりの新技を披露してもいいだろう。喉を締めたまま口の中にさらに食べ物を押し込む。汗と涙に阻まれる形で目をきつく閉じているが、今は都合がいい。カメラの位置など気にしていられないのだ。頬がはちきれんばかりに固形物で口の中が溢れかえる。唇を閉じ、上下の歯を噛み締めれば喉だけで抑えるより嘔吐抑止につながるのだ。中学か高校で、出口が細いほうが圧力が高まると習った気がする。喉は細く、その先にある胃よりも口のほうが狭い、だからこそうまく胃へ押し戻そうと機能してくれるのだろう。名付けて(リバースストッパー)だ。この技を開眼してからというもの、普段の過食動画が撮りやすくなったものだ。容量の限界を超えたり、ペース配分を間違えたときでも、口の中の食べ物が胸から吐き出でようと上がってくるものをかってに押さえつけてくれる。もちろん口の中に入れるものの種類と粘度によっては唇から溢れでたり、鼻から漏れてることもあるし、眼球を裏から押し出し目頭から染み出すこともある。経験がものを言う技だ。どうせこの収録が放送されればネット上に数多いる自称評論家どもめらが分析し、他の競技者にも広まるだろう。まともに呼吸すらできない程の吐き気と戦っていると、司会者の無責任で甲高い声が響き渡る。

「おおーっと、エンペラーの口が止まっている! やはり連戦に次ぐ連戦、そして南国の灼熱の暑さに疲れが出たのか!? ここで、この灼熱の亜熱帯で、エンペラーの無敗伝説が途絶えてしまうのだろうか!?」

 息を吸い込むために気道を開くと、弾みで食道から鼻へと吐瀉物が溢れ出てくるだろう。それでもデビュー以来圧倒的な強さを見せてきた無敗の王者として、情けない姿をテレビに晒すわけにはいかない。逆蠕動が収まるまであと十秒ほどだ。手が動かず、口も動かせないのなら、意志の力で戦う。他の職業と違い、余命を削ることで絶対王者となり、君臨できているのだ。今更この肩書を失うことはできない。生涯現役であり続け、いつの日か華やかな舞台で死ぬことになるのは覚悟の上だ。絶対王者として負けることなく死を持って勝負無し。先がなくなってしまった人生でも、勝負で死亡したなら世間から称賛されるだろう。その日がいつ来るのかは知らない。しかしそれでも生ある限り、自分と戦い続けるのだ。自分との戦いに勝ちさえすれば周りの競技者など歯牙にもかからないのだから。呼吸を我慢し、全身を硬直させて吐き気に抗いながらも目を見開く。前年度王者の席は真ん中だ。両脇には今年度の準優勝者争いを頑張る気持ちの悪い過食嘔吐者が二人、必死に目の前の食物を頬張っている。視線を右、左と移し二位争いの皿数をざっと確認する。やはり箸にも棒にもかからない。決勝前に雑談していたところ、一人は便秘薬を持ち込もうとしたが税関で処分され、もう一人の方は昨晩日系のコンビニへ繰り出したものの女性用生理用品を見つけることができなかったと言っていた。番組スタッフから渡される吸収パンツ、簡単に言い換えればオシメのことだが、これ一つで戦おうなど片腹痛い。過食の大会では尿意なり便意を催したところで、離席すれば失格となる。しかし生理現象を止めることはできないうえに、失格者が何人も出てしまえば番組として数字が取れない。そのため過食選手にオシメの着用が義務付けられているのは、すでに社会通念上広く認知されている。しかし、このレギュレーションは大きなアドバンテージにもなるのだ。試合開始時点で腹の中に余計なものが残っているのは当然のこと。空っぽにするのは不可能だ。ならば時間を計算し、経験に裏付けられた信用するに足る確実性をもって望むのが当然なのだ。試合開始前一時間の時点で便秘薬と利尿剤を合わせて六百グラムほど飲み込む。試合開始十五分前に溶け切らず、未だ吐ける状態の薬物を全て吐出し、薬効成分に期待する。その時々のコンディションによって多少効き目にばらつきがあるものの、このルーティンにより佳境を向かえる試合開始後三十分頃にはオシメの中はパンパンに膨れ上がることになる。もちろんオシメの内側全周に女性用生理用品を八枚ほどズラして貼ることも忘れてはいけない。さらに重要なのは嘔吐用に面取りまでしているチューブを肛門に差し込んでおくことだ。出口が塞がっていなければ、どのような体勢であろうと自然と出てくるのものだ。優勝インタビュー時に横から漏れた汚物が足を濡らしていなければそれでいい。汚点となるのは漏れによる濡れ。今回は少し大きめのストレートジーンズを穿いてきたのでワタリ部分に女性用生理用品を横向きに二枚仕込み、さらに膝下部分には縦にぐるりとハイソックスのように並べている。漏れ出たとしても靴を濡らすことなくどこかで吸い取ってくれることだろう。

 準備にぬかりはない。後は腹に押し込むだけだ。すでに逆蠕動の波は治まり、腹筋の不随運動も落ち着いている。リバースストッパーとして口腔に溜め込んでいた数十分後の嘔吐の素を飲み下す。左右で準優勝の座を競り合う弱輩に再び目線を巡らせる。優勢な方でも自分と皿数にして五枚ほど差があるように見える。後半戦で抜かれることはありえない差だ。しかしペースを落としてリード分だけを確保しながら詰め込む勝ち方は絵的に面白みがない。やはり無敗の王者、過食エンペラーとしては最後まで咀嚼し、嚥下し、圧倒的かつ絶対的な強者と存在を見せつけてやる義務がある。司会者に目配せを送り、皿と箸を掴み直すと猛然と口に掻き込んだ。

「おわー、もう駄目かと思われたエンペラーがさらにスピードを上げた! 一体この華奢な体のどこにこれだけの量が入っているのか! エンペラーは現在十六皿目、これまでに食べた量は、なんと六キロを超えています! 八年間! エンペラーピンチェ竹山が初めて優勝した大会からすでに八年も経っています! 無敗の過食エンペラーとして九年目も当然のように優勝するのか、それとも下剋上があるのでしょうか!?」

 甲高い中年男性の声が響く。司会業一本で食っているだけあり、よく通る声だ。基本的に選手の後ろを行ったり来たりしているため、競技中はあまり目に入らないのが幸いだ。視神経を刺激されると、脳内で満腹中枢をコントロールしている部位が計算を狂わせるように感じることもある。気配は真後ろから右へ向かっていったようだ。右側に座るのは準優勝争いを繰り広げている一人、ゴルダ林。摂食障害者の大多数がそうであるように、ゴルダも女性だ。彼女の前歯は嘔吐のしすぎにより胃酸で溶け切っており、表面に人の歯に見える白いセラミックを被せている。遠くから見ている分には違和感がない程度に誤魔化せているのだろうが、近い距離で横並びに座っていると、ふとした時に彼女の前歯の裏が見えてしまうこともある。正直に言って目が涜される思いだ。裏から見た彼女の歯は、白いマントを羽織った黒い悪魔のよう。前歯の裏側は腐食しどす黒く光を吸い込む。そして下半分は白かったのであろうセラミックの裏が見えるのだ。自前の歯は溶けて半分以下の長さしか残っておらず、ほぼセラミック部分だけで噛んでいるのだろう。表は白いセラミックでも、裏側に見えるセラミックは長期間屎尿を浴び続けたまま掃除されていない便器のような色をしている。日常的に過食嘔吐を繰り返しているのだと思わせる発達した顎の唾液腺。髪の毛で顔の輪郭をごまかそうとしているが、直角に見えるほどエラが張っている。そして手首から肘にかけては無数の切り傷がある。加えて、おそらく人以外の動物でも不快に感じるであろう特有の臭い。こんな人として再生産性を欠片も持たない人間でも、テレビの魔力にかかれば美しさを併せ持つ妖艶な女王様だ。

 左に座るのはモヒカン頭にしているくせに今ひとつ冴えない容貌の男だ。年齢は二十代前半にもかかわらず、至近距離では皺が刻まれたるんだ皮膚のせいで中年に見え、遠目やテレビ越しには体の小ささも相まってまるで小学生のような印象を与える男、その名はペンデホ杉山。この男とだけは話が合わない。そもそも会話にならないのだ。虚弱なのか若い頃から栄養を摂取したはしからすべて嘔吐してきたのか、脳が、そして知能が成長していないように感じさせられる話し方をする男だ。内容は理解しきれていなさそうだが、日本語の聞き取りはこなせている。しかし読み書きは全くといっていいほどできない。それでもテレビという虚構のフィルターを通すことで、低知能の印象を消し去り単に掴み所がない不思議な男としてキャラクターが確立されている。所詮は自力で戦いに必要な道具を揃えることすらできない程度の男だ。まったくもって怖さを覚えない。食べる量もそれなり程度ながら、そのうち漏らして終わるだろう。もちろん綺麗な服に着替えてから席に戻り、形だけ医師の診断を受けドクターストップとして取り直すのだろうが、それぐらいには付き合ってやるつもりだ。

 竹山が再度食べだそうとするのと同時に右の席で立ち上がる音がした。いつもどおりのババアのパフォーマンスだ。もう腹に入らないのに立ち上がり、その場で軽く跳躍し、残り時間が余りすぎている場合は左右に走り出す。これ以上食べられないならリタイアすればいいのに、時間いっぱいパフォーマンスにあてる。意味がわからないし、ババアが動くことで風が流れ、非常に不愉快な臭いが辺りに撒き散らされるのでできるなら止めてほしいものだ。不屈の女王という肩書がなくなってしまえばただの精神に支障をきたすご年配の女性として扱われてしまい、生活できなくなるのかもしれないということぐらいは竹山にも想像がつく。竹山の人生に影響が無いとはいえ、動き回るな、リタイアしろとは言いにくい。遅かれ早かれ積極的手法にて自死を選ぶのは間違いないだろうが、そのきっかけを与えてしまうのは寝覚めが悪くなりそうだ。ババアの体臭と、それを誤魔化すための香水、そしていかに技術の進歩があるとはいえパンパンに膨れているのだろうオシメから漏れる排泄物の臭いを無理やり意識の隅に押しやる。面倒だが、仕方がない。手を止めたエンペラーが再始動する瞬間をカメラが捉え、編集しやすいように動いてあげるのも絶対王者の務めだ。テレビのことはダイレクターや制作部長から、よく言い聞かされている。一つの村社会を形成した世界でもあり、村長の言うことを聞かない者は、もともと存在していないものとして扱われてしまうことぐらい、出戻り移民である竹山にも理解できる。

 大げさに両手を上げて伸びをすることで注目を集める。不自然なカメラ目線にならないようにカメラは見ずに、海外旅行気分で同行している制作部長に目配せを送る。ここから試合時間終了まで食べ続けるからカメラを回してくださいの合図である。パラソルの下で朝から現地のビールを飲み続けている部長だが、さすがにするべきことは理解しており、ウエイター同然に身の回りの世話をしている同行アシスタントに指示を出している。打ち合わせどおり、ここからはモヒカンとババアを竹山の引き立て役とした画で撮ってくれるだろう。

 眼の前の半円形の器に目をやり、置いた箸はそのままにして大きめのスプーンを掴む。箸でお上品に食べるのもいいが、やはりスプーンが最適だ。今回の決勝戦、つまり過食エンペラーピンチェ竹山の九度目の優勝確認会の食事はタルタルステーキだ。日本はおろかアジア圏ではほとんど提供されることがない細切れにされた生肉に香味野菜を混ぜたもの。なぜこんなものが決勝の舞台である東南アジアで食材として選ばれたのかはわからないが、どうにも過食するのをためらってしまう食材だ。カメラに映らない位置に置かれた、ゴミ箱にしか見えない青いポリタンクに生肉ミンチが詰め込まれている。ポリタンクの上には黒い煙と見紛うばかりにハエがたかっている。肩に国旗ワッペンを貼り付けたお揃いのコックスーツを着た現地レストランの自称シェフ達が無造作にポリタンクに手を突っ込んでは肉を手掴みで取り出している。取り出しては型に押し込み重さを測り、半円状の器に押し出し盛り付ける。東南アジアテイストを押し出すために加えられた無駄に多すぎるパクチーが余計な仕事をし、まるで噛んでも無くならない木の枝を齧っているような食感に仕上がっている。自称シェフ達の白いコックスーツの前腕部分は肉の血と脂でどす黒く染まっている。不衛生極まりないように見えるが、実際食中毒引き起こすレベルに不衛生だろう。しかし自分たちは消化して己の血肉へと変換するために腹に詰め込んでいるわけではない。試合終了とともにすぐに吐き出すのだ。体が拒否反応を示せば吐きやすく、そして液状の下痢になれば踏ん張る必要もなく却ってありがたいほどだ。

 出戻り移民の竹山にとって左手で器を掴む習性はない。もちろん椀を掴むのが正しい食し方だとの知識はある。ただ、大会に参加した初年度、予選から決勝まで予期せぬ圧勝で上り詰めた際みょうに司会の小男が食いつき、犬食いを必殺技として大々的にアナウンスしてくれたのだ。おかげで竹山は後ろ指を指されることなく椀に顔を突っ込み、犬のように掻き込むことができるようになった。ありがたいことこの上ない。もちろんインターネット上のフォーラムでは批判が多いがそんなものは気にしない。漢字のほとんどを読むことができない竹山の心に響くようなメッセージは世の中に存在しないのだ。そんなことを頭の片隅で考えながら右手のスプーンと鼻の真ん中から顎までを器に突っ込み、目線はカメラに向ける。小刻みにスプーンを動かしパクチーまみれの生肉を口に詰め込む。一皿あたりの重量は僅か四百グラム。噛むことを考慮しなければ口の中に詰め込める程度の量だ。これまでの大会でも、生活の糧に撮影し続けている過食動画でも、生肉の過食は経験したことがない。そのため生肉は噛み潰したほうがいいのか、それとも噛まずに胃へ落とし込んでも入る量が同じなのかはよくわからない。それでも口に入ってくるものをどんどんと噛み、磨り潰していく。実際のところは長年のチューイングにより摩耗しつくされた歯による磨り潰しなので、ほとんど原型を保っているのだろうが、それでも吐くときにすこしはましになる。

 一時間の決勝戦、残り時間は十五分。竹山の座るテーブルには、すでに十八皿も空になった器が重なっている。一皿に僅か四百グラムしか盛られていない、つまり単純な掛け算で出てくる数字で見れば七キログラムも腹に収めたことになる。健常者には到底食べられる量ではないが、竹山やその両脇で準優勝者争いをしている健常にあらざる人間にとっては大した重さではない。しかしながら先程限界を迎え、嘔吐しかけてしまったのが不思議でならない。ひょっとすると食材が傷んでおり、体が拒絶しているのかもしれない。竹山たちこちら側の世界の住人にとって、過食と嘔吐は単なる刺激と反射に過ぎない。寝転んで読書していると眠くなる、カーテンを締め忘れた窓から光が入ると目が覚めてしまう、その程度の認識に過ぎない。何らかの事象が起こった際に、その場で理解できるほど頭の竹山の回転はよろしくない。食べながらつい今しがたリバーススットプまで駆使するはめになった状況を思い返す。六キロ強を腹に収めただけのはずで、竹山の腹は最大十一キログラムまで入るキャパシティがあるのにもかかわらず限界に近づいていた。暗算ができない竹山に四百グラム掛ける十八皿が本当に七キログラムなのかどうか、あとで携帯の電卓機能を使って確認するまでわからない。後ろで響く司会の小男の言葉を鵜呑みにするしかない状況がもどかしく、少し腹が立ってくる。騙されているのかもしれないのだ。竹山の皿だけ四百グラム以上盛られているのかもしれないし、過去の放送で言っていた竹山のキャパシティ上限が十一キロだと言うのも嘘かもしれないし、さらには今食べている量を電卓でちゃんと計算すれば七キロ強ではなく本当は八キロか九キロに到っているのかもしれないのだ。

 いずれにせよ生肉は口から腹へとスムーズに入り直している。下腹が傍から見てもわかるであろう程に蠢いている。試合前に仕込んできた下剤各種が上手く効いているようだ。おそらくジーンズの内側は竹山たちのように慣れ親しんだ人間以外は目を背けてしまうような有様になっていることだろう。優勝旗をもらったあとで、制作部長に擦り付けるように抱きついてやれば少しは気が晴れそうだ。

 左側から視線を感じ、目線だけをそちらにくれてやると、相も変わらぬ経済的に恵まれない家庭で育ったと丸わかりなアホ面が、下卑た笑いを含んだ顔で竹山を見ている。まるで口の中の吐瀉物の素を見せつけるかのように顔そのものを竹山へ向けて口を開けて咀嚼している。どうせこのシーンも編集で格好良く処理してくれるのだろう。ならばそれに乗っかるように竹山もカメラを意識して、ペンデホの両眼を睨めつける。制作部長の性格からして、かかってこい、受けて立ってやるなどとかっこいい文字を起こしてくれるはずだ。

 口に嘔吐物の素を詰め込み、まともに咀嚼することなく喉へと送り込んでいく。だんだんと視野が狭まり、視力そのものが消失するようになる。竹山は、ようやくスイッチが入ったと自覚する。限界が近づき、それえも食べ続けていると時折起こる現象だ。この状態に入った時の浮遊感は凄まじいものがある。腹全体が物理的に内側から破裂しようと高まる圧力による痛み、膨らみすぎた胃が他の臓器を圧迫することで押しつぶされた臓器からの不快感、ほとんど膨らむ余地が無いほど押しのけられた肺と心臓の不自由な拘束感。これら不快感が消え去り、ただただ目の前にあるカロリーを体内に取り込むべく脳と手が全自動で動き、竹山の意思と意識が体から離れていく。

 体が勝手に嘔吐の素をどんどん取り込んでいく様子を、体から抜け出し上空を漂う意識が決勝の舞台を俯瞰する。何か違和感が残る。ぼんやりと左右を見回すと、ペンデホはニタニタと笑いながら、それに合わせて生肉から滴るどす黒い血が混じる粘土の高そうな唾液を溢している。ゴルダの方は、いつの間にかわけのわからない臭いだけを撒き散らす迷惑なパフォーマンスを終え、席に着き、またも食べ始めている。俯瞰しているかのような意識では、物理的に皿の中を覗き込むことはできないため、サーブされる肉量に違いがあるのかどうかまでは見ることができない。しかしそんな瑣末事を気にしても意味がない。ゴルダもペンデホも、どちらも胃の最大詰込量が七キロちょっとしかないのだ。テレビの表現では八キロ以上食べられるかのように煽っているが、現実はテレビのはるか下のレベルだ。どれだけ一皿の中身を誤魔化し少なくしてあったとしても、この二人に竹山が負けることはありえない。体が全自動で動きながらお替りを頼み、新たな皿に取りかかっている。それでも何とも表現できかねる拭い去れない違和感が存在感を顕にしている。もとよりボヤけた視界がさらに滲むが、俯瞰している意識領域を拡大する。

