37話
「マジか、本当に抱きしめただけで記憶が戻るなんてな。信じろと言われて簡単に信じられる話じゃないぞ」
予想外の事態に雪代が驚きの声を上げる。しかし、驚いているのは雪代だけではない。先程、記憶が戻るかもしれないないなんてことを言った俺だけれど、本当に戻ると思っていたわけではないので、正直驚いている。衝撃を与えれば、記憶が戻ると言われることがあるけれど、今回の場合衝撃を与えられたのは、俺たちのほうだった。しかし、引っかかるのは記憶が戻ったというのにこはるが全く嬉しそうではないということだった。むしろ、涙を流しているから悲しそうである。有栖が言っていたように嬉し涙という可能性もあり得るが、どうもこはるの表情からは嬉しそうとは感じられない。そんなこはるが口を開く。
「こはるはもう小春には会えないんです……」
発せられたその言葉に疑問を浮かべる。だが、考えれば考えるほどさながら蜘蛛の巣にhっかかった虫のように抜け出せなくなっていく。それから、解放してくれたのは意外にも雪代だった。
「あんた、しっりしろよ。どうやら、記憶は簡単に戻ったようだけれど、この子の記憶はそう簡単に言い表せるものでもないらしい。もっとも人の記憶に簡単なんてものはないのかもしれないけれどな、人の記憶ってのは複雑なもんさ。なにせ、記憶なんてものがなければあたしがあんたを嫌いになることもなかったかもしれないんだからな。仕方がない。こうなっらとことん付き合ってやるからまずはそのだらしない顔をなんとかしろ」
普段ならば面倒だとばっさり切り捨ててしまいそうなものだけれど、というか雪代は今の状況から早くおさらばしたかったはずだ。それなのに、自分から協力するなんて言い出すなんて珍しいことだ。そして、気になるのが俺を嫌っている理由についてだった。あまりにもさりげなく言葉の中に混ぜられたのでついつい見逃してしまいそうになったが、本当に見逃すなんてことはしなかった。しかし、見逃しはしなかったが、タイミングがタイミングだけに今ここで追及することは場をわきまえていないことと同意だろう。それを計算した上で、発された言葉なのかもしれないが、考えたことで今は別の問題が浮上している以上その意図を知ることはできない。
「悪い。もう大丈夫だ」
俺は短く雪代にそう告げて、こはるのほうに体を向ける。
「こはる、教えてくれないか? 一体こはるが何を思い出したのかを」
俯いていたこはるが顔を上げる。
「こはるは偽物で、間違えていて、あなた方に会う資格なんてこはるにはなかったんです」
こはるは続ける。
「こはるは、小春は……」
「すでに死んでいるんです……」
疑うまでもなく、俺の目の前に存在する、俺の前で生きているこはるがそんな虚言を放った。これを虚言と言わずして、これを嘘と言わずして何と呼ぶ?死んでいるというのなら今のこはるはなんだ。蘇ったとでもいうつもりか?確かにそれならば紛れもない奇跡の子だ。
「一応、言っておくがあたしがこの子を抱きしめたとき確かに実態はあった。だから、幽霊って感じでもなさそうだ。実際に幽霊に触れたことがあるわけではないから確かなところは分からないけどな。まったく、こういう時自分の人生経験のなさが嫌になってくるよ」
俺もこはるに触れたことは何度かあるから、そこについては最初から疑っていない。人生経験のある人間が幽霊に触れたことがあるのかどうかは疑わしいが今はそんなことを気にしている場合ではないだろう。今はこはるの言葉の真意を理解することが先決だ。
「こはる、死んでいるっていうのはこの場合どういう意味を持つんだ?」
「そのままの意味です。小春は死んでいる。そこに青山さん達とこはるの間で認識の違いはないと思います。あるのは死んだものの存在の違いだけです。事故に遭ったあの日に小春は死にました」
もしも、こはるの言葉が真実だというのならば、今のこはるはいったい何者なのだろうか?奇跡が起きたと思われた日にこはるの身に何が起こったのだろうか?
「ちょっと待て。あたしの知らない話が出てきた。事故に遭ったってのはどういうことなのか説明してくれるとありがたいんだが」
そういえば、元々雪代とこはるが出会ったのは今日が初めてだった。噂についても知らなかったのだから、事故について知らなくても何もおかしいことはない。俺は、こはるが事故に遭ったこと、その一件以来奇跡の子と呼ばれていることをなるべく簡潔に語った。
「なるほど、なるほど。そんな事情で記憶を失っていたなんてな。奇跡を起こした代償か。しかし、蓋を開いてみれば、実際は奇跡なんて起きていなくてその日にこの子は死んでいたということか? だが、もしそうだとするならこの子はいったい……」
「やっと、話が追いついたな。分からないのはそこだ。いや、本当は分からないことだらけなんだが」
俺がそう言うと、雪代は頬を膨らませた。しそうにない仕草に少しばかりドキッとする。
「いかにもあたしが、あんたに