 視界内に司会の小男が見えず、声も聞こえていないことに気付く。意識だけで司会者を探すと、ちょうど竹山の正面、メインカメラの脇に座る制作部長と何やら話し込んでいる。竹山の体は意識と切り離された状態で汚らしく生肉を口に詰め込み続けているのだが、眼球に映る情報は意識にも反映されるため見るともなく、見えてしまう。不思議なものだと、体と切り離された意識だけが一人笑う。勝負の途中で司会者に指示が入る、これは別に珍しいものでなんでもない。竹山たちの後ろには大型の時計がセットされているが、基本的に食べている最中の過食選手と時計が一つの画面に収まることはない。編集という名の加工が入るからである。どれだけ過食の容量を持つ選手が登場しても、どこかの事務所に所属しているいわば業界側に属する人間などは、編集で消されることもままあるものだ。それにしても、と、竹山のまどろんでいるかのような体から切り離された意識が考える。決勝で、しかも残り十五分というタイミングで司会者が指示を受けているところは見たことがないように思われる。意識が突如焦燥に駆られる。この時点でどういった指示、わかりやすく言うと映像を加工するための作為が求められるのだろうか。認めたくないが、竹山にとって良くないことが起こりそうだと直感的に感じてしまった。育ちの環境による影響で、言葉よりも気持ちを読み取る能力に秀でてしまった竹山の悪い点だ。気にしなくてもいいはずのものまでネガティブにとらえてしまうのだ。




 竹山が産まれたのは南米大陸に位置するパラグアイ共和国。パラグアイ共和国の国旗は、フランス共和国のそれを横向きにし、真ん中に丸があるデザインだ。そのため中南米諸国の括り内において、貧弱な弱小国であることも由縁し、「寝転んで股を開いたフランス女の国」と、称し蔑視されがちな国である。母方の血筋は山形県から来ており、竹山の祖父母の両方、もしくはどちらかが山形出身の日本人一世として移民船で渡ってきたそうだ。そして父親は沖縄に系譜を持つ在アルゼンチン日系三世。幼少期に父親と過ごした記憶をほとんど持たない竹山なので、今となっては父親の出自を調べる術はない。生まれ育った集落で、兄弟や同年代の親戚たちと緑が生い茂る草地を走り回り、どす黒い色の川で魚を捕って遊んでいた微かな記憶がある。だが、竹山が第二次性徴を迎え始めた頃、両親に一人連れられ、三人で長い旅に出たことで、楽しかった少年期の記憶が途切れる。両親と、おそらく五日ほど歩き続け、山を越え、谷を下り、川を渡り、そして窓枠に窓ガラスが嵌め込まれていないバスに何日か乗り続けた。バスに乗った場所も降りた場所も思い出せないが、パラグアイにある親類縁者だけの集落から、ブラジルへと知らぬ間に旅行していたのだ。後々の経験が記憶を整合しているところが多分にあるのだろうが、周りの人間が話す言葉が理解できなかったために違う国へ来たのだと幼いながらに理解したようだ。ブラジルに入り、落ち着いてから認識したことは、集落では日本語とスペイン語が入り混じる独特の言葉を用い、大人たちが読んだり書いたりしていたのはスペイン語だったこと。ブラジルではポルトガル語が使われており、言葉が通じなかったのだ。もちろんスペイン語とポルトガル語など所詮はラテン語族にまとめられる程度の差異しか無いため、生活に不自由することはなかった。ブラジル人の話す言葉をほとんど理解できなくとも、竹山の話す言葉はある程度聞き取ってもらえたのだ。

 長い旅のあと、父親はまためったに姿を見せなくなっていた。どうやって生活費を捻出していたのか、未だに竹山に想像することすらかなわないものの、決して裕福ではないが、かといって困窮するような生活でもなかった。パラグアイでの生活、そしてブラジルで過ごした数年間、一度も学校に通ったことがない竹山の知的レベルは相当に低かったのだが、こちらも困ることにはならなかった。なぜなら母親と暮らしていた場所はサンパウロ市内で、日本人街であるリベルダージまでほど近いところにあったからだ。現代のリベルダージが、当時と同じ状態かはわからないものの、基本的にアジア系の顔付きの子供が、ブラジル人の子供のように上半身裸で薄汚れた状態で歩いていると食べ物や、時には現金といった施しが当たり前のように貰えたものだ。雨をしのぐ家があり、母親と暮らし、時折父親も顔を見せ、外に出ればそれなりの物資がタダで手に入った。学校など行かなくとも何も不自由することがない生活であった。

そう、あまりに頻繁に徘徊している孤児然とした竹山が、リベルダージ日本人会に保護されてしまうまでは。

 ある日、竹山は家で遅い朝食を済ませたあと、特にすることもないので野良犬のように楽しいことを探しに街に出た。行くあてもなくいつもどおりリベルダージに入り込み、今日はどこの誰が何を恵んでくれるのだろうかとプラついていると、スラックスにカッターシャツを着た日本人の集団に囚えられてしまった。幸か不幸か警官や入国管理官の世話になった経験がない竹山は、警戒することもなく、男たちについて行ってしまったのだ。それから後の半年間は在ブラジル日本商工会議所会員に名を連ねる日系のホテルにて軟禁状態となった。ホテルそのものはリベルダージに位置し、ホテルから逃げ出さなければ好きに行動していいと言われていたので毎日外から見えるロビーのソファに座って過ごした。どうやらその頃すでに竹山は日本人街でそれなに有名な存在になっていたらしく、毎日近所の日系一世や二世といったおばあちゃん世代の人たちがお菓子や玩具を持って遊びに来てくれたので、退屈に沈むことはなかった。残念ながら竹山は低いレベルでの日本語しか話せず、ポルトガル語などもってのほかであったために、近所のおばあちゃん連中と万全な意思の疎通はできていなかった。故郷の集落でも大人たちは基本的にスペイン語を用いており、子供を叱ったり、大人同士で怒鳴り合ったりする時ぐらいしか日本語を口にしなかったのだ。そのため言葉の勢いと強さで、おおよその見当はつくものの、はっきりとした言葉の意味などは知らずに育った。そもそも学校に行ったことがない竹山はまともなスペイン語すら話すことはできず、集落内で独自に発展した日本人が聞きかじって覚えたピジン言語化したスペイン語を母語として生活していた。ホテルでの被軟禁中、親切なおばあちゃん連中が平仮名の読み書きや、日本語会話を教えてくれたが、わずか半年間に過ぎず、役立たなかったとまでは言わないものの、五十音すべて書けるところまでは習得できなかった。

 真夏の暑い日から始まった軟禁生活だが、いつしかホテルの正面扉が開閉するたびに吹き込む風が冷たくなってきた頃、濃い色の制服に身を包んだ汚らしいまでにどす黒い皮膚の大男たちが竹山を迎えに来た。毎日入れ替わり立ち替わりで遊びに来てくれていたおばあちゃん連中も集まってきて、スーツを着たアジア人と話し込みながら、皆涙を浮かべていた。遠巻きに竹山へ向けて、元気でね、またいつか遊びにおいで、などと声をかけてくれていたが、竹山は制服を着た男たちに両脇を抱えられ、後ろを振り返ることすら適わない状態で待機していた車へ押し込まれてしまった。隣のシートには、先程までおばあちゃん連中と話していたスーツの男が座り、日本語で状況説明をしてくれた。当時の竹山の日本語能力では質問することができなかった。そのため男の話に頷くだけで一方的に話を受け入れるしかなかった。常に気にはしていたが、ホテル軟禁中、母親と合うことも連絡を取ることも、それどころか安否を知ることすらかなわず終わった。

 男の説明によると、リベルダージ日本人会の多大な協力により竹山の親族が見つかり、竹山を子供として迎え受け入れてくれる家族が日本にいる。父親のことは不明だが、母親の方は祖父母まで遡り日本国籍の放棄をしていないことが確認できたので、竹山に日本上陸許可証を発券することができた。このまま飛行機に乗り日本へ飛び、その後日本海側にあるN県で竹山を待つ親族の下へ連れて行くとのこと。こういった内容を竹山は聞かされ理解した。聞き取りはそれなりにできるようになっていたが、絶対的な語彙力の不足により質問することができなかったのが、今現在でも時折夢に見るほど悔やまれる出来事であった。

 そのまま空港へ向かったのか、それとも何日かどこかに留め置かれたのかは覚えていない。初めて間近で見る飛行機、そしてそれに乗り込み空を飛ぶ。雲の上から街を見下ろし、人の矮小さ、海の広さに圧倒された。リベルダージを離れてからの記憶は、飛行機のことで占められている。体感的に一時間ほどに感じられるほどあっという間に空間を飛んだあと、綺麗な集団控室に通され、そこで見た様々な色の皮膚、形容し難い服装、そして鼻と眼球に染み込むような臭いに圧倒された。数時間の後、またもや飛行機に乗り込み始めのうちは街の上を飛び興奮していたがいつの間にか何時間も海と雲しか見えなくなり、次第に飽きて眠りに落ちていた。目が覚めて程なく飛行機から降ろされ、機内では見かけなかったが二階席に控えていたスーツの男に連行される形で、気がつけば母親の伯母が暮らすN県の漁師町に到着していた。

 冬のブラジル、同時期に日本は真夏。うだるような湿気が混じる暑さの中、特に何もせず大伯母の家で数週間過ごした後、地元の公立中学校に転入生として通い出すことになった。小学校にすら行ったことがないため竹山自身わかっていなかったが、年齢からみて中学三年生として初めて教育機関に通うことになったようだ。夏休み明けの二学期、中学最終年度、著しく欠けている日本語能力、これらの要素が絡み合ったことで、中学校生活において問題が起こることはなかった。教諭陣も同級生も、数ヶ月で迎える高校受験や就職活動に忙しく、竹山と積極的に関わり合おうとするものがいなかったからである。中には竹山が帰国子女と言う噂を聞きつけ、英語を教えて貰おうと近づく者も少なからずいたが、英語など全く解せずそもそも日本語すら幼稚園児レベルの拙さでしか理解していないことが知れ渡ると誰も近寄らなくなった。竹山はそのまま誰と会話するでもなく中学校を卒業した。生まれて初めての学生生活はわずか半年で終りを迎え、後年思い出しても特に感慨にひたる要素は一つも残らなかった。

 中学校を卒業してしまったものの、まだまだ独力で生きていくことはできないと判断した大伯母が高校受験を勧めてきた。大叔母の家から自転車通学できる距離にある工業高校だ。学力は県内でも最低と呼ばれる、近所迷惑な学校だ。竹山も何度かそこの生徒に道で小突かれたりしたこともありあまり乗り気ではなかったが、合否は学校に委ねるとして、大叔母の顔を立てるために試験を受けるだけ受けてみることにした。もっとも、短期間に終わった中学校生活だったが、試験がどういったものかは理解できていた。しかしいかんせん、問題が読めない、読めたとしても理解できない、仮に理解できたとしても書くことができないため解答することができない。そのため入学試験に受かるはずはないと思っていた。あくまでも願書を代筆してくれた大伯母の顔を立てるためだけに、タバコの臭いが染み付き、黒く見えるほど黄ばんだ校舎へ向かい入学試験に臨んだ。竹山に書くことができる文字は殆ど存在しない。それでも送付されてきた受験票に記載されている情報、つまり受験番号と漢字表記されている竹山の姓名、この二つだけを全ての答案用紙に拙い字で書き写した。驚いたことにそれだけで合格してしまった。一切なにも解答しない完全な白紙答案で受かるなど、竹山にとっても慮外なことであった。

 しかし、いずれにせよ合格したと通知が送付されてきた以上、辞退する理由もない。大伯母は比較的裕福な暮らしをしており、竹山の生活を賄い、学費を払うぐらいなんのことはなかったのだ。当時の竹山の理解力では把握しきれていなかったが、大伯母の旦那さん、つまり竹山にとっての大伯父は戦争で帰らぬ人となり、それにより結構な金額の軍人恩給を受給していたのだ。日本の文化風習、風俗にしきたりといったものを学んだあとではさらに疑問が膨らむこととなったが仕方がない。子供を残す前に戦地で散華したとされる大伯父以外には目もくれず、一人で生きてきた大伯母も亡くなってしまった今となっては誰に聞くこともできない。異常なまでの軍人恩給額は様々な特殊任務による加算手当が含まれていたからだと気づいた時には、なにか後ろ暗い影を感じたほどであった。

 晴れて高校生となった竹山は、そこで社会常識全般を学ぶこととなった。質の低い工業高校で、勉学に励もうとする生徒は極僅かしかおらず、その他大多数は驚くことに竹山より少しは日本語の読み書きが上手い程度の知能しか有していなかったのである。粗であり野であり卑でもある思春期真っただ中の低知能集団。竹山にとってちょうどいい遊び相手で溢れていた。竹山に学問の才があったのかどうか、神のみぞ知ることができるだろう。幼少期より一度も学を得たことがないため、それを伸ばすことは不可能だった。無いものを育て、伸ばすことはできないのだ。大人になってから絶対音感や相対音感を習得しようと頑張ったところで不可能なように、幼いころに刺激し、種を発芽しなかった人の脳は育つ余地を残したまま花が咲くことなく終わってしまう。それでも真に理解することはできなくとも、学習して覚えることは可能だった。言葉を覚え、社会のルールを覚え、あまり賢くない学校で、あまり賢くない学生生活を楽しく送られるようになるまでそう時間はかからなかった。周りが皆忙しかった中学時代とは違い、推薦枠による大学進学を目論む少数の生徒以外、誰もが中卒で仕事をするのが嫌だという理由で遊びに来ていたような環境だったのだ。男子校ではないが、臭く汚らしい学校に入学する女子はおらず、それにより異性の目を気にして虚勢を張りあうこともなく、それどころか逆に言葉や文化の違いで困っている竹山を積極的に助けてくれる生徒が多かったほどだ。

 高校生活は楽しいものだった。中学三年生の夏休み明けに経験した受験に対する緊張感もなければ、異性を気にしてのマウント行為も何もかもが無く、日本に来てからはほとんど見かけないが、皆一様に野良犬のような生活を送っていた。定期的にどこかで食事にありつき、眠くなればどこででも寝る。もちろん家というちゃんとした塒もある。犬のように常に何か楽しいことがないかを探すことに明け暮れ、将来を見据えた生産性を有する活動など一切行わない。あえて言うなら集落内、そして町に出て女性を強姦することが唯一の文字通り生産性を有する行動だろう。次第に竹山も遊び仲間に加わり、友達ができ、集団の中に居場所が存在するようになっていった。言葉の壁をほとんど感じさせられることなく馴染めたのは幸いであった。なにせ誰もかれもが近くに存在する大人、つまり親や親類から聞かされている酒、煙草、賭け事、そして都市部にある性風俗に関すること以外にまともな知識は有していなかったのだが、これらの低俗な会話の内容も何の知識も持っていない竹山には全てが刺激的で蠱惑的なものであった。

 そして竹山が過食、もっともその当時はただの大食らいであったが、沢山食べることに目覚めたのも高校時代であった。


「なあ竹、今日は駅前商店街で大食いイベントやるんだってよ。なんと賞金付きだってさ。俺のケツに乗せてやるから行こうぜ、賞金は半分こな」

 竹山は自覚していなかったが、野菜と魚ばかりを食べて育った同級生たちと比べるとはるかに大食いだった。それもそのはず、竹山が生まれ育ったパラグアイでも、最後に留め置かれていたブラジルでも、“太陽の恵みある限り草は食べない”とされている。そのため野菜など付け合わせの豆や甘味としての糖黍を齧る程度で、その他は基本的に肉類のみを食べ続けていた。哺乳類でも爬虫類でも両生類でも魚類でも、なんでも焼いてしまえばそれがご飯だったのだ。米食でも胃袋の容量は膨らむのだろうが、肉をかみ続けて育った竹山の口蓋力にかなうものは町内にいなかった。よく噛める、それは食べ物の容積を誰よりも小さく圧縮できることと同義である。学生生活、誰も何もすることがない環境、互いに監視しあう地域性も加わり、竹山の食べ方がスムースかつどんな量であっても早く食べ終わるということがすぐに広まった。はじめのうちはクラス内で早食い競争、そのうちクラス内みんなが何かを持ち寄っての大食い競争。いつしか学校外のチャレンジメニューに挑戦するようになっていったのだ

「別にいいよ、参加費は森本がだす? 俺金持ってないよ」

 竹山を誘う森本は、粘つく笑みを浮かべながら黙って頷く。駅前商店街まで直線距離で三十キロメートル強ほど離れている。田舎の学生にとっては自転車で移動する距離だが、森本は潮風にやられて錆びついた廃車同然の原付に乗っている。都会では原付二人乗りは禁止されているそうだが田舎であるN県にそんな規則は存在しない。竹山も大食いが面倒なわけでもない、それどころか腹いっぱい食べていい、しかも食べれば食べるほど称賛され、しかも場合によっては賞金までもらえるイベントは大好きだ。しかし、問題は移動手段である。鉄道駅までの公共交通機関は県営バスが存在するのみ。停留所は竹山が大伯母と暮らす漁師町にもあるが、早朝四本、日が暮れてから五本、バスが通るだけだ。駅前まで自転車で行って、バスに乗って帰ることもできるが、翌日の通学で困ってしまう。もちろん自転車で行って、自転車で帰ることも不可能ではないが、三十キロメートルを眼球の裏側まで食べ物を詰め込んだ満腹状態で走るのはしんどいにも程がある。

田舎特有の町おこしイベント。もちろん全国に大々的にお披露目するようなイベントではなく、村祭り然とした小さなイベントだ。町長かなにかの誕生日を祝う目的で開かれるのだろう。町のイベントで賞金が出るというのは使い切れない予算が残ったときだけだとクラスメイトの誰かに聞かされたことがある。その時に、予算が余っているなら使わずに残しておけばいいのにと、素直な感想を覚えた記憶が残っている。竹山もお金の存在は理解して、自身も大伯母に小遣いをもらい使用している。ただ、何か必要なものは大伯母に買い与えられ、それ以外に買いたいものがあるわけでもないため、用事がないときはお金を持ち歩かないのだ。そのため賞金が出ようと出なかろうと、そこにあまり興味はなく、無料で大食い大会に参加できるときは参加して、参加費が取られる場合は出ない、そんなスタイルができ上りつつあった。そして今回のように誰かが参加費を出してくれるなら、賞金を半分どころか全部上げてもかまわないほどだ。今のところ金の使い道がないうえに、大伯母がいくらでも持っているのだから。


「よし、準備できたか? 俺はいつでもいいぜ」

放課後、自転車を置きに一足先に学校を出た竹山を、ガソリンを補充してきた森本が家まで迎えに来た。

「ん、俺も。おバアちゃんに電話した。いらない、晩御飯って」

竹山は大伯母をおバアちゃんと呼んでいる。大伯母本人の希望による呼び方だ。大伯母は空港誘致委員会なるものに入っており、竹山が学校から帰った時には家を空けていることの方が多い。晩御飯の都合があるので、竹山の帰宅時に大伯母が家にいない場合は電話連絡することにしている。竹山が作ることもあれば、大伯母が帰ってきて作ったり、近所の人らが持ってきてくれたり。日によって違うので毎度安否確認を兼ねて連絡を取るようになっていたのだ。

「そうか、じゃあ行こうぜ。いつものことだけど、メットはちゃんとかぶっておけよ。死んでも俺は逃げるからな」

そう言いながら森本は、自身が普段は首に掛けているだけのヘルメットを渡してきた。そのため森本は頭部保護具無しだ。ヘルメットを受け取った竹山は、ちゃんと頭にかぶり、あご紐を留める。ヘルメット自体は森本がかぶっていないので蒸れることもなく濡れてもいないのだが、首に掛けているあご紐は森本の皮脂を吸い込み粘ついている。頭に損傷を受けると大変なことになるのは知っている。そのため見た目を気にして不必要なリスクを背負い込んだりはしない。そもそもヘルメットを正しく着用する、そのどこに不格好さが含まれているのか竹山には理解できない。漁師町に住む以上、町中にはそれなりに頭部に損傷を負い、不自由な生活を送る人を見かける機会に溢れている。船の事故、陸に上がってからの酒がもとでの事故等、事故が多い町だ。特に頭部の損傷は、死ねなかった場合が非常に辛いものとなることがよく理解できるサンプルが多く、竹山の反面教師として役に立ってくれている。

酸化した森本の皮脂がべた付くあご紐を引き、頭頂部をしっかりと固定する。工業高校に入ったおかげで、人の感覚が大事だと理解できている。真っ直ぐに見えない柱は、差しふりを当ててみると真っ直ぐ立っていないことがわかるし、指で触って滑らかに感じない金属表面は、ダイヤルゲージを当ててみると指紋の溝よりはるかに浅いながらも凹凸があることが確認できる。人の感覚には確証がなくとも従うべきだと徹底して教えられているのだ。硬いヘルメットをかぶるのなら、隙間があってはいけない。そのヘルメットの硬さが竹山の頭部に対する凶器になるかもしれないのだ。

「竹、いつも思うんだけどさ、お前メットの紐締めすぎじゃねぇか? 首絞まってんじゃねぇの?」

竹山の顎肉に食い込むストラップを見ながら、森本が質問する。

「これでいい。締めない、意味ない」

そりゃそうだと唾液が糸を引く歯を見せつけるように森本は笑う。上の前歯が一本足りないうえに、ガタガタに生えている他の歯もあいまって、見る人を不快にさせるのではないかと竹山はいつも思う。竹山は森本の後ろに腰掛けると両手を後方に回し、タンデムグリップをしっかりと握りこむ。前に座る森本にしがみつくのは生理的に嫌悪を覚えるため、自然と身についた乗り方だ。そこまで速度が上がらない原付なのでこの姿勢で困ることもない。後部に竹山の重量を感じ取った森本は原付を動かし始める。プイーンと、甲高く頼りない音を立てながらも原付は二人を乗せて進み始めた。


「今日は麻婆豆腐で勝負なんだってよ」

走り出し、集落を抜け海沿いの道にさしかかったころ、森本が話し始めた。

「一組に板倉ってやつがいるだろ、あいつが教えてくれたんだ。あいつ片親の家庭って言い張ってるけど、親父は網元で村会議長もやってるからな。ただ母親がお妾さんってだけだ。だからあいつはいつも綺麗な服を着て、いつも新しいゲームソフトをを持ってんだ。うらやましいよな」

学校で見るところ、森本は特に誰かから親しまれている学生ではない。かといってイジメの対象になってもいない。それでもこういった噂話に妙に詳しかったりする。どこで情報を仕入れてくるのか、それらの情報が正確なものかどうか竹山に判断するすべはない。ただ、聞くだけだ。

「お妾さんって、子供つくる女、嫁じゃないのことだっけ? 別にいいんじゃない? 嫁、多いがいいだろう」

竹山の素直な返答に森本は笑ってしまう。

「そりゃそうだ。一人より二人、二人より三人、一日休みを設けるにしても六人がベストな嫁の数だな」

「それで、板倉がなんで今日の大食い麻婆豆腐だって知った?」

森本との会話はいつもこうだ。話が二転三転し、基本的に結論など存在しない。話のなかで竹山が取捨選択し、聞きたいことを掘り返すのが正解だと気づいてからは、難しくなさそうな話題を伸ばさせるように誘導するようになった。

「そう、板倉の親父、そのおっさんの甥っ子が駅前商店街で中華屋を開いたんだ。でも客が全然入らないので、町おこしイベントとして税金を使ってその店に金を落としてやろうって寸法なんだよ。その中華屋の店主の嫁さんの遠い親戚が隣の市で市議やってて、こっちの町長も逆らえないみたいなんだ。ほんと田舎ってどうでもいいことだけで回ってるから不思議だよな」

森本は西の方で生まれ、数年前にN県へ移ってきたと聞いている。地域によって人間の質が大きく違うことはテレビで見て覚えたが、いまひとつ竹山には理解しがたい現象である。単一民族で構成され、単一の言語を話す国の中で違いが生じるとは想像がつかないのだ。

「つまり今日の麻婆豆腐は美味しくない?」

竹山は森本の出身地を聞き直したりはしない。日本語ではない文字が表記されている漂着ゴミで溢れかえるN県も、森本が生まれた西の方も、その違いは竹山にとって意味をなさない。あえて話を大食いに戻す。

「あー、その可能性が高い。店主はまだ二十ちょいの年齢なのに中国でなんだっけかな? 特別調理師みたいなたいそうな資格を取ったって言ってるんだ。中国の国家資格だぜ、いまだに二十ちょいの小僧が、筆記試験もあるやつに受かるかよ。しかもその資格は昭和時代に廃止になってんだ。タイムマシンにでも乗って試験受けに行ったのかって話だ。嘘に決まってんじゃん。そうだ、トッキュウチュウシって肩書だ。思い出した。そんな奴が作る料理で、しかも駅前なのに全然客が入ってないってわけだからな。そう美味くもないだろうよ」

森本の話はどこまでが本当かわからない。全てが嘘のようにも聞こえるし、妙に詳しい情報が含まれていたりもする。竹山も慣れたもので、わからないことを突き詰めたりはしない。当たり障りのない会話さえ続けていれば、お互い満足できるのだ。森本の話が嘘であろうと本当のことであろうと、会話することで発生する損害など存在しないのだ。

「麻婆豆腐ってひき肉と豆腐と味噌? 誰が作っても美味しい。たまに辛いな。辛いの大丈夫だ」

「まあな。別に不味いってことはないと思いう。単に金を出すほどのレベルじゃないってことだろうよ。それも俺たちにとっては都合がいい。美味くなけりゃ周りの食う量もそんなに上がらないだろうし、賞金が手に入る確率が高くなるからな。その賞金だって税金から引っ張ってんだぜ、無駄だよな。こんなことしても明日から客が増えるわけでもないだろうに。まあ板倉の家みたいに金に困ってないのに片親ってだけで生活保護を出すような地域だからな。誰も気にしないんだろうけど」


プイーン、パタパタと迫力に欠ける原付の排気音を背景に、粘度を持つように纏わりつくN県の空気を切り裂きながら、とりとめのない話をしているとあっという間に駅前に到着した。森本は駅前商店街にある廃墟じみているものの営業を続けているボーリング場に原付を置くと、大食いイベント本部と構えているテントへ受付登録しに行った。


「竹ぇ、やばい。今日はダメかもしれん。くっそ、二人分の参加費合わせて二千円、払い損になりそうだ」

参加登録を済ませた森本は悪態をつきながら竹山が待つ原付のもとへ帰ってきた。

「なんで? また序二段ズレの取的が来た?」

竹山の大食いをもってしても絶対に勝てない相手は存在する。近くの集落出身で大相撲に夢見て、実際に相撲部屋に入り序二段まで上がったのちに、脱走してきた元力士養成員だ。関取になる素質など持っておらず、ちょっと知性に欠ける印象の大柄な男。その男だろうと予想しながら森本に聞く。

「いや、あのデブは東京の相撲部屋在籍時に近所の幼稚園の子をレイプして殺してたみたいで、逮捕されてる。N県内ならまだしも東京で強姦と殺人はダメだ。竹、お前も気をつけろよ。N県以外でレイプすると捕まっちまうからな」

 森本は至極まっとうかつ、竹山も日常的に聞く言葉を口にする。N県内では何をしようと海を渡ってやってくる不法入国者の犯行として処理してもらえるのだが、N県の外ではそれが通じない。これは大伯母からも強く聞かされている話だ。しかし、と、竹山は思う。元取的の大男でなければいったい誰が自分たち以上に物を食べることができるのだろうか。

「あの序二段ズレが来てないなら誰? もっと大きい人が来た?」

 まだこの時点では竹山は大きい人ほどよく食べるのだと、ごくごく普通の発想しか持っていなかった。

「ここからじゃあ見えないんだけど、あの受付って書いてるテントの裏に一人で座っている女がいるんだ。ゼッケン着けてたから参加者で間違いない。ほらこれがお前のゼッケンだ。いや、そのゼッケン着けた女なんだけど、あれはやばい。超小柄でガリガリ」

 竹山に五とだけ書かれたゼッケンを手渡しながら森本は自分の両頬を指で抑え、頬がえぐれるほど痩せているとジェスチャーで示す。

「ガリガリ? じゃあ食べられないよ。心配しない。俺たちのどっちかが優勝だ」

 幸か不幸か正常ではない精神状態にある人の生態を、竹山はまだ知らなかった。そのためよく食べる人は大きくて太い人、そして小さい人や細い人はたくさん食べられないと認識していたのだ。

「違うんだ。俺もそうであってほしいとは思うんだけどな。あれはやばい。目つきがまともじゃない。細すぎるせいで立ち上がった姿が想像つかないけどたぶん背も低い。あれ系は施設から出しちゃダメだろぅに」

 説明するでもなく、独り言ちるでもなく、言葉を口にする森本の顔には少しの恐怖、もしくは狼狽しているように見受けられる。

「意味が分からない。体のサイズって入れ物のサイズ。入れ物が大きい、それだけ多く入る、入れ物が小さい、入らない。物理的話だ。心配いらない。俺が優勝するから」

 この時点では竹山は精神が体にもたらす異常な変様を知る由もなかった。冗談でもなく、本当に竹山は自分たちのどちらかが優勝すると信じ切っているのだ。そんな竹山に森本はかぶりを振った。

「あれは人の形をしているけど心が壊れているんだ。だからもう人じゃない。人じゃないから本来同じ土俵で勝負するべきじゃないんだよな。あんなのが出てきたらどうしようもない。竹の正攻法の大食いでも、俺の飲み物コップに吐き戻すチート食いでもあれには勝てねぇよ」

 ここに来てようやく竹山も異変を感じ取り始めた。善悪もモラルも持ち合わせておらず、自己の矮小な利益や欲求を満たすことにだけしか興味を持たない森本がはなから諦めているのだ。学校以外での付き合いはほとんどないとはいえ、どんな性質の人間かぐらいは竹山にもわかっている。その森本が賞金を得るための担保として参加費を払い、賞金を得るための確率を確実なものとするために竹山の参加費まで払ったのだ。その森本が、勝負開始前に諦めている。小柄な女性がどうやって自分たち以上に食べるのか、実際に食べているところを見るまで納得できないが、おそらく森本では勝てないのだろう。しかし、竹山に恐れはない。その女性を見てもいないのだ。判断のしようがない。それに捨てたり吐き戻したりして食べる量を誤魔化すタイプの森本とは違い、竹山は正攻法で食べるタイプなのだ。日本生まれの日本育ちの人間とは少し体の出来具合が違う。太っているわけではなく、平均的な体つきをしているが、体格が同じぐらいの同級生と比べると竹山は体重が十キロも重い。学校の健康診断で校医も実例を見るのは初めてらしかったが、骨と筋肉の密度が違い、同じ大きさでも重たく詰まっていると言われたことがあるほどだ。生まれと育ちがまったく違う環境というだけで、人種は同じなのに不思議なものだと校医も言っていた。体重で階級が分かれるような男らしさに欠けるスポーツでは不利になりやすいが、階級分けがないスポーツなら有利だ。互いの体重でぶつかって他人を倒すことが前提にある自転車競技、ラグビー、サッカーのどれかを始めろと言われたが、そのいずれも竹山が通う高校の部活に存在しないため何も運動していない。正直なところ竹山にとってそんなことはどうでもいい話だ。要するに他の同級生より体の中身が詰まっていて重たい、だから体を維持するために食べる量も多い、ただそれだけのことだ。

「心が壊れている? 食べる量と関係ないだろ? 大きなゴミ袋と小さなゴミ袋、どっちが多くゴミが入る? 心配いらない」

 森本が何に恐れをなしているのかわからない竹山は、鼻で笑う。日本で生まれ育った他の同級生の誰と比べても、食べる量が違う上に口蓋力までずば抜けているのだ。単純明快な原理原則として、自分より大きい、もしくは食べるのが仕事でもある力士養成員など、そういった特殊な例以外には負けるはずがない。どうして森本はこんな単純なことがわからないのだろうと不思議でたまらない。

「まあ参加費払っちまったからな、できるだけ頑張ってくれよ。それにあいつらも四六時中食える状態ってわけじゃないだろうしな。もしかしたらちょうど波が引いているところで勝負開始になるかもしれん。まあゼッケン一番を着けてる時点でかなり気合入ってんだろうけどさ。麻婆豆腐は押し潰すようなメニューじゃないから俺のチート食いはあんまり役に立たないだろう。竹、賞金五万、お前がなんとか取ってくれ」

 どうやら今日の勝負では不正を行わず、はなから諦めているような森本。竹山に希望を託し背中をポンっと、叩く。そうして二人は駅前にある市内で唯一のコンビニエンスストアへ向かっていった。

 コンビニエンスストアで小さな直方体容器に入った牛乳を買い、飲みながら大会本部テントへ近づいたところで、登録済み選手は集まってくださいと、そのまま大食い開始になった。結局竹山は試合前にゼッケン一番の森本が怖れる女性に近寄り匂いを嗅ぐことはかなわなかった。

 大食い勝負の舞台は横一文字に並べた会議机。番号順に端から座っていくため森本と竹山は例の女性から遠い位置に座ることになった。目の前に並べられた麻婆豆腐は一皿一キロの内容物を有す大皿だ。程よくぬるくて非常に食べやすそうだ。味見した司会者が驚いたほどに、まともな味付けだ。横に座る森本がこれは大手メーカーのレトルトと同じ匂いだ、レトルトを使わずに自分でこの香りを再現しているならたいしたものだと竹山に小声で耳打ちしてきた。

 一皿一キロの麻婆豆腐に、とり皿とレンゲ、水と茶色いお茶が入った二リットルペットボトルが各一本、これらを一つのセットとして各人に用意されている。飲み物用に使い捨てコップも用意されているが、透明のプラスチック製であり、それを見た時点で森本の戦意は完全に消え失せたようだ。コップに吐き戻す森本のチート食いは、最低限横から内容物が見えない材質でないと実行できないからである。

 長い町長のありがたい御高話で始まり、地元の土建屋や道路関係、新幹線関連のいったいこんなさびれた田舎町で誰に何を聞かせたいのかわからない連中による無駄に長い話を聞かされる。

竹山のゼッケンは五番、森本が怯える女性は一番。数字順に横並びに座っているため一番の女性を観察することはできなかった。立ち上がったり体をひねったりすることでチラチラ見ることはできたが、森本の言葉の意味はわからずじまいだ。竹山の目にはただのおとなしそうな小柄な女性だとしか視認することができなかったのだ。

大食い勝負が開始され、長く無駄な話のせいで冷めて塩辛いひき肉と豆腐の塊を一斉に食べ始める。竹山は内容物だけで一キロもある皿を持ち上げ一気に掻き込みつつ飲み下す。片栗でぼってりとした冷えた豆腐とひき肉はまるでゼリーのようにするすると入っていった。一皿目をすぐに終え、片手を上げつつ「お替り」と、大きな声で宣言する。時間をかけてしまうと喉の渇きで苦しみそうな味付けだ。しかも制限時間はわずか三十分。竹山は先行逃げ切りスタイルで賞金まで一気に駆け抜けるつもりだ。

「お替りお願いします」

竹山のお替り宣言に間髪おかず、お替りを求める小さな声がかすかに聞こえた。二皿目が配膳されるまで手持ち無沙汰な竹山は迷うことなく反対の端に視線を飛ばす。竹山の耳に入ってきたお替りを求める小さな声は確かに女性のものだった。皆が横並び一列に座っているため、端の女性の表情や皿を視認することはできないが、茶色く粘ついたゲル状の物質まみれのレンゲが骨ばった小さな手により上げられているのがかろうじて見えた。

竹山に二皿目を持ってこようとしていたスーツの上にエプロンを纏う男が足を止め、竹山に皿を提供せず女性用の二皿目を取りに戻るのが見えた。持ってこようとしていたのなら、先に自分のところに出して、それからほかの人の分を取りに戻れよ、と少し気分を害してしまう。しかし、腹が立つ以前に奇妙な気配が竹山に纏わりつく。竹山は最初から先行逃げ切りで行こうとして、一キロの麻婆豆腐を液体であるかのように流し込んだのだ。隣に座る森本は顔を皿に突っ込むようにして必死にレンゲで口の中にかき込んでいるが、それでも森本の皿は半分も減っているように見えない。誰よりも早く流し込んだつもりで、誰よりも多く腹に収めたつもりになっていたので、女性のことが気になり始めると焦燥感に駆られだす。別に大食いや早食いで絶対の自信があり、世界の頂点に立っているなどと勘違いしているわけではない。現にこの小さな生活域内でも、その日の体調や、直前に食べたもので腹に余裕がなく、優勝できなかったことだって何度でもある。ただ今回は余裕をもって町まで出てきたのだ。学校から家に帰り、カバンを置くついでに大便を絞り出してきた。その時点で胃の中に納まっていた食物は、原付の程よい振動で下方へ追いやられて、空になった腸の方に押しやられていたはずだ。それに加えて四六時中腹を空かせている年齢だ。一皿目を啜り込むのに一分もかからなかったのだ。その竹山にほぼ間を置かずに食いついてくる人がいただけでも驚きなのに、それが女性ときた。パニックと言うほどでもない、優勝に焦るわけでもない。それなのに後頭部から背中にかけて、筋肉が警戒し毛が逆立つような本能的な不快感が竹山を包み込む。

「一番さんと五番さんが早くも一皿目を食べ終え、二皿目にとりかかろうとしています! 大食い開始からまだ二分半しか経っていません! 驚きの速さですねぇ。つまりそれだけ美味しいということの裏返しなのでしょう! ほかの皆さんもどんどん食べてくださいよ!」

大衆に背を向け、手鏡を持ち前髪、と言うよりも頭頂部から前に引っ張ってきた髪の毛を弄っていた司会の男が声を張り上げる。村役場の職員でしかないにも拘らず、まるで自分が治世にかかわっているのだと思い込んでいるような顔をした司会者。その声に合わせて中年から壮年の男女グループが拍手する。おいしそう、うらやましいな、気持ち悪いことに本気でそう信じていそうな声を出し、参加者ではなく、司会者と地元有力者の親族が経営する食堂を応援している。

竹山はいつまでも外国からやってきたばかりの子供ではない。日本の文化や日本人の習性はすでにあらかた理解している。気持ち悪いと思いつつも、声に出して批判したりはしない。

竹山の目の前に二皿目の麻婆豆腐が配膳される。やはり湯気などは上がっておらず、まとめて大量に作ったものを皿に分けているだけだとまるわかりだ。二皿目にとりかかれるタイミングは体感で大食い開始から三分と少し。このペースを保つことができるなら、制限時間内に九皿は啜り込める計算だ。ただ、竹山はそれなりの大食いができるとはいっても三十分間に食べられる量はせいぜい三キロ程度だ。無理に早く啜り込んでも、ゆっくり啜り込んでも最終的に入りきる量は決まっている。適当なタイミングでとりかかる四皿目か、よくて五皿目の途中で時間いっぱいとなるはずだ。と、ここまで頭で整理し、二皿目はあえてゆっくり啜ることにする。ゼッケン一番の小柄な女性が本当に森本の言う通り常識はずれな量を食べられるのか確かめたくなったのだ。他の参加者を見ても、特に目を引くほど大きな人間はいない。四キロの食物を腹に詰め込むことができる人間自体、そもそもそんなに存在しないのだ。竹山は先行逃げ切りからぴったり着けた後追いに作戦を変える。どうせどこかで手が止まり、最終的には竹山が追い抜く形になるのだろうと考えたのだ。



「さあどうだ!? ゼッケン三番さんと四番さん、ちょーっと苦しいか? あー六番さん、手が止まっている! 食べ続けているのは一番さんと五番さんの二人! 五番さんはペースを上げてきています! しかーし、一番さんはスタートから終始淡々としたリズムで食べ続けている! 三十分大食い無制限勝負、終盤に差し掛かり、勝敗はどうやらこの二人に絞られたようです!」

 司会は鼠色のスーツを着て、まだ若そうなのに頭頂部の髪を前に引っ張り上に跳ね上げ、まるで自分は禿げていないのだと言いたげな顔をした禿げた男だ。安そうなスーツに安そうなシャツ、そして安そうにピカピカ光る先のとがった靴を履いている。町役場の若い衆なのだろう。誰もリタイアしていないし、時間だって残っているのにもかかわらず、勝ちと負けを聞き手に誘導するような物言いだ。大成しない男だろう。死ぬまでこの田舎で都会人に対するコンプレックスを抱きながら生きていく、そんな典型的な田舎者にしか見えない。


 竹山は終盤に差し掛かり、違和感が空気中の湿気と交じり、自分の体の中に入り込んでくるような不快感で満たされている。一皿目は竹山の方が啜り込むのは早かった。二皿目は落ち着いて、一番の出方を見ながら啜り込んだ。一番の女性は端に座っているため竹山からは見えない。司会の男の声に集中しながら動向を探っていると、驚くほど速くお替りの声が響いた。慌てて竹山も二皿目を啜り込みお替りしたが、その時点ですでに結構な差が開いてしまっていた。終盤に差し掛かるまで当然のごとく竹山はペースダウンしていた。しかし、ゼッケン一番の女性は終始変わらぬペースで皿を空け続けている。一皿三分半で、もう六皿目だ。五キロ以上もの食物を体に取り込んでいるのだ。竹山はこの段階でまだ三皿目を片付け切れていないにもかかわらずだ。司会の煽りが、まるで一番の女性と竹山の一騎打ちであるかのように聞こえ、気恥ずかしくなる。

食べ進む速さに歴然とした差があるものの、まだ負けが決まったわけではない。いかにゼッケン一番が異常な速度で腹に詰め込んでいっているにしても、小さな体だ。そろそろ限界を迎えるだろう。そう考えながら竹山は三皿目を片付けるとすぐに手を上げお替りを要求する。竹山とゼッケン一番の差は二皿以上。一番が六皿目をどこまで片付けているのかが見えないため、逃げ切られたらどうしようもない。それでも一番の腹が限界を迎え、手が止まるならば、六皿目に並ぶことができるかもしれない。豆腐とひき肉と香辛料。それらが片栗粉の糊化作用により重たいゲル状物質へとまとめ上げられている。一皿目は水を飲むように飲み干せた。もちろん、水とは違い、質量のあるゲル状の塊が喉を押し開き、腹へと滑り落ちていく窮屈な圧迫感があった。ほぼ一息で飲み下したため、本音ではもうこれ以上は入れたくないと脳のどこかが悲鳴を上げたのを竹山は感じていた。ただそれはいつものことだ。ちょうどいい量で体と脳は食べることをやめようとする。大食いとは体と脳の拒否反応を意志の力で無視することだと、日本に移送されてからの生活で学んだのだ。物によっては言葉を紡げないほどまでに口蓋が限界まで疲弊するし、腹だって破裂するのではないかと言うほど膨れ上がる。体と脳の悲鳴と警告を無視して詰め込むと、後が苦しいのだ。腹が張りすぎて座ることもできなければ、寝転ぶと勝手に口へと逆流してくる。そのレベルまで詰め込められたなら、五キロはいけそうだ。体が意思を裏切り嘔吐さえしなければ、だが。

皿を持ち上げレンゲを用いて口の中にゲル状の麻婆豆腐を掻き込む。一皿目の時と違い、掻き込みながら啜り込むことはできない。急ぎながらも確実に嚥下していく。一皿僅か一キロだ。飲料水なら取り立てて驚くような数字でもない。一度に二リットル以上飲み下したことはないが、二リットルのペットボトルなら一気飲みしたことだってある。その時も腹がタプタプになったがまだ余裕はあったはずだ。過去に森本に連れられて出た大食い大会で、カツ丼を八杯食べた時や、カレーを六皿半食べた時などは、今よりもはるかに苦しかった。過去の経験を思い出すことで、まだいける、まだ詰め込めるのだと自分を鼓舞する。ドロリとした塊が、塊のまま喉をズルリと流れ落ちていく。まだ大丈夫だ。流れ落ちる間はまだまだ詰め込めることを経験で知っている。最終的には喉に留まるため、自分の意志で押し下さなければならないのだ。まだいける、まだ食べられるとゆっくりではあるが着実に皿の中身を減らしていく。

肋骨が内側から外へ裏返りたがっている、そんな痛みがジワジワと胸を中心に広がっていく。三キロ以上の食物を短時間に詰め込んだため、体はとうに限界を迎えている。一回の嚥下で、二回は首下が勝手に口へと押し返そうと逆蠕動運動してくる。内側から肺が押し縮められているのか、呼吸もおぼつかなくなってきた。熱いのか寒いのか、その感覚すらなくなり、それでも体は大量に発汗している。遅まきながら、ようやく体が本調子に乗ってきたのだ。前髪の付け根から垂れてきた脂汗が目に入り、染みる。別に視界など瞼で遮られていようと、食べる量に影響しない。片目を閉じたまま四皿目の麻婆豆腐を片付けるべく掻き込み、中途半端に閉じた上下の歯で漉しながら少しでも粘度を下げる。もう少し、あと数回掻き込み飲み下せば、次の皿、五皿目にとりかかれる。今を凌ぎ、次の皿も同じペースで片付けられたなら、ゼッケン一番に追いつけるだろう。


「おい竹ぇ、おいってば。竹山、聞こえてないのか? こっち向けよ。もう時間切れだから皿を置け」

夢中で四皿目と格闘しており、あと少しで四皿目が綺麗に片付きそうだ、というところで現実に引き戻された。隣に座る森本が竹山の肩をゆすりながら呼び掛けていたのだ。

「おお、またか。夢中で、気が付かなかった」

竹山は素直に皿を置く。意識が途切れていたり、失神していたわけではなく、集中しすぎて周りの音が聞こえなくなっていただけで寝惚けているわけではない。時間切れと言う森本の声ははっきりと理解できた。そしてゼッケン一番に負けたこともはっきりと理解できていた。竹山が集中しだした四皿目の時点ですでにゼッケン一番は六皿目にとりかかっていたのだ。まったくもって次元の違う戦いだった。

「ようやく五番さんも手が止まりました! いやあ美味しくて手が止められない、まさにそんな心境なのでしょう。私も日報を上長に提出したらこちらへ戻ってきて、今夜の晩御飯に麻婆豆腐を頂くつもりです!」

 司会の男のしょうもない煽りに、見物人の年寄連中が、そうだ、ワシらも食ってくべぇと相槌を打つ。芝居じみた司会の声も、サクラに徹する年寄連中も、もう竹山には非難する元気が残っていない。皿を置くと同時に腹の痛みがひどくなり、呼吸をするだけでも苦しくなってきているのだ。一吸いするだけで、僅かにしか膨らまない肺が胃を内側から押し上げる。一吐きするだけで、呼気とともにゲル状の塊が一緒に出ようと喉を逆流する。こうなると最低でも一時間は休憩しないとまともに動けないことは経験から学んでいる。一時間どこかで休み、それから大便を絞り出す。そうしないと帰路につくことさえできないのだ。

「それでは結果発表です! 驚いたことに最下位の方はいません! あまりの美味しさに誰もが二皿目に入っています! 一皿は全員がクリアしました! 一キロです! 一キロもある麻婆豆腐を全員が食べたのです! この驚愕の事実、御料理を用意くださった店主様に、感謝の意を込めて、最下位という表現は私にはできません! 優勝者と準優勝者を除き、皆さん第三位です! では次に第二位で準優勝の方! ゼッケン五番の高校生です! 皆さん拍手をお願います! 彼はなんと三皿食べ、そして四皿目もほぼ食べ切ろうとしているところまで行きました。もう四キロ食べたといっても過言ではないでしょう!」

 小僧よう頑張った、なかなかやるじゃねぇか、いやワシが若い頃はもっと食えとったわい、そんな声がパチパチとパラつく拍手の中、竹山の耳に飛び込んでくる。腹から湧き出す苦しみで、動くことはおろか、まともに呼吸することもままならない竹山は否定も肯定も、それどころか拍手に応えることもできない。今はただゼッケン一番がどれだけ食べたのかが知りたい。それ以外は何かを考えることすら億劫な状態にある。

「お待ちかねの第一位! ゼッケン一番さんです! なんとこの一番さん、普段は東京でお勤めの看護師さん! 今日は夜勤明けそのままで、この町までやってきてくれました! 一番さんは驚くことに、五皿完食し、さらに六皿目も半分ほど食べました! 五キロ以上です! 非常に華奢な体つき、いったいどこに五キロ半もの麻婆豆腐が入っていったのでしょうか!? 不思議です! 優勝インタビューのついでに聞かせていただきましょう!」

 司会の男は、祝儀袋のような封筒を手に、ゼッケン一番の傍へ寄る。

「ゼッケン一番さん、おめでとうございます! まずはこちら優勝賞金です、どうぞ! よければ何か一言お願いします!」

 司会の男も別にゼッケン一番を立たせたりはしない。短時間で何キロも食べると苦しいことぐらいは理解できているのだろう。竹山はゼッケン一番の女を正面から見たいのだが、立ち上がる余力がない。自分の席に座ったまま、尻を前方に滑らせ、浅く腰掛けた姿勢を取り、頭を後ろに仰け反らせる。間に座る森本も含めた有象無象の体と頭が視界を遮りはっきりと全体を視認することはできないが、それでも一番の体躯は驚くほど細いことが見て取れた。ゆったりとしたシャツからはみ出す首、細すぎるせいで妙に角張って大きく見える肘関節と尖った肩の骨。なぜ竹山よりもはるかに多く、そしてはるかに早く食べられるのかまったくもって想像もつかない。普通に考えて、小さい体躯には小さい内臓しか詰まっていないはずなのに。

「N県の皆さま、アンニョーン! 応援ありがとうございまーす! 皆さまの温かい応援があったから今日この過食大会で優勝することができました! 哺乳瓶で生クリームを飲んで育った、<過食女子クイーンホイップクリーム姫>でーすっ! 皆さまから元気をもらえ、そしてその元気をパワーに変えて優勝することができました! 東京では看護師をやっていますけど、ほんとは歌手になりたいんです。全国の過食大会で実績を上げ続けていれば、いつかどこかの事務所から声がかかると信じています。これからはテレビ越しに皆さんに会いに来ることになります。テレビ桟敷からも応援してくださいね! 今日はほんとにほんとにありがとうございました! それでは、アンニョーン!」

 ゼッケン一番の女は鼻と口が詰まっていて、まるで耳から声を出しているのかと思わせる、異様なまでにくぐもり、そして甲高い声でわけのわからない挨拶をした。しかも女の言葉は異常に早口で流れ出てきたため、竹山はすべての言葉を聞き取れたのか、それともまったく意味が違う聞き取りをしてしまったのかわからず呆けてしまった。

「言っただろ? あれは心が壊れてるって。あれはもう人じゃないんだ」

 森本は顔だけ竹山に振り返り、複雑な表情でそう口にした。その顔はまるで俺はわかっていたのだ、とでも言いたげであり、かつ、郷愁に想いをはせている、そんな何とも言えない感情が表れていた。

「やっぱり? 今おかしいこと言ったな? なんだあれ?」

「あんまり気が乗らないけど、あとでちゃんと説明してやるよ」

 竹山の問いかけに対し、森本は多くを語ろうとしなかった。もう大会も終わり、司会とゼッケン一番の間で適当な言葉の応酬が終わり次第、撤収となるのだ。そう時間はかからないだろう。

「えーっと、クイーンでお姫様? いや、はい一番さんおめでとうございます。えーと、そうですねぇ……。そう、皆さんもご声援ありがとうございました。今後も駅前飯店と、えー、こちらのお姫様をテレビで見られた際には応援してあげてください。テレビを持っていない方でも役場の待合室には置いていますので、見られるようにしておきます。あ、駅前飯店は水曜定休で、十一時から二十二時まで営業されていますのでどうぞお立ち寄りください。それでは本日はどうもありがとうございました」

 ゼッケン一番の挨拶で、まるで精気が抜けたように口調がおとなしくなった司会者。おそらく頭の中にセリフのひな型を用意していたのだろうが、に気勢が削がれたようだ。

「ちがいますよーぅ、クイーンホイップクリーム姫ですぅ! N県のテレビにも映ることになれば、ちゃんとアンニョーンって挨拶しますね! 応援よろしくねー!」

 もはやもうマイクを向けられていないにもかかわらず、ゼッケン一番は一人で興奮して声を張り上げている。甲高いくせにドロリと纏わりつく不快な声だ。竹山が日本に移り住み、いまだに馴染まない種類の気持ち悪さ。年齢を問わず、人を騙し、欺こうとするアジア人女性特有の声だ。普段の声と全く違うのだろうとあからさまに想像させる声音。人を誑かせるために、それがバレていてもおかまいなしに口に出せる豪胆さが不愉快でたまらない。


「竹、どうだ? 動けるか?」

横並び席の端ではまだゼッケン一番が気持ち悪い声で何かをのたまっており、司会があしらうでもなくただ手に負えないといった感じで対応しているそんなさなか、森本が竹山に聞いてきた。

「無理だ。腹が痛い。休まないと帰れない」

三キロ以上の質量を短時間で詰め込んだ竹山の腹は、外から見てもわかるほどに張っている。当人は結構な痛みに耐えているところだろう。

「そうだろうな。大丈夫だ、まだ帰ろうってわけじゃない。ただここもすぐに撤去作業がはじまって、追い出されるだろうから違うとこに移って休憩しようぜ」

「そうだな。コンビニ行こう。なんか甘い飲み物欲しい。飲むヨーグルトとか」

そう言いながら竹山と森本は連れ立って、重い腹を揺すりながらコンビニエンスストアへ向かって行った。


「で、あれなんだった? あの一番、あれ何か違うだろ?」

廃墟じみたボーリング場の駐車場の縁石に腰掛けた竹山は、ヨーグルトを口に含みながら森本に聞く。後で説明してやるよ、そう言った森本の説明が聞きたいのだ。

「あれはなぁ、なんて言うかあれなんだ。難しいわけじゃないんだけど、説明しにくいんだよな。お前にわかるかどうか怪しいけど、簡単に言うと心が壊れているんだ」

 森本は竹山の問いかけに対し、寂し気な目つきで遠くを見ながら答えた。ぼってりとした分厚い一重瞼に肉が乗り張り出した頬骨、それに加えて開ききって黒いカスが詰まっている毛穴がデコボコと視認できる顔の皮膚。実際のところは何を感じているのか推察できかねる顔貌だ。

「心が壊れているってどういうこと? 頭が壊れているんじゃないのか? あとあの女のどこにあれだけ食べ物が入る? 俺なんかもうヨーグルトを飲むの苦しいのに、あいつは俺より食べたんだ」

 竹山が知る限り、何事にも限界が存在する。当然、学校では地球外に存在する無限についても教えられているが、ここは地球だ。物理的な限界は見ただけでわかると思い込んでいたのだ。

「それがなあ、心、って言うかまあお前の言う頭の話なんだけど、どこか噛み合わせが悪くなるとどこまでもおかしくなるんだよ。輪ゴムってあるだろ? あれを何度も千切れる寸前まで伸ばして戻して、それを繰り返してるといつの間にか最初の大きさまで縮まなくなるだろ? 人間の胃や腹の皮も同じなんだ。何度もギリギリまで伸ばして、縮めてってしてるとだんだん縮めきった大きさが大きいままになるんだ。普通に大食いしてるだけなら大丈夫なんだろうけど、毎日毎日過食して、自然に出るのを待たずに無理やり出しているとおかしなことになるんだ。それをする、って言うか、それができるって時点で心が壊れてんだよ」

 森本の回答は竹山が求めていたものではなかったが、言いたいことがなんとなくわかったような気がした。しかしながら抽象的過ぎて、実際何がどうなっているのか理解するまでは至らなかった。

「だんだん柔らかくなって、元の大きさが大きく、それで膨らんだ時もそれまで以上に大きくなるってことだな? でも同じ人間だ、限度があるだろう? しかも、一番は細くて小さかった。一体どこに入る?」

「細いから入りやすいんだ。実はな、イメージと違って太いほうが過食には向いてないんだよ。脂肪が邪魔になって胃が前方向に膨らみにくいんだ。分厚い生地でできた服を着てるようなもんだからな」

 目を開けていることさえ億劫に感じるなか、竹山は極度の大食いによる苦しさを紛らわせるため会話に集中する。腹いっぱい詰め込んだわけではない森本は、レスポンスが良く小気味よく言葉が出ている。

「膨らむ、膨らまない、それはまあその脂肪の説明でいいけどさ。だけど、入れ物が小さいだろ。小さい容器と大きい容器に物を入れると、大きいほうに沢山入るだろ? ここからなにか違うのか?」

 竹山の質問と森本の回答は、おそらく噛み合っているのだが、竹山は納得できない。

「でも、いや、なんて言うだろう。あのゼッケン一番は小さい? 俺のほうが背が高い。横幅も大きいだろ? どうして俺よりも食べるんだ?」

 聞きたいことはわかっているのだが、聞き方がわからない竹山は、おそらく繰り返しになってしまっているのであろう質問を口にする。

「そうだな……。まあいいか、竹、特別に教えてやるけど学校では秘密にしてくれよ。俺が関西のM県ってとこから引っ越してきたってのは知ってるよな? あれ俺の兄貴のせいなんだ。うちの兄貴もゼッケン一番と同じ病気にかかってて、手の施しようがなくなったから精神病院にほりこんだんだよ。うちのあたりは特に田舎でさ、精神病にかかった人間を出した家ってだけで村八分なんだよ。だから親類の伝手を頼ってこんな遠くまで引っ越してきたんだ」

 秘密だぜと言いながら森本は脂ぎった、小さな寄生虫の巣穴じみた細かい穴だらけの顔でウインクする。気持ち悪いが、それを自分に向けるなと言うだけの元気もないほど腹からくる痛みと倦怠感に包み込まれている竹山は森本の話を促す。

「それでだな、うちの兄貴とさっきのゼッケン一番だけど、病名はブリミアって言うんだ。正確にはイーティングディスオーダーの一種で、まあ他にもチューイングとかアノレクシカとか種類があるんだけどな。ゼッケン一番も間違いなくブリミアだな。なんせ一時的にとはいえあれだけ食えたんだから。すげぇ量を食うのに、ガリガリに痩せてる奴はみんなブリミアで間違いないんだよ」

森本はさらに説明を続けた後、異常なまでに不細工なくせして、缶入りの緑茶を口に含むとまたもや竹山に向かいウインクする。竹山が新聞や雑誌で見て理解したはずの美的センスとは大きく食い違っているが、森本本人が勘違いしているなら誰が何を言おうと通じないだろう。

「森本の兄貴のこと知らないけど、俺達はゼッケン一番が病気かわからない。消化が凄いだけか知れないじゃないか」

 竹山はようやく聞きたかった事柄に話が追い付いてきたと、少し安堵を覚えながらさらに素朴な疑問を口にする。

「やつらもバレてないと思って人に説明するときには竹と同じことを言うんだよ。すぐウンコになって出ていくから太れない体質なんだって、な。でもよ、考えてみろよ。限度があるだろう? そりゃあ食ったものがすぐに出る体の人間だっているだろうけどさ、だからってガリガリに痩せさらばえたりしないだろうよ? あのゼッケン一番なんてガリッガリだったんだぜ。一回の食事でさっきみたいに五キロ食ったとして、あんなに痩せてしまってんなら常に食い続けてないとすぐに餓死しちまうだろうよ。それこそ一晩ぐっすり朝まで寝るなんてしちゃったらもうアウトだろうよ」

 森本の説明に竹山は少し戸惑ってしまう。反論するには知識が足りていない。それでも到底納得できる話でもない。

「食べているのに食べてないってこと? 話が分からなくなってきた。体質でないなら今日、あのゼッケン一番食べた麻婆豆腐はどこに消えた?」

竹山はよくやく聞きたかった内容に追いつけた気がした。

 竹山の質問を受けて、森本は不細工なのに気障ったらしい不快な表情を張り付かせることを忘れ、一瞬だけ真顔で躊躇ったように見えた。

「んーとな、ここまで言っといてなんだけど、あんまり言いたくないんだよなぁ。俺はそのさ、兄貴が同じ病気ってことで医者の説明も受けたからわかってるんだけど、これって知ってしまうことが病気の第一歩なんだ。簡単に真似できるし、誰だって何回かは経験してることだからやってみるとすぐに抵抗がなくなって慣れちまうんだってよ」

「そこまで言うならなら最後まで言え。図書館でブリミアの病気を調べればわかる内容だろ? お腹いっぱい過ぎて苦しいのに、答えわからないなぞなぞを残される、気分悪いぞ」

 結論まで口にしない森本に対し、竹山は悠長に待っていられるほど精神状態が良いわけではない。鼻の奥と眼球の裏にまで麻婆豆腐が詰め込まれているような極度の異物感と圧迫感で、悠長に言葉遊びをしている余裕などない。

「そうだな……。そこまで言っちまったもんな……。まあいいか、やつらはゲロを吐いてんだ。食ったもん全部な。しかも吐いた後は大量の水で胃の中を洗浄までしてるんだ……、おい、竹! あっち見てみろ! あれゼッケン一番だ!」

 勿体つけて解答を口にしたわりに、なんだただ吐くだけかと聞き流そうとした竹山だが、胃の中を洗うと言う点で引っかかった。森本が口を噤めば聞こうと思ったが、ゼッケン一番が歩いているという言葉で完全に意識をそちらへもっていかれてしまった。

「あれがゼッケン一番? 服が違うだろ。それになんかメガネだし見間違いじゃないか?」

森本が指す方向に目線をやり、確かに小柄な女性が歩いているのは確認できた。しかし、大食い大会の時とは違い上下鼠色のスウェットを着ており、しかもメガネがまでかけている。自称とは言え到底アイドルなど名乗れそうな女性には見えなかった。

「あれだ、間違いない! あの肩の出っ張りを見てみろよ。肉が乗ってなくて骨が角のように尖っているだろ。そもそもこんな小さな町で俺たちが知らない若い女なんているわけないだろ。間違いなくあいつだ」

 そう言い切る森本に反論するでもなく竹山は小柄な女性を見やる。言われてみればゆったりとしたスウェット生地だが、肩の線は妙に細く薄い。ふらつきながら歩いているその姿は幽鬼のようだ。

「そうなのか知れないな。どうする森本? 追いかける?」

 竹山は純粋な好奇心で森本に聞いてみた。腹の苦しさも忘れ、ゼッケン一番を追いかけ、そして何がどうなっているのか確かめたくなったのだ。

「別にお前が追いかけるのはかまわないけど、俺は止めといたほうがいいと思うけどな。この頭の病気は移るんだぜ」

 まともなことを言っているようだが、それまでの会話からすると何か不自然なところを残す森本は、厭らしい半笑いの表情で竹山に判断を任せた。

「じゃあちょっと行ってくる。森本はここで待っているか?」

 竹山は腹の痛みを忘れ、立ち上がりながら森本に聞く。

「ちょっとだけな。時間がかかりそうなら勝手に帰ってるぜ。この駐車場に俺がいなけりゃお前も自分で帰れよ。ほら」

 なぜか薄気味悪い半笑いのまま森本は竹山に千円札を一枚手渡した。バスを二台乗り継いで港町まで帰ることができる金額だ。

「悪いな森本。これ貰っていいなら俺勝手に帰るよ。じゃあまた学校でな」

「おう、頑張れよ」

 竹山は森本を振り返ることなく女を追う。そんな竹山に森本は頑張れよと声をかける。もう竹山の頭の中は女のことでいっぱいだ。自分よりも小さな体で、自分よりもはるかに多く食べられる。その謎が好奇心を駆り立て、自分の腹の痛みや全身を覆う倦怠感も忘れてしまったほどだ。


 竹山はスウェット上下の女から少し離れた距離をついていく。いったいどこへ向かっているのか、なぜ着替えているのか、他所の町からきているはずなのに荷物はどこにあるのか、そしてこの女が本当にゼッケン一番なのか。後ろをつけながら本人に聞きたいことがどんどんと増えていく。後ろからよく観察してみると、女の体は非常に薄く小さくそして尖っている。おそらくサイズはあっているのだろうが、いかんせん細くて薄い体をしているため、まるでハンガーに掛けられた洗濯物のように風にたなびいている。強風が吹いているどころか竹山には風など感じることもできないが、女は煽られるようにふらふらと酔ったように歩いている。後ろをつけていても竹山には目の前の女がゼッケン一番とは確証を得られない。大食いとは正反対の世界で生きている女にしか見えないのだ。

 どうやって声をかければいいのかがわからず、竹山はそのまま尾行を続けることにした。鉄道駅があるとは言え、所詮は田舎町。人通りなどたかが知れている。そんな状況で後ろをつけられて気付かないはずもないのだが、女は前後左右に振れながら弱弱しい足取りを保っている。しだいに竹山もおかしな気配を感じ取る。一番不自然なのは匂いだ。どんな女でもその後ろを歩けば基本的に年相応の女の匂いがあったはずだと突然思い出した。目の前を行く小さく薄っぺらい女が歩いた跡には、若い女のものとは思えない匂いが儚く漂っている。苦く、酸っぱく、蛋白質が腐敗したようでもあり、それでいて仄かに甘い匂い。まるで真夏日の炎天下に、マンホールから逆流してくる匂いだ。あからさまに不自然な匂い。竹山が通う工業高校でも、ここまで強烈な異臭を放つクラスメイトはいない。人が放つ匂いと言うよりは、腐った物を置きっぱなしにした閉じた部屋の匂いのようだ。

 森本が原付を置いたボーリング場から徒歩一分のところにあるコンビニエンスストアに、女は入っていった。大食い大会が始まる前に竹山も森本と入った同じ店だ。そもそもこの田舎にはコンビニエンスストアなど鉄道駅がある町であっても多くて一件しかない。ほとんどの町にはいまだコンビニエンスストアは進出していない。それゆえ女が入った店も自然と皆が出入りする店になる。竹山は女がコンビニエンスストアに入ったことで少し驚かされた。その当時のコンビニエンスストアには、電球や電池と言った、夜中に切れていることに気付くと不便なものや、作り置きの軽食に飲料の類ぐらいしか置いていなかったのだ。このスウェット上下の女がゼッケン一番だとすると、ついさっき大食い大会が終わったばかりにもかかわらず、おそらく食料を求めているのだ。

 竹山ははやる好奇心を抑え、店の外から女を監視する。店に入った女は籠を手に取り、竹山の予想通り食料品コーナーへ向かう。棚が邪魔になり、何を選んでいるのかは竹山には見えない。それでも女の手と頭が何度も何度も上下し、大量に何かを取っているのだけは見える気がした。軽食コーナーから菓子パンコーナー。飲料水コーナーを経て即席食品コーナーを回った女はアイスクリーム売り場で少し足を止めてからレジへ向かった。レジは正面入り口ガラス戸に対し垂直に構えているため、店の外からでも視認できるようになっている。防犯を兼ねての配慮なのだろう。店の外から窺っていた竹山にも女が何を籠に詰めたのかよく見える。全て食料だ。理解できかねる怖さが竹山を襲う。時計を持っていない竹山に正確な時間はわからないが、大食い大会が終わってまだ一時間ちょっとしか経っていないはずだ。五キロ以上も腹に詰め込んだのに、もう大量の食料を買い出ししているのだ。今すぐに食べるつもりなのか後で食べるつもりなのか竹山にはわからない。しかし、今もって限界まで詰め込み、腹いっぱいの状態が続く竹山には食料を買いたい気持ちなど微塵も湧いていない。それどころか食べ物に触れるのも嫌なほど腹が膨れているのだ。

 せり上がってくるヨーグルト混じりの麻婆豆腐を意思の力で抑え込みながら竹山は女を観察し続ける。竹山の目には、女から何か異様で異常な気配が漏れ出ているように見える。外からでは見えにくかったためにわかっていなかったが、女は籠の中身以外にも、空になった菓子パンの袋を複数店員に渡していたのだ。そしてレジ打ちする前の籠の中身を一つ取り出すと、流れるような手慣れた仕草で袋を開けると口に持っていく。それを見て竹山は愕然とした。あの女は買い食いどころか、清算する前に食べてしまうほど飢えているのだ。商品を籠に詰めながら食べ、レジ打ちを待つ間に食べ、おそらく帰り道も歩きながら食べるのだろう。竹山は深呼吸し、心を落ち着かせる。清算前に食べているにしても、お金を払う意思は見せているのだ。店長が警察に電話しない限り問題にはならないだろう。

 女は周りの目や、レジ打ち店員の戸惑いなど一切気にせず、食べたものとまだ食べていないもの、それらすべてを常に口を動かしながら清算した。ずっと食べ続けていたにもかかわらず、結局三袋分の食料を買っていた。店を出つつも新たな菓子パンを剥いている女に、竹山はとうとう自制しきれず声をかけてしまった。

「お姉さん、さっきのゼッケン一番だろ? あの姫でクイーンの。どうやって食べるの、いっぱい。なにか秘密? 教えてくれよ!」

 女はパンを咀嚼しながら竹山に振り返りもせず歩き続ける。

「なあ姫さん、あんた姫さんだ、さっきの? 教えてほしい、どうやっていっぱい食べるか」

 竹山は自分の声が小さくて聞いてもらえなかったのかと思い、叫ぶように女に懇願する。

「いえ、違います。やめてください。迷惑です」

 人の目が自分にも向けられていることに気付いた女は、僅かに視線を竹山にやり、パンでくぐもりかすれるような小さな声でこたえた。

「違わない、違っててもいい。あんた食べるだろ、それ全部? 教えてほしいだけ。お願いだ」

 拒絶の意志を見せられたが、竹山にとってはこの女の意志などどうでもいい話だ。ただ、竹山が知りたいだけなのだ。仮にこの女がさっきのゼッケン一番ならなぜ立て続けにずっと食べていられるのか、仮にこの女が関係ないならばなぜコンビニエンスストの中から食べ続けているほど異常な食欲があるのか。

「ほんと違います。やめてください。知りま……ゴフ」

 女はさらに小さな声で微かに抵抗している。竹山は何が拒絶されているのか理解できず思わず女を平手で叩いてしまった。

「姫さん、俺はやめない。俺は聞きたいだけ。教えてくれ」

 平手で叩かれた女は信じられない出来事が起こったかのように目を見開き、周囲の人間の出方を確認する。東京ならいざ知らず、こんな田舎町で男に殴られる女を助ける、かばう、そんなファンタジーはありえないことを知らないのだ。視界には十人ほど人がいて、竹山と女を見ている。その目線は若い男女は人前でも恥ずかしがらずに元気だねと言った風情だ。田舎特有の常識とは言え、その空間内では常識である。逆らっても意味が無いのだとよそ者の女でもすぐに理解できるものだった。

「殴るんじゃねぇよ。もういいよ、黙ってついてこい。こっちは早く二ラウンド目やんなきゃいけねぇんだ。荷物持ちでもしてろバカ」

 女は吐き捨てるように言うと竹山に買い物袋を押し付けた。

 竹山にとって少し意外な展開であった。N県に移り住んでから、それなりに女性を殴ってきたのだが、やり返すわけでも、許しを請うわけでもないこのケースは初めてであった。しかも突然口調が変わり、目つきまで醜悪なものになっている。ちゃんとこの場で教育してあげたほうがいいのかもと一瞬頭をよぎるが、女の言葉にある二ラウンド目が引っかかり、黙ってついていくことにする。周囲の地元民たちは、女の荷物持ちをやるなど情けないとでも言いたげな視線を向けてきたが、誰も何も言ってはこなかった。


 竹山は言われた通りに荷物を持ち、黙って女の後をついていく。女も黙ったまま歩き、口に入れたものを咀嚼し終わると、竹山に持たせた袋をあさり新たな食糧を口に入れる。その動作を三度繰り返したところで駅の改札の真正面にある、古くもないはずなのに黄ばみ、茶色くくすむ駅前旅館に到着した。この当時男女が褥を共にする場所と言えば野外か旅館しかなかった。しかし竹山はこの寂れた駅前ですら都会に見えるほどのさらに萎びた辺境の漁師町に住んでいる。野外で行為に励むことはあっても旅館に入るのは初めてのことで、胸の高鳴りを感じた。

 女はすでに部屋を取っていたようで、ポケットから長さ二十センチメートルほどのガラスの角棒の先にボールチェーンでぶら下がるカギを取り出す。部屋の位置は覚えていなかったようで棒に書かれた数字と扉の番号を確認しながら進み、一つの部屋の前で止まり、竹山に振り返った。

「いいか、黙ってろよ。あとお前は勝手に食うんじゃねえぞ」

 女はそう言いながら扉を開けると竹山を先に入るように促した。

 女が扉を開けた瞬間、竹山は部屋から溢れ出る臭気に思わず吐きそうになる。部屋の匂いは異常なまでに酸っぱく、女の後ろを歩いている時に感じていた匂いを凝縮したような、目に染みるものだ。入るのを少し躊躇いそうになったが、ここまで来たのだからと意識を切り替え堂々と中に入る。入って直ぐ目の前に開けたままの襖がありその奥は和室になっている。扉から襖までのわずかな距離で違和感を覚え左を向くと、そちらもやはり扉が開け放たれたままの便所だった。高床式の和式便器があり、その便器の淵からは赤黒いものが大量にあふれかえり、高床式になっている段差の下側の床に同じく赤黒い小さな山ができ上っていた。

「止まるんじゃねぇよ、進め」

 女は竹山を足で寝室側へ押しやり、自分は便所へ向かって行った。

 竹山が通された部屋は十畳ほどあるかと思われる和室。もちろん畳が張っているので枚数を数えれば何畳の部屋かわかるのだがそこまで気になるものでもない。部屋には卓袱台を挟み座椅子が向かい合うように並んでいる。卓袱台の脇にはチャックの開いたスポーツバッグがあり、服が乱雑に散らかっている。フワッとして、ヒラヒラとした安っぽく工業製品じみた臭いを放っていそうな独特のデザインと生地感。大食い大会時にはっきりと女の姿を確認しなかったのが悔やまれるが、状況証拠的に考えてみると、おそらくこの女で当たりだろう。ここまで過剰装飾を施された服を着る女はこのような田舎町には存在しない。もし目立つ格好をする女がいたら、親兄弟をはじめ親類一同村八分にされてしまうだろう。男衆は着飾った女も好きだが、田舎の女は足を引っ張りあうのが当然であり、誰であれ若い女が頭一つ抜け出るなど許したりはしないものだ。

 ひとまず持たされていた買い物袋を全部卓袱台に置く。置いてから気づいたが、両の掌が袋の重みで切れそうになっている。全部合わせて五キロは軽く超えていそうだ。もちろん液体も含めての全部なので、ここにある食糧を全て食べつくせと言われたならば、竹山でもおそらく食べきれるであろう。しかし今は無理だ。まだ何も食べられない。それもそのはず、竹山は大食い大会の後、まだ便所へ行っていないのだ。食べるものと、出ていくもの、腹の中で収まる位置が違うとはいえ、同じ腹に詰め込むのだ。上の方で溜まっていようと下の方に溜まっていようと、そんなものは誤差に過ぎず、いったん出して腹にまた詰め込む空間を用意しない限り何も食べられない。腹に詰め込みすぎたせいで、下へも行き場がなく、そのせいで詰め込まれたものの消化が進んでいない気さえするのだ。

 現実逃避しながら、あえて意識を食料にだけ向けていた竹山だが、途中で諦めた。もう誤魔化せない。襖で隔てたその向こうから漏れ出てくる音、それして溢れ出てくる臭い。部屋に入ってからまだ数分だが、女はずっと吐いている。信じられないことに数分間吐き続けている。くぐもった息継ぎの音を不定期に挟み、体中を振るわせるような変な音を立てながらずっと吐いているのだ。何がそんなに入っているのか竹山には想像もつかないが、音を聞くに吐きっぱなしだ。竹山も吐いたことぐらい人生で何度かある。ただ、それらの経験は、あっさりとしたものだ。グボっと塊じみた何かが出たり、シャバシャバした水っぽいものが出たり、種類の差はあれど、まるで波のように寄せては引いてを二回か三回繰り返すことで終わっていた。それがこの女の嘔吐は気色が違う。寄る波ではなく平坦なのだ。音だけを聞いていると細く長く出続ける小便のよう。しかし女の場合、小便とは違い呼吸するための息継ぎでところどころ嘔吐が止まり、すぐにまたビチャビチャと液体が液体の上に注がれているような音が続く。首が細いから嘔吐も細く出るのかもしれない、しかし出口が狭くなればなるほど圧が高まり、小便のような音にはならないはずだ。珍しく好奇心が逸らない。見たいという気持ちが湧かないでもないのだが、臭いと音が激しすぎて近寄りたくないのだ。あまり関わるべきではないと暗に諭していた森本の忠告も、知ってしまえば正しかったようだ。もちろんこの異常性を目の当たりにするまで、森本であれ他の誰からであれ、どれだけ説明されようと信じることはできなかったのだろうが。


「ふー、あー、げふっ、あーもうダメだぁ」

少しして女が寝室に入ってきた。鼠色のスウェット生地は、上から下まで色が変わっている。首元から腹にかけて、汗を吸ったのか真っ黒に濡れ、その上から茶色や黄色といった全く清潔に見えない大小さまざまな大きさの固形物や跳ね跡がまるで最初からのデザインであるかのようにこびり付いている。肩から腕までは鼠色のままくすんだ汚らしい茶色でまだら模様になっている。そして下履きの方はさらに汚らしい。股間部から足首まで、両足の内側が小便を漏らしたのか、黒くなっており、そして飛び散り跳ね返った吐瀉物が上半身のそれよりも一つ一つが大きな塊でこびり付いている。ダメだと言いながらもその手は袋を漁り、またパンを取り出した。

「あんた大丈夫か? あんた俺を心配にしているぞ」

 思わず竹山は女を気遣ってしまう。それほど女の様子がおかしいのだ。見た目はもとより顔色や顔つきも。よく見ると顔どころか髪の毛まで吐瀉物に濡れそぼっているのに、拭きもしない。竹山は女に幻想を抱くお子様ではない。それでもここまでの生理的、常識的な衛生観念が完全に欠如した醜さを持つ女は初めてだ。心配しても無理はないだろう。

「あー、誰? お客さーん? ごめんねーいまちょっと忙しいのー」

焦点が定まっていない呆けた顔で女は言う。

「客じゃない。忙しくていい。見させてもらう」

 女は会話ができる状態にすらないこと感じ取った竹山は、部屋の角に座り込んだ。女と話をするのは無理だと諦め、女が起こす行動を見て勝手に判断しようと気持ちを切り替えたのだ。

「邪魔なんですけどー。女が食べるとこなんて見ちゃいけないんですよー」

 女は正常であれば鼻にかかった可愛らしいと思い込んでいそうな声を出す。今は掠れてくすんでおりガサガサと耳障りな音にしか聞こえない。鼻にかけた奇妙な話し方は、男どころか女からも嫌われがち、それは竹山でもすでに学んだことだ。なぜあからさまに嫌われるとわかっていながらも、それが可愛いと矛盾した思考を続ける人間が存在するのか不思議でたまらない。そもそもさっきから女の口調が安定しておらず、今一つ読めない。

 卓袱台を視界に収める位置で、竹山は静かに女を見やる。女はパンの類を食べながら袋の中身を全て卓袱台に並べる。どういった計算によるものか、買いながら食べ始め、歩きながらもパンを食べ続けていた、いまこの部屋でパン以外を並べ、並べ終わるころにちょうどパンが尽きた。計算尽くだったのか、それとも単にパンを食べる速度を調整したのか竹山にはわかるはずもない。ただただ一連の流れが美しく見えた。

 女は目の色を変え、買ってきたかばかりの食材を凄まじい勢いで口に詰めていく。箸など使わずに右手はスプーン、左手は素手で休む間もなく手を動かしている。ところどころ呼吸する替わりであるかのように大き目のペットボトルから直に茶を飲み下す。全てが汚らしい。部屋に戻ってからの嘔吐、その飛沫で全身が濡れ、臭い立っている。もちろんスプーンの柄、手掴みで食べている左手、すべてが茶、黄、緑と汚らしい色彩で、固形物交じりの粘度が高そうな物質でまるで膜でも張っているように覆われ、ヌラリと電球の光を反射している。

「そういや、げふっ。お前さっき私を殴ったよな」

 女は突然思い出したように、食べながら、竹山に声をかけた。卓袱台の端から端まで次に何を齧るか見定めるように目線は揺れているが、時折竹山のことも視認していたようだ。

「ああ。叩いた。あんた、聞かなかったからな俺の話を」

「馬鹿じゃねぇの? なんで見ず知らずのガキの話なんか、タダで聞いてもらえると思ってんだよ。こっちは東京で体張ってるプロのキャバ嬢なんだぜ。だからこんな田舎は嫌なんだよな。日本の裏のこっち側は特によぉ」

 竹山は生来の性格的に隠し事をしたり嘘をついたりしない。しかし女はその竹山を上回りそうなほど、さっぱりとしているようだ。大食い大会の優勝インタビューとは大きく変わり、男性的な話し方になっている。

「あんたに聞きたかったのは、どうして食べるそんなにいっぱい。でも、わかったからいい。吐いてるからだろ」

 竹山が一番聞きたかったことは、もう見て、聞いた。凄まじい勢いで全てを吐ききっているから食べられるのだ。もちろん吐く、ただそれだけでは女が竹山よりも多くの食物を腹に詰め込められる説明にはならない。しかしこうも目の当たりにすると、あとは反復練習でなんとか詰め込むことができそうに感じられる。そもそもの前提が違っていたのだ。吐くことなど思いつきもせず、ただただ腹に詰め込むのと、吐くことを前提に詰め込んでは吐き、腹が空っぽになるとまた腹が減るので再度詰め込むのとでは訳が違うのだろう。試したことはないが、見ているだけでどんどん一時的に詰め込められる量が増えると理解できた。

「なによ? あんたも吐きたいの? 止めときな、地獄だよ。吐くたびに死にたくなんだぜ。でも吐き終わったら腹減ってるから食べちまうんだ。食べちまうとまた吐かなきゃいけない。体に必要なものまで全部出しちゃうから脳みそが本能的にどんどん食べろって命令を出すんだ。そうすると吐く前よりも食べられるようになんだよ。それに食ってる間は脳みそが求めてるからめっちゃ幸せなんだ。でもな、いつも栄養が足りてないから脳みそは萎縮するし体だって常に調子悪い。脳みそが壊れちまうから止められなくなるんだよ」

 女はお湯を注ぐタイプのインスタントラーメンを用意しながら初めて長々と言葉を繋いだ。聞いていた竹山は、なるほど、と思わされた。心が壊れていると言った森本の言葉と、なにか繋がるところがあるのだ。女の説明にもあったように、脳の何かが壊れているのだろう。どうすれば大量に食べられるのかが知りたかっただけの竹山は、別に自分も吐こう、吐いてまでして今よりももっと食べようなどとは思っていない。複数のインスタントラーメンにお湯を注ぎ終わった女は、注いでいった順に食べ始めている。最初にお湯を注いだラーメンにしてもまだ一分も経っていない。麺が湯で戻りきっておらず芯が残り硬くてまずそうだ。しかし女にとっては味や食感など些末な事柄であるらしい。またもや目の色を変えて餓鬼のように貪っている。先ほどと同じく、こうなってしまうと会話にならないだろうと、竹山は、一人頭の中で女の言葉を噛み砕き吟味することにした。

 女の話では食べるから吐き、吐くから食べてしまう。おそらく食べ過ぎてしまうから吐くのだろうと竹山は想像する。食べ過ぎてしまったから吐く、そうするとその食べたものが体に残らず栄養素が取り込めない。そうだろうか。一食抜いただけで人は栄養失調になったりするのだろうか。竹山自身、記憶にある限り一番長い絶食でも二十四時間ほどだ。晩御飯を食べ、就寝し、その次の日の晩まで食べなかったことが一度ある。こんな些細なことは記憶していないだけで他に何度も経験しているだろう。しかしその時に命の危険を感じたり、次の晩御飯をこの目の前の女のように獣じみた醜悪さで貪ったわけでもない。一日食べていなかったそれ相応に、腹を空かしていただけだ。

竹山は思考の視点を少しずらして考えてみる。食べていなかったから食べ過ぎるのではなく、腹、と言うよりも体の全部が空っぽだから食べ過ぎてしまうのかもしれないと仮定してみる。竹山は想像する。体が乾いたスポンジで、食物は液体だと。液体で満たされた洗面器に、握力の限りを駆使して絞り切り、カスカスになったスポンジの角をすっと漬けてみる。あくまでも想像だが、水面と接するスポンジの角がかなりの勢いで水を吸い上げていく。そして、スポンジ全体に水が行き渡り、そうするともうスポンジは水を吸い上げなくなる。そのスポンジを小さく潰し絞る。水が抜ければまたスポンジは吸水性を発揮する。頭の中で何度かこの画を繰り返してみたがなにか納得がいかない。

インスタントラーメンを流し込む合間に、いつのまにか蓋を開けていたバニラアイスクリームを啜り飲む女を見ていると、何に納得がいかないのかが分かった。食べる量だ。竹山が頭でシミュレートしたスポンジでは、確かに乾いていると勢いよく水を吸い上げられる。吸い取った水を吐き出し尽くせばまた水を吸わせることができる。ただ、その繰り返しなのだ。何度水を吸って吐いてを繰り返したところで、段々と吸える水の量が増えるわけではない。下手をするとその逆で、スポンジが劣化することで、吸える水の量が減る可能性の方が高そうに思える。目の前で飽きることなく食物を貪り続ける汚らしく醜悪な女を見るでもなしに眺める。いったいなにがあればここまでの食欲が湧くのだろうか。

「はー、あんたぼーっとしてんならそこのバッグに入ってる薬取って。ピンクの箱と赤い箱の二つでいいから。ほかの色の箱は今はいらなーい」

 女は黙って思案している竹山の存在を思い出すと、薬を取るよう頼んだ。竹山も断る理由がないどころか、いったいこの女が何の薬を飲んでいるのか興味が湧く。ピンクと赤の箱、すぐにわかればいいのだが、とバッグの中を漁ってみると、すぐに見つかった。そもそも箱の薬はピンクと赤の二つしかなく、他にも色々入っているが、それらは瓶であったりビニール袋であったり、箱ではなかった。箱の文字を読んでみると、商品名はカタカナだが、困ったことに薬品名は漢字で書かれており竹山には読めなかった。

「これは何の薬だ?」

 わからないことは素直に聞ける。外国育ちの利点の一つである。わからないものはわからない、わからないことを聞くのは当然で、わからないまま聞きもしない人が日本には多くいており不思議だ。

「お前には関係ないだろ! さっさと寄こせバカ!」

 聞くことで誰もがなんでも教えてくれるとは限らない。竹山にだってわかっていることだ。ただ、聞かなければ知ることができないし、そして、回答いかんによって竹山の気分を害することだってある。竹山の日本語聞き取り能力は、単語レベルで解らない物もあるが、文章の理解については問題ない。残念ながら日本語での文の組み立てがあまり上手くできず、そのために時折何を言われても黙って泣き寝入りする愚鈍の子供だと勘違いされることもあるほどだ。

 パラグアイでは集落の年長者達について狩りに行ったこともある。狩る側は狩られる相手に威嚇などしない。それどころかできる限り気配を消すのが上手く狩るコツでもあるのだ。学校で喧嘩することもたまにあるが、そのたびに周りから様式美に欠けると言われるほどだ。日本の田舎町では殴りあうことはほとんどせず、唇が触れ合う距離で奇声を出し合い、奇声に気付いた誰かに止めてもらうのが正しい喧嘩だそうだ。

竹山は無駄を省いた動きで箱を手に掴み立ち上がる。自身の左半身で隠れるところまでぐっと大きく右半身を後ろへ引き絞り、薬を振り被るとそのまま卓袱台越しに女の顔へ叩きつけた。立ち上がり振り被った手の高さから座椅子に座る女の顔面へ、高低差を活かし、吸い込まれるように女の鼻梁に手が食い込む。枯れ枝が折れるような乾いた音が竹山の掌底に響く。

インスタントラーメンを啜りながらバニラアイスを眺めており竹山を見ていなかった女は衝撃で畳の上をもんどり打った。斜め後ろに一回転すると、横向きの変な姿勢で大量の吐瀉物を吐き出す。まるでねずみ花火のように、口から溢れ出る吐瀉の勢いで体がゆっくりと円を描くように回転しだした。

女は液体と固体、そのどちらでもあるようで、どちらでもなさそうな訳の分からない物質を吐き出し続けている。おそらく息継ぎもできていないだろう。インスタントラーメンのせいか、ほとんどが茶色く塗れているが、横幅四センチメートルほどの赤黒い塊が竹山の目にとまる。よく見ると数本の歯がついた歯茎だ。先ほどの竹山が殴った衝撃で、上顎骨が剥がれ落ち、肉ごと塊でポロっと取れたのだろう。汚らしいので触りはしないが、観察してみると歯は溶け、形状はほぼ三角形でやたら黒ずんでいる。予測不能な動きで吐いている女の口は、様々な穢れが溢れ、どの歯が抜け落ちているのかも確認できない。歯が数本ついたままの肉塊は珍しいので、森本に見せてやるために持って帰ろうかとも思ったが、汚すぎるため触らないことした。

竹山は学生ズボンの裾を膝まで捲り上げると、寝室を抜けドアへ向かった。かなりの量の汚物が飛び散って脛を汚す。ドアの前で洗面所に置いてあった綺麗に見えるタオルで軽く汚れを落とし、靴下を脱ぎ棄てると、そのまま振り返ることもなく部屋から出ていった。後ろ手に閉めたドアの向こうからはまだ液体が漏れ出る音が響いていた。


掃除の人は大変だろうな。そんなことを考えながら裸足で靴を履くと、念のため森本と別れたボーリング場の駐車場へ向かってみたところ、先ほどと変わらない場所に森本の原付が停まっていた。半々ぐらいの確率で森本がまだこの町にいるかも知れないと期待していた竹山は嬉しくなる。肝心の森本本人は見当たらないが、そのうち現れるだろう。竹山はまたコンビニエンスストアへ向かい、再度飲むヨーグルトを買い、森本を待つことにした。


「で、どうだったよ? アレおかしかっただろ? まさかと思うけどやったのか?」

程なくしてボーリング場へ戻ってきた森本が跨る原付の後ろに座り、帰路につくと同時に森本が聞いてくる。街灯もない月明りと原付の水垢がこびり付いた黄色いヘッドライトが弱々しく照らすまともに舗装されていない道路以外何も見えない田舎道。前を向いて原付を走らせているはずだが、なぜか竹山には糸を引く乱杭歯が厭らしくヌトつく森本の顔が想像できた。

「何もしてない。お前が言った通りアレは壊れていた。汚い」

「ははっ、そうだろうよ。まず汚ねぇし、あのレベルまで行くと体がおかしくなってるからやることやりたくできないしな。濡れねぇから入らねぇんだよ」

 森本の性的活動に興味はない。だから竹山は森本にそういった異常な経験があるのかどうか聞いたりはしない。知ってか知らずか、森本が得意げな顔をしているのが目に浮かぶようだ。

「竹よ、アレが吐いてるのは見たか? 流石に吐いてるところは見せてもらえなかったかな? 大きく分けて三種類の吐き方があるんだよ。指、腹筋、チューブってな」

 森本は得意げに話を続ける。自分の持つ特殊な知識をひけらかしたいのだろう。

 竹山は少しだけ物理的な苦しみがましになった腹を、汗で湿りベトついている森本の背中に押し付けないように原付の後ろの端に座りなおすと漁師町まで静かにしていた。詰め込んだ麻婆豆腐による肉体的な気だるさと、ゼッケン一番のおかげで新たに知ることができた日本の隠れた文化。心地好いわけではないが、充足感に溢れている。一人でなにか楽し気に話続けている森本の背に、原付のマフラーが奏でる間の抜けた音でどうせ聞こえないだろうし聞く気もないだろうと判断し、適当な相槌だけを繰り返す。

 潮の匂が混じる、湿って生縫い夜風を鼻から吸い込むと、竹山はひとつ大人になった気がした。



高校生活は特筆すべきこともなく終わった。留年もせず、途中で停学になったり行方不明になったり、はたまた都会に憧れて家出することもなく、極めて平凡なものであった。工業高校を卒業した竹山は、地元の自動車部品製造会社に就職したあと数ヶ月で退職し、流れに流れ、様々な土地に移り住んでいた。仕事はどんな時期でも常に募集のかかる自動車部品製造ラインでの期間工だ。

 駅前麻婆豆腐以降も森本に誘われるがまま大食い大会に参加はしていたが、基本的にどこの何の勝負であれ勝っていた。あの時のゼッケン一番のような選手には出会うこともなく、心のどこかで寂しい思いを感じていた。森本に聞いたところ、ゼッケン一番の女は駅前麻婆豆腐大食いの後、その日の夜、もしくは翌日早くに旅館で亡くなったそうだ。田舎町で余所者、特に大都会東京から来た妙齢の女が死亡するなどイメージダウンも甚だしいため、迅速に処理されたと聞かされた。しかも処理にあたって遺体は竹山の住んでいた漁師町に移送され、そのままいずれかの漁船に乗せられたとのこと。この日照時間が少ないうらぶれた田舎では、表に出したくない死体や町長や村長に逆らう者、そういったものは全部漁船に積まれている業務用の大型撒き餌ミキサーで磨り潰すように引き裂き、海に撒くのが一般的なのだ。

 竹山は体調不良以外の理由で自発的に嘔吐することはなかった。大食いしてしまい苦しくても、吐けばあの女のように死ぬかもしれない、そんな反面教師として記憶に残ってくれていたのだ。さすがに旅館や死体処理を請け負う漁師は口が堅く、森本でさえ死因を把握できていなかったのが心残りだ。

 就職してからというもの、やることなすこと全てが裏目に出ていた。労力を必要としない単純作業で生きていくための金を稼ぐ、そのためだけに就職したはずが、会社組織に馴染むことができなかった。単純な労働力として入社し、来る日も来る日も延々と目の前に流れてくる部品に定められた秒数でナット締め込む。それだけで良かったはずなのだが、社内で定期的な試験があり、自己啓発活動を強要され、挙句の果てに福利厚生の一環として通信教育まで受けさせられたのだ。そんな無駄遣いをするぐらいなら現金支給のほうが嬉しい。それに労働者に勉強をさせる意味も目的も理解できない。なぜなら入社後何十年も勉強させられている古参兵でも、ダメな人間はいつまでも現場でライン工をしているのだ。画一的に金を捨てるぐらいなら、現金受取希望も選択肢にあるべきだ。一事が万事この調子で竹山は金に係ることだけは妥協できなかった。最初から就職ではなく期間工として職を探していれば良かったのだろうが、世間を知らな過ぎた。自然と上長や上司との間でいざこざが起き始め、嫌なら辞めろと言うお定まりの常套句に呼応し何度も離職し転職する羽目になっていたのだ。


「あんたほんまにようけ食べるなぁ。昨日の分はもう誰も食べにこんやろうから、全部入れよか?」

「おばちゃん、ありがとう。でももうこれ以上入らないよ。お腹いっぱいです」

 竹山は転職を繰り返すたびに段々と大陸側から太平洋側へとスライドしてきた。今は寮付きの工場で期間工をしている。工場は三シフト制になっており、二週間ごとにシフトが順に代わるサイクルを採用している。今竹山はちょうど三勤明け、深夜から朝にかけてのシフトが終わり寮に戻ってきたところだ。同じ寮から同じ工場へ、同じ乗り合いバスに乗り込み出勤している仲間が数十人いるのだが、竹山以外はほぼ全員が朝から営業している激安風俗店、それからみんなで仲良く銀玉球遊機に、返ってこない貯金をしに行っているのだ。知的水準が著しく低い環境では、おおよそ生産的活動とみなされない行動こそが見栄え善きものと定義されがちだ。竹山も誘われたが、はっきりと断った。性的な劣情を催したなら金など払わずともなんとでもできる。銀玉遊戯はなぜ金を払って取り上げられるのか意味が全く理解できない。人から吸い上げた金のごく一部を返還することがある、それだけでは賭博とは呼べない。竹山は理解できないものを、理解できないままに楽しむことが苦手だ。

 寮の食堂内をぐるりと見渡すと、テレビが置かれている北の壁に向かうかたちで中年の男が二人座って朝早くの晩御飯を食べている。竹山が覚えていないだけで同じバスで出退勤している仲間なのだろう。反対の南側には窓があり、その窓際の席は等間隔に座席を開けるように三人が規則的な位置取りで座っている。今この食堂に残る男たちと竹山は生きるために金を稼ぎ、そして期間工以外にできる仕事などないがためにここにいるのだ。小銭が入るたびに遊びに行くような人間たちは消極的な選択により、今この寮の食堂でくすぶっている人間は、これしかないがための積極的な選択によりここに居るのだ。竹山に限らず皆一様に、食べ物や金に対する少し強めの執着を持っている。

「そうかい? 今日は少食なんやねぇ。まあええわ、ほかの人らにも鍋さらえてもらえんか聞いてみるわ」

食堂のおばちゃんは竹山が断っても気分を害したりしてない。おばちゃんもわかっているのだ。皆、同じような金額の給料から、同じような額の寮費が引かれているのだ。寮費には食事代も含まれており、竹山だけが大食らいだからと言っていつも多めに食事を出してもらっていれば軋轢が生じてしまう。竹山がこの寮に入ってまだ二ヶ月だが、過去にも大喰らいの人間がいたのだろう、寮のおばちゃんも慣れたものだ。

鍋を持って食堂をぐるりと一周回ったおばちゃんは、厨房に戻り洗うために鍋に水を張り出すと、声を張り上げた。

「あんたら、今日の夕方暇か? 向かいのバス停から乗って、港市場前で降りたら催し物やってるから行っておいで。地元の魚と地酒が入場料千円で呑めるんやで。たまには外の空気吸ってええもん食わなあかんで」

 おばちゃんの言葉に食堂内の六人が顔を見合わせる。今ここに座る六人は同じ工場バスで帰ってきたはずなので同じシフトだ。ちょうどシフトが切り替わる日でもあり、次の出勤は二日後でしかも日勤だ。することもないシフト切り替えの休み、外へ出る時間だけはみんな十分に持て余している。それでも普段会話どころか寮の風呂や便所で会っても挨拶すらしない間柄であり、誰もが誰かと一緒に行動するなど考えられない状況だ。

「別にあんたらみんなで仲良う行っといでって言うてるんとちゃうで、今仕事終わったとこやねんから。ご飯食べて、風呂入ってちょっと寝て、それで起きてから暇な子らは勝手に行っといでってことや。入場料払ったら中ではなんでも飲み食いし放題やからたまには楽しいと思うで」

 おばちゃんはゴム手袋をはめ、洗い物を始めながらも通常より大きめの声で食堂内全員に語りかけている。確かに悪い話ではないな、と竹山も思う。寮があるのは海沿いで、工場があるのも海沿いだ。大型の原材料を取り扱う工場なので、船で荷下ろしできるように海沿いに作られているのだ。バス停で言うところの港市場前がこの寮からどれだけ離れているのかはわからないが、おそらく大した金額にはならないだろう。田舎のバス路線など、五百円もあれば乗換ない限り往復できるものだ。それに加えて竹山は魚が大好物だ。日本の漁師町に住むことがなければ覚えることもなかっただろう魚の味。日本へ来るまでは、僅かに数回川魚を食べたことがある程度で、魚が美味しいものだと認識していなかった。それでも大伯母の家で日常的に魚を食べるうちに、自然と好物と呼べるほどにまで竹山の中で順位が上がっていったのだ。殺したての魚を生で食べるのも好きだし、殺してから少し時間が経ち旨味が出たものも好きだ。もちろん焼いたものや煮付けたもの好きだ。

 悪くない話だな、竹山そう思う。金は溜まる一方で、使う予定もない。予定がないからと言って性風俗や在日外国人献金賭博に興じることもないのだ。往復のバス代と入場料、合わせて二千円も出せばお釣りが返ってくるほどだとなると、行かない手はない。なんせ魚が食べ放題なのだ。まるまる二千円の出費になったところで、竹山の腹なら簡単に元を取り返せるほど食べられることだろう。

「よさそうだね。後で行ってみます。ごちそうさまでした」

 朝一番の晩御飯が乗っていた食器トレイを洗い場に持っていき、竹山は後で行ってみると伝える。

「あらそうかい、ほなおばちゃんも電話入れとくわ。うちの姉さんらも手伝いに行っとるんよ。あんたにいいもん出すように頼んどいたげる」

 おばちゃんは楽しそうに竹山に返す。電話を入れて竹山の容姿を伝えたところで、誰も竹山のことなど識別できないだろう。服装や髪形に頓着せず、体系だって標準的なものだ。目立たなければそれでいいと心掛けているぐらいなのだ。それでも竹山にだって、おばちゃんが好意で言ってくれているのはわかるため、ありがとうとだけ言うと、寮の共同浴場へと向かって行った。


「次は港市場前、港市場前です」

風呂に入り、少し昼寝をした後、竹山はバスに乗り込んだ。大型の工場があるような田舎町、バスは朝晩のラッシュ時以外は一時間に一本しか走っていない。食堂にいたほかの男たちとバス停で鉢合わせるかもと思ったが、寮の前のバス停で乗り込んだのは竹山一人だけであった。寮の前のバス停から六つ目の停留所が港市場前だ。竹山の他は数人しか乗っていない静かなバスの車内、揺れも手伝い乗り込んですぐにうたた寝してしまったが、甲高く響く機械的な女性のアナウンスで目が覚めた。他の停留所でもアナウンスの音声は同じだと思うが、自分が降りようと考えていたバス停の名前でうまく目が覚めたのは幸運だっただろう。

バスを降りたのも竹山ただ一人。数人の客は乗っていたのだが、誰も港のイベントに興味はないようだ。降りてみると至る所に(みなとまつり開催中)と書かれた幟が立てられている。バスで寝てしまっていたが、起きていれば道中至る所でこの幟が見えていたことだろう。

幟に導かれるように港市場の入り口を目指すと、生臭い魚と鳥の糞が混じり醗酵したような不衛生極まりない田舎の港特有の臭いが鼻腔をくすぐる。竹山が工業高校を卒業してすぐに鬼籍に入った大伯母や、在学中に一家総出で行方不明となってしまった森本、臭いに触発されるようにそういった懐かしい思い出が浮かび、竹山の胸を切なく締め付ける。

入場料金支払い場はトラック出入口の門だった。竹山は工場、そして寮の近くに港があることは知っていたが、どのような規模の港かは知らなかった。業者用トラック出入口があり、その奥は広いトラックヤードになっており、奥の方には上屋が広がっている。平素はその上屋が市場になっているようで、屋根が妙に高い造りになっている。大きな魚、もしかすると重機を用いて鯨でも搬入できそうな空間が確保されている。

トラックヤードらしき屋根すらないだだっ広い地面には、三十ほどの屋台が大きな半円を描くように並んでいる。ちょうど入場料金を徴収する、みなとまつり入り口を円の中心にしているように、すべての屋台が入り口に正面を向けている格好だ。魚介類が焼ける、香ばしい煙が潮風に乗り竹山の髪を優しく撫ぜる。

寮のおばちゃんが言っていた通り、イベントが開催されているようだ。屋台で地場の海産物を売っているだけでなく、適当な催し物もやっているようで、人が集まる一角が見える。誰しもが立った状態で、一方向を見ていた。おそらくその視線が集まるところに、なにか興味深い催し物があるのだろう。そう思った竹山は近づいてみることにした。近づきながら屋台を見てみると、どこもかしこも鰯を使った料理を出している。干物、塩焼き、かば焼き、煮付け、つみれ汁、これらに加えて鰯餃子や鰯焼売まであるようだ。屋台は一軒につき一品しか置いていないように見える。竹山は勝手に推測する。時期によるものか潮の流れによるものか、イベントとして数を揃えられるのは鰯だけなのだろう。

人だかりに近づくにつれ、声が聞こえてくる。結構な人数が応援しているようだが、音を反響するものが何もない青天井の下、港入り口ではなにも聞こえていなかった。

「ゴルダがんばれー」

「いけるいける、もうちょっとや!」

 勝負事でもしているのか、子供たちから声援が飛んでいる。

 人だかりを遠巻きに迂回し、みなの視線の先をうかがってみると、テーブル席に座る女が餓鬼の有様で何かを貪り、お椀を重ねている。竹山は数年前に地元の過食大会で優勝した女を思い出し、ふっ、と笑みが漏れる。名前を聞くこともかなわず、それでも部屋に呼ばれた、そんな甘酸っぱい青春の思い出が胸をくすぐる。

聞き耳を立てていると、どうやら女はつみれ汁の大食いを行っていることが理解できた。小さな鰯団子が四個入っただけの小さなお椀が一人前。女は空いた椀を五杯ずつ重ねているのですでに十三人前も食べているようだ。十四杯目を食べているところでペースが落ちてきたのか声援を受けている。

「いくら入場料だけ払えば食べ放題ったって、プロが来ちゃいけねぇよな」

 少し離れた位置で見ていた竹山に、突然男性の声がかかる。

 振り返るとそこには仲卸業者と書かれた布を帽子に縫い付けた壮年の男性が立っていた。この港に出入りし競りに参加する海の男だろう。

「あの人のこと知ってるんですか? プロなんですか? 大食いにプロ制度なんてあったんですか」

 人見知りしない竹山は、壮年男性に聞き返す。ただの大食い人がプロとして、その道の職人として生きていくなど考えたこともなく、おおいに驚かされたのだ。

「なんや兄ちゃん、あのババアを知らんのけ? 最近ようテレビに出とるゴルダ林ってやつや。あいつはほんま、掃除機みたいになんでも飲み込むやっちゃで」

 壮年男性は大食いする女、ゴルダ林を蔑むような目で見ながら竹山に教えてくれた。

「へー、じゃあ有名な人なんだ。僕テレビ持ってないから知りませんでした。でもあれぐらいだったら僕でも食べれそうですよ。僕もテレビに出れるのかなぁ」

 正直なところ、竹山でもつみれ汁なら十五人前は軽く食べられそうだ。団子状になっているとはいえ所詮は魚だ。口の中でほぐれ、胃に落ちるころには液体に違いペースと状になっているだろう。それを汁で流し込むならかなりの量と速度が期待できる。

「お? 兄ちゃんもしかしてあっこの工場の竹山君け?」

竹山が自分ならどこまで食べられるのだろうかと頭の中でシミュレーションを展開しようとしたところで、壮年男性に名前を言い当てられた。もしかするとどこかの店か何かで挨拶をしたことでもあったのかと思い、壮年男性を正面から見返す。しかし、竹山の記憶には特に引っかかるものが無く、初対面の男にしか見えない。地元の港にもよく似た男がたくさんおり、そのうちの一人なのかもと頭をよぎるが、目の前の男の訛りは竹山の地元のものではない。誰だったかなと思い出そうと頑張っていると男が言葉を繋げる。

「兄ちゃんあれやろ、そこの寮に入っとる竹山君ちゃうか? あこの食堂のおばちゃんが、ワシの母ちゃんの妹なんや。今日アホみたいにようけ食う若いもんが来るかもしれんって連絡うけよったんやけど、兄ちゃんのことと違うんけ?」

 少し不安が頭をよぎったが、なんてことはない、食堂のおばちゃんが連絡をしてくれると言っていたその相手の旦那さんだ。全く知らない土地で、知らない人に名前を呼ばれる不気味さを生れてはじめて感じた出来事だった。

「そうです。僕がその竹山です。おじさんに声をかけてもらえて良かったです。誰が誰だかわからないですもん」

 何に安心したのかわからないが、安堵した竹山は笑顔でこたえる。

「よし、ほな兄ちゃんこっち来い。なんや、めっちゃ食えるんやろ? あのババアと勝負してみるけ?」

 目の前の男が竹山だと確認を取った壮年男性は、鬼気迫る形相で咽て細かい咀嚼物を吐き出しながらもつみれ汁を啜り続けるゴルダ林を忌々しそうに睨みながら竹山に提案する。少し驚きながら、竹山は返答に困ってしまう。今ゴルダは食べ進めており、すでに佳境に入っていそうな雰囲気を醸し出している。今ここで飛び込んで大食い勝負を吹っ掛けたところで競争にはならない。時間いっぱい食べ続ける大食いだけではなく、それなりに早食いもできる竹山だが、お椀で十杯以上の差を覆すことはまず不可能だろう。だからといってゴルダが食べ終えてからその記録に挑戦とやってみたところで、知名度があるわけでもなく、それどころか町に知り合いの一人もいない竹山では盛り上がらないだろう。どちらかと言うと見世物のようになってしまいそうだと予想する。

「あー別にあれやで、今すぐちゃうで。あのババア昼前から一店ずつ順番に食い続けとんねん。一回食い終わるごとに三十分便所に籠って、それから次って感じでな。次がワシの店やねん。あいつ多分便所で食ったもん吐いとるんやわ。ワシら儲けようとしとんやなく、町おこしのために仕事休んで身銭切ってやっとるやでな。あんな食い方されたら気分悪いんやわ。頼むわ兄ちゃん、あのババアに恥かかしたってくれや」

 壮年男性は竹山にとって意外なことを言う。大伯母の家にテレビは置いてあったが、日本語がそう理解できるわけでもなかったため、見る習慣がつかなかった。そして大伯母の家を離れてから、テレビを所有しこともないため、流行り廃りにはかなり疎いほうである。だが、テレビの影響力を知らないわけではない。中学時代に誰かと会話した記憶がほとんどないためわからないが、高校、そして転々と渡り歩いてきた工場、どこでもかしこでも一番目に上がる話題はテレビだ。そのあと銀玉遊戯と性風俗店の話題に流れるのが日本の礼節なのだと理解している。竹山はテレビに出ている人をあしざまに批判する声をこれまで聞いたことがない。有名無名を問わず、一瞬だけのニュース画面であれ、テレビに映ったことがある人は常に話題の中心になるものだと思い込んでいたのだ。

「おじさん、あのゴルダってのが嫌いなの? 恥をかかせられるかどうかわからないけど挑戦しようかな。別に負けちゃってもいいんでしょ?」

「そらな。あのババアが食う量はちょっと異常やからな。一矢報いることはできんでも仕方ないと思う。せやかて頑張ってくれや。次はワシんとこの鰯餃子や。もう下拵え終わっとるから中身少ないやつとかは作られへんけど、焼いとるときに小さいの見つけたら兄ちゃんの皿のに回していったるわ」

 壮年男性にとって、よっぽどゴルダの振る舞いが気に入らないのだろう。竹山も日本に来てから初めて知ったが、日本人、特にお年をめした人ほど食べ物に対する執着が強い。食べ残すことすら受け入れられない文化の中、吐き捨てるなどもってのほかととらえているのだろう。料理を用意するこの壮年男性が竹山の味方についてくれるなら、ちょっと面白くなるかもしれない。テレビで見たことはないが、テレビに出ている有名な女に接近できる機会などこれまでの人生で一度もなかったことだ。普通の人間と何か違うのか、純粋な好奇心で胸が弾む。

「よし、おじさん頼むよ。僕がゴルダをやっつけてみるよ。もうそろそろつみれ汁を食べ終わりそうだから、おじさんの餃子は三十分後ぐらいなんだよね。僕はそれまで他の物をつまみ食いしないようにちょっと散歩に出てくるからゴルダ一人で始めないように引き留めておいてね」

 壮年男性そう告げると、竹山は入ってきたトラック出入口へと踵を返す。大食い勝負をする前に他の物を摘まむわけにはいかない。せっかく入場料を払ったのに、何も食べず三十分も時間をつぶせる気がしないので、外へ出ようと考えたのだ。

「ちょい待ち、上で休んでてかまわん。ワシらの詰め所開けたるからそこで休んどき。他のもん食べるわけにもいかんのはわかるけど、ババアがうちの餃子食いたい言い出した時に兄ちゃんおらな話にならんのや。ワシ一人やったらあのババアを引き留められる気がせんねや」

 照れくさそうな顔をしながら竹山に鍵を見せてくる。詰め所と言いながら指をさしているのは、上屋の屋根がある方向。おそらくどこかについているのであろう階段を上がった位置に詰め所があるのだ。

「そうですか。じゃあそっち行きましょう。僕も一回あの手の女が吐くところを見たことあるんですけど結構早いですからね。三十分後だと遅くなるかもしれませんしね」

「ほんまけ? あんだけ食って吐いたら大変やろ? 口だけやのうて鼻と目と耳と全部の穴からでてきそうやな」

 壮年男性は心底気持ち悪そうに、それでいて笑うしかないと言った風情で、詰め所まで竹山を案内してくれた


「会場では早食い勝負の準備が着々と進んでいます。まずはゴルダ林さんにお話を伺ってみたいと思います。リスナーの皆さまから、ゴルダさんに質問したいことがありましたら、みなとエーエム放送局の代表番号までどしどしファックスを送ってくださいね。それではゴルダさん、本日の意気込みはいかがでしょうか? 今日はもうすでにこの町の名産品を、たーっぷり召し上がられたとの情報が入っていますが、まだ、勝負できるほどお腹に余裕があるのでしょうか?」

 竹山は上屋上部にある詰め所で椅子を並べてゴロゴロしていたが、三十分を過ぎても誰も呼びにこないため下に降りたところでスピーカー音声が耳に飛び込んできた。いつのまにか大々的な勝負イベントになってしまっているようだ。テレビに映れるのかなと少し期待したが、インタビューアーの声はエーエムと言ったため、どうやらラジオ局のようだ。

「はい、勝つ、負ける、ではなく、お腹いっぱい美味しいものを頂きますので結果は勝手についてくると思います。今日はお昼ごろからこちらにプライベートで寄らせていただき、美味しいものをたくさん食べさせていただいて、本当にすっごく楽しませてもらっています。私がテレビで特集を組まれた番組を見てくださった方も多いと思うのですが、消化が早くてすぐに出ちゃうんですよ。だからこちらでずっと美味しいものをいただいていますけど、もうお腹ペコペコです」

 マイクを向けられたゴルダの声が竹山の鼓膜に響く。まるで気風の良い姉御然とした話し方を意識しているような不自然さが含まれる奇妙な話し方をする。言っていることは、竹山にとって文字通り噴飯ものだ。仮に消化機能が常人と違い物凄く強いものだとしよう。食べて出してを常に繰り返すなら、就寝時はどうすると言うのだろうか。腹の中のものを完璧に出し切れるわけでもないだろうし、寝ている間に大便を垂れ流すのだろうか。吸収が追い付かないほど消化サイクルが早いなら、寝ている間に餓死してしまうこともあるだろう。

「おお、兄ちゃん、こっちや! こっち来い!」

詰め所から降り、ゴルダを中心とした人だかりに近づいた竹山に、壮年男性が手を振る。壮年男性の声と視線の先にいる竹山に、その場にいる何十人もが振り返る。竹山にとっては異様な光景だった。知り合いもいない町で、目立つことも、人の注意を引くこともせず、日陰を選ぶように大人しく生きているはずなのに注目を浴びている。言い知れぬ情動が胸を打ち、腹の奥深く熱くなるのを感じた。

「えーこちら港の勝負会場ですが、ゴルダ林さんの勝負相手である、地元の大食い名人、竹山さんが到着されました。竹山さーん、こちらにどうぞ。意気込みを聞かせてください」

 ゴルダの前にいたアナウンサーも竹山に振り返り、マイク越しに呼び掛けてきた。インタビューアーと観客、そのすべての注目を掠め取られたゴルダまでもが憤怒の表情を隠さず竹山を睨みつけている。

「竹山さん、どうぞこちらに。ラジオをお聞きの皆さん、竹山さんへ聞きたいことや応援メッセージなども、みなとエーエム放送局で受け付けておりますので、どしどしファックスで送ってくださいね。さて、竹山さん、本日の勝負はいかがでしょうか? 鰯餃子百二十個早食い対決。ゴルダ林さんは日本に敵なしのチャンピオンですが、勝てる見通しはありますか?」

 インタビューアーは朗らかな声をあげながらも、面倒くさそうな顔をしている。さすがプロの仕事だと竹山は感心させられた。促された先は長テーブルを九十度に置いたその一辺だ。反対側にはゴルダが座っており、なぜか竹山を睨み続けている。

「えーっと、そうですね。今日は大食いではなくご飯を食べに来たつもりだったのですが、精一杯頑張ってみたいと思います」

 何と答えてほしいのかがわからず、無難な挨拶をしておく。ラジオとは言え公共の電波に乗ることが分かっていれば、何か気の利いた台詞を考えておけばよかったと少し後悔する。

「竹山さん謙虚ですねぇ。御存じかとは思いますが、ゴルダさんはテレビでも負けなしで今乗りに乗っています。素人さんが挑戦されることはあまりないと思うのですが、何か大食いの実績でもあるのですか? 竹山さんの大食い歴を教えていただけませんか?」

インタビューアーは本当に興味なさそうな顔をしながら、興味津々だと言った声音で聞いてくる。その不自然な自然さに、竹山は思わず笑ってしまう。

「いや、すみません。なんだか楽しくなっちゃいましだ。えーっと、ゴルダさんね、知らないです。僕テレビを買ったことがないんです。工場の寮に住んでいるので置く場所もないですしね。高校生の頃は地元の大食い大会に何度か出たことがあるんですが、ここ数年は参加したことないです。土日でも夜勤で入ったりしてますから」

 竹山の返答に、インタビューアーが大いに慌てる。その顔には正しく動転した様子が浮かんでいる。

「あー、ゴルダさんを御存じない? これは失礼いたしました。私も恥ずかしながら、自分がラジオ屋であることを失念しておりました。生放送をお聞きの皆さまにも、大変失礼してしまい申し訳ありませんでした。いつの間にか、テレビを見ていることが常識だと思い込んでしまっていたようです。リスナーの皆さまからのお叱りの声、そして御指導御鞭撻いただけましたら幸いです。みなとエーエム放送局、みなとエーエム放送局の代表番号まで、ファックスでお送りくださいませ」

 これがインタビューアーの処世術なのだろう。テレビやラジオの常識など竹山にはわからないが、このインタビューアーは上役に怒られるにしても、会社の宣伝だけはしておきましたので、と罪を軽くしたいのだろう。そう考えると、ちゃんとこの人も人間臭いところがあるのだなと、なぜか暖かい心持になる。ふと、視線をゴルダにやると、さっきまでの怒気に満ちた目ではなく、不思議がるような顔をしていた。竹山を見つめていたため、一瞬だけ目線が交わったがすぐにゴルダの方から逸らしてしまった。食べて吐いてを繰り返す人間は心が壊れている。気にしても仕方がないことだ、そう竹山は自分に言い聞かせる。

「えーそれでは、本日のみなとエーエム放送局、地元再発見の放送時間も残り三十分になってしまいました。過食勝負、地元名産カタクチイワシをふんだんに練り込んだ鰯餃子百二十個早食い対決を始めていただきましょう!」

 インタビューアーが言うや否や、竹山とゴルダの席に重そうな大皿が二枚ずつ運ばれた。中には中心から淵に向かい、時計回りに巻きながら餃子が敷き詰められている。餃子一つの大きさは、普通としか言いようがない。大きすぎることもなければ小さいというわけでもない。どこででも見かける普通の大きさだ。

「それではお二人とも、心の準備はよろしいでしょうか? 生放送をお聞きの皆さまと、このみなとまつりにお越しのみなさんも、一緒にカウントダウンをお願いします。お二人はスタートの声で食べ始めてくださいね。それではいきましょう。みなとエーエム放送局地元再発見コーナーで放送しております、地元名産カタクチイワシをふんだんに使った餃子百二十個早食い勝負の開幕です。それでは皆さんご一緒に。五、四、三、二、一、スタート!」



「追加はできませんか? そうですか、わかりましたありがとうございます。次の機会があるならもっと用意しておいてくださいね。えー、皆さまからのファックスを読ませていただき、コマーシャルを挟んでいた間の出来事ですが、実況が追い付く前に早食い勝負が終わってしまいました。私は現場で見ていたのですが、時間にして三分ぐらいですかね……。どちらが早く食べ終わるのか、その点にしか注目していなかったので、正確な時間は計っていませんでした。しかも二人ともほぼ同じタイミングで食べ終わったので、なんというか、どうしましょうかねぇ。とりあえず、最強のチャンピオン、ゴルダ林さんにお話を伺いたく思います。ゴルダさん、手応えはいかがでした?」

 量が決まっている早食い勝負であったため、竹山はただ淡々と、口に詰め込み、舌で潰し流し込むことを繰り返した。しっとりと柔らかい餃子であったので、咀嚼する必要性が感じられなかったからである。無意識的に噛み潰している部分もあったのだろうが、ほとんどが潰されることなく胃に流し込まれた。そのため竹山の腹はパンパンに膨れ上がっている。竹山は自分の皿にだけ集中していたため、ゴルダの食べ具合を見ていなかった。ゴルダがインタビューアーにどう回答するのか興味が湧く。

「そうですね、こちらの餃子とても美味しかったです。一般的な豚肉を使った餃子ではなく、魚を使っていると聞いたので、どんなものが出てくるのか楽しみだったので、参加させていただいて良かったです」

 ゴルダの回答は味や速度に言及するものではなかった。聞いていて面白くもない。会話になっていないわけではないが、相手の求めることがよく分からないのだろう。

「そうです、魚です。こちらの名産の一つ、カタクチイワシをふんだんに使った鰯餃子でしたが、お味の方はいかがでしたか?」

 竹山と同じくインタビューアーももっと具体的なことが聞きたいのだろう。

「美味しかったです。骨が刺さることもなく、飲み込めました」

「そうですか。いや、えー、それは何よりでした。ところで、そのーなんと言いますか、早食い、しかも強烈な速さで食べ終わりましたが、何か作戦でもあったのでしょうか?」

 打てど響かずを体現するようなゴルダの受け答えに、インタビューアーも言葉選びに困っているようだ。どうせこのあと竹山に同じ質問が来るのだろうと予想し、竹山もゴルダへのインタビューを聞きながら回答を考える。

「作戦は特に考えていませんでした。美味しくいただく、楽しんで食べられたのが良かったかなと思います」

 聞いていて本当につまらない受け答えだ。おそらくインタビューアーも焦り始めてきているのだろう、額に汗が滲みだしている。勝手な竹山の想像だが、こんな田舎のローカル放送局がテレビに出ている有名人を独占取材しているのに、なんの面白さも伝えられなければ上役に怒られてしまうのだろう。

「そうでしたか。いや、地元の人間として、名産品を楽しく味わっていただけたようで何よりです。それで、早食い勝負の方ですが、私の目には竹山さんとほぼ同じタイミングで食べ終わったように見えたのですが、ゴルダさん御自身の判定はどのようになっていますか?」

 もともと早食い勝負をするために場が設けられているわけではない。司会も審判もおらず、ただ竹山とラジオ局の番組が飛び入り参加しただけなのだ。それがまさか勝負がもつれるような結果になるとは誰も想定していなかった。一対一の勝負であるため、どちらかが食べ終わった時点で、もう片方はまだ食べ続けている、そんな明らかな結果が出るのだろうと竹山も含めた皆が思っていたのだ。

「わかりません。ほぼ同時に終わったので、引き分けでいいんじゃないですか? 竹山君でしたっけ、彼も素人の大食い人にしてはかなりレベルが高い方だと感じました。本気で練習すれば過食チャンピオンの私に追いつくことはできなくても、いいところまで来れるかもしれませんね」

「さすが現役チャンピオン、自分から引き分けでもいいと言える余裕が凄いですね。それではゴルダさんから、おそらくその才能を認められた竹山さんに話を聞いてみましょう。竹山さん、お疲れさまでした。あっという間の勝負でしたが、ご自身で振り返ってみて、いかがでしたか?」

 ゴルダの話を公共電波に乗せても、あまり面白くなさそうに感じたのか、すぐ竹山に回ってきた。

「苦しいです。箸で掴めるだけ掴んで、飲み込んでいたら終わりました。餃子がカリカリ系じゃなくフワフワ系だったので飲み込みやすかったです。ちゃんと味わえなかったのがもったいないです。全部で一キロ以上あったんじゃないですか? もうダメです、せっかく来たのに他のものが食べれなさそうで残念です」

 竹山はゴルダへの質問を踏まえたことで、多少はまともに回答できた気がする。公開質問に慣れているどころか、人前で注目を集めることもなかった竹山は少しあがってしまい、即興で組み立てた言葉を全部出せたかどうかがわからない。答えた通り、腹が苦しいのだ。正確に何キロあったのかはわからないが、せっかく勝負するのだからと頑張って詰め込みすぎてしまった。

「それにしても凄い速さでした。ゴルダさんに負けず劣らず。ゴルダさんの言葉にも出ましたが、大食い人としては凄まじいポテンシャルを秘めておられるようです。これを機に、過食人を目指したり、そういったことは考えられたりしませんか?」

 インタビューアーは、放送時間いっぱい早食い勝負に割き、ゴルダの圧勝と言う形で締めくくりたかったのかメモ帳すら持っていなかった。それがいつの間にか台帳を手にし、何かを走り書きしながら竹山に質問を続ける。

「過食人を目指すかどうかですか。んー考えたこともなかったです。お金稼げるんですか? お金が稼げるならやってもいいと思いますけども」

 竹山はごく自然に、素直な想いを口にする。今の期間工員としての仕事だって、したくてやっているわけではない。大伯母が鬼籍に入り、その親類、つまり竹山の叔父や叔母や従兄達に全てを持っていかれてしまったため、自分で生きていくしかないのだ。出自が不明でもあり、戸籍や登記がどうなっているのかも把握していない。そんな竹山はアパートの賃貸契約もできず、寮付きの会社に拾ってもらうことで何とか人並みの生活を送れているにすぎない。

「お金ですか。私どもには何とも明言しづらいものがある上に、完全な個人情報にあたるためゴルダさんに公共の電波上で質問することはかないません。ですが、テレビ局主催の過食大会で優勝すると賞金も設定されていますし、その系列番組で呼ばれることも増えると思いますので食べていく分には困らないと思いますよ。ただ、私個人としては、この地元に籍を置くみなとエーエム放送局の番組で発掘した竹山さんに全国デビューしていただければ、私どもの注目度も上がりそうなので期待したいところです」

 悪い話ではない。竹山はそんな印象を受けた。ただただ食べるだけ。現在の勤務のように日勤、夜勤、深夜勤を繰り返すことで慢性的な寝不足になることもないだろう。毎日何千回もナット締めに使うナットランナーの振動で手首の関節が摩耗することもないだろう。いったいいつ頃からかもわからないが、寝起き時など手首にじんわりとした痛みを感じることが増えてきている。それでも金の面ではそれなりに潤っている。食事が出るため、わざわざ外に出たりしない竹山は、仕事以外の時間は寮で寝て過ごしている。おかげで毎年百万円以上の貯金ができており、少しの期間だけなら冒険してみて面白いかもしれないと感じたのだ。

「大丈夫です。もし竹山君がこっちの世界に興味を持っているなら、私のカバン持ちをさせながら教育します」

 と、ゴルダが横から口を挟んできた。最初は竹山を睨みつけていたのに、弟子にするなど、どんな心境の変化があったのか想像つかない。

「あ、今ゴルダさんの方からカバン持ちをさせてあげるとお声がかかりました。竹山さん、いかがですか? 修行してデビューして、きっかけとなったこの港市場、そしてみなとエーエム放送局をテレビで口に出していただけると私どもも嬉しいところなんですがね。あー残念ながら本日のみなとエーエム放送局、地元再発見の放送時間もそろそろ終了となります。ゴルダさんのことはもちろん、地元の超新星竹山さんのこともみなとエーエム放送局で追いかけていきますので、これからもよろしくお願いいたします。ではこちらお集りの皆さんも、リスナーの皆さまも、港市場でみなとまつりを今月いっぱい毎週土日に開催していますので、ぜひ足を運んでくださいね。それではまた来週―」

 インタビューアーは適当なところで話を切り上げると、また完全な無表情に戻り、放送局の名前が大きく書かれたアンテナ付きの車両へと引き上げていった。

「えーっと、ゴルダさん。僕は今仕事があるので弟子入りすることはできません。またどこかで会ったらよろしくお願いします」

 竹山とゴルダの二人だけが座った状態で現場に残され、司会をやってくれていたインタビューアーもいなくなった。それでも観客じみた人の山が二人を囲んでいるのでどうすればいいのかわからず、適当な挨拶をした。

「竹山君、あなたほんとに上を目指せると思うんだけどね。私のところでカバン持ちやればすぐにデビューできるのよ。すぐにスターよ。なんでわからないの? 今、はいって返事しないとテレビに出れるかどうかわからなくなるのよ? あなたのために言ってあげてるのにどうしてわからないのよ!」

 社交辞令で次もまたよろしくと言ったので、てっきりこちらこそと言った返事が返ってくると思っていたのだが、やはり相手は心が壊れているのか非常に興奮し始めている。自分の言葉で感情がエスカレートしていき、媚びた声が怒鳴り声になり、最後の方は絶叫に近い。そんなゴルダを見ている竹山は高校生の頃の大食い大会で出会った女を思い出す。その日か次の日には残念なことに亡くなってしまった、骨と皮だけなのに張りがなく全体的に弛んだ女だった。彼女もゴルダと同じく、言動が少しおかしかったような記憶がうっすらと残っている。心が壊れているから過食するのか、過食するうちに心が壊れるのか竹山にはわからない。

「ありがとうございます。仕事がありますので今すぐにとは考えられないです。健康保険と年金をどうするかってのもわかりませんし。またどこかで機会あればよろしくお願いします」

 心が壊れた人と会話が成り立たないのは、たった一度の経験だが体が覚えている。相手が満足するまで我慢するしかないのだ。人前でなければ一度殴れば相手も目を覚ますのだが、今は大勢が注目しているのでただ耐えるしかない。

「なんで? なにが不満なの? あなたわかってない! 私はもう芸能人をやってるゴルダ林よ! なんで私の言うことに従わないの? いいわ、もう。徹底的に潰してやる。すいませーん、お替りください! 二人分、すぐに用意してください! 見物のお客さんもどっちが勝つか決着つくまで見ていってください!」

 限界まで興奮したゴルダが延長戦を仕切りだす。竹山はさっきのインタビューでも答えたように、満腹だ。はっきりと満腹だと言ったのに、ゴルダには理解できなかったのだろう。

「おばちゃん、もうええがな。引き分けでええやないの。うちもう餃子残ってへんで。だから百二十ずつって半端な数字で食ってもろたんや。あれで全部やったんや。もうええやろ、今日は帰れや」

 鰯餃子を提供してくれた壮年男性がゴルダに答える。しかし、誰にも予想できなかったことだがゴルダは壮年男性に食ってかかった。

「あんた何失礼なこと言ってんのさ! いいから早く出しなさい! 私が食べてあげるって言ってんだからあんたらは黙って喜んで出せばいいのよ! 餃子がないなら他のものでいいから早くしろ! 吸収が始まってんだよ、こっちは! 底入れてないんだから早くしろ! 太ったらどうすんだよバカ!」

 ゴルダは唾をまき散らしながらヒステリックに絶叫する。人だかりの前方に集まっていた子供たちはゴルダの変貌、もしくはテレビで見ていた過食有名人のイメージとの違いで今にも泣きだしそうになっている。その一方で港の大人たちは、さすが大人と言った対応をしている。ただ黙って見ているのだ。誰もいきり立たず、ゴルダを静観している。それほどまでにテレビの影響力、もしくはテレビに出ている人間の神秘性があるのかどうか竹山にはわからないが、ゴルダの声だけが甲高く響き渡る。

「それじゃあ僕はこれで失礼しますけど、ほんとまたどこかで機会があればよろしくお願いしますね」

 自分にできることはない、そう思った竹山はゴルダから離れるべく立ち上がったが、手を伸ばしてきたゴルダに腕を掴まれかけた。視界の淵にゴルダの手が迫ってくるのが見え、反射的に腕を引いたところでマジックテープを剥がすような音が竹山の耳に入ってきた。何が、と思い袖を確認すると、薄汚れて黄色や茶色の小さなゴミがこびり付いた三角形のクリーム色の何かがついていた。指で取り上げてみるも何かはわからない。ゴルダを見てみるも、特に不審な様子は見受けられない。竹山を掴もうとしたゴルダの手は中空をさまよっており、その指先を見たところで謎が解けた。ゴルダの人差し指の爪だ。本来爪があるべき場所にはむき出しのどす黒い肉が半透明の膜で覆われるように鈍く光っている。伸ばしたゴルダの指先、爪が竹山のシャツの袖に触れていたのだろう。竹山が腕を引いたため爪が繊維に絡まり変な形に折れてしまったのだ。痛みを感じていなさそうなゴルダの顔は狂気に満ち満ちている。

「あんたどこ行くのよ? まだ決着がついてないだろ? なんだ、逃げるのか? この腰抜け! もしあんたが大会に出てきても絶対に潰してやるからな! このゴルダ様の派閥に入らないってことは敵なんだから絶対、徹底的に潰してやるから! バカ! アホ! 死ね!」

 ゴルダは泡まで口の端に溢れさせながら、幼稚な言葉で竹山を罵る。竹山は罵られたところで気分を害するわけではないが、人間の浅ましさが見えてしまうように感じてしまうのであまり好きではない。罵る暇があるなら、手元に置いてある箸でどこでもいいから頭部に体重をかけて突き刺せばいいのにと思ってしまう。運よく目や口に刺さればそれで終わる話なのだから。


「兄ちゃん、今日は変な終わり方になってしもてすまんな。詰め所の鍵持ったままやろ? 十分ぐらいそこで待っといてや。ほかの屋台の食い物をお土産に持って帰れるように集めて届けさせるから」

 ゴルダから距離を置くように歩き出した竹山に、鰯餃子の壮年男性が声をかけてきた。心底申し訳なさそうな表情を浮かべている。

「あ、ほんとだ。すいません、鍵を返すの忘れてました。お土産もいいですよ。今日はもうこれ以上食べれませんもん。お腹いっぱいです」

 竹山は壮年男性に鍵を返す。壮年男性は少し考えてから口を開いた。

「せやろな。二十人前の餃子を五分たらず食ってしもたからな。腹痛いんちゃうか? 大丈夫け? ほなお土産は明日できたてを集めてうちの母ちゃんに寮まで持っていかせるわ。明日ゆっくり食べてくれや。ほんで今日はあのババアが引っ掻き回したけど、誘ってしもて悪かったな。次からは入場料払わんでも入れるようにしとくからまた遊びにおいでや。酒も飲ましたるからな」

 赤黒く日に焼け、深く刻まれた皺だらけの顔を崩した壮年男性が竹山を気遣ってくれる。人のから受ける心配りは本当にありがたいものだ。なぜゴルダのようにその場で解決する努力をせず、後になっても人を恨む性分の人間が生まれてくるのか心底不思議だ。

 竹山は壮年男性に、ありがとうまた来るよ、と伝えるとバス停に向かい寮へと戻っていった。


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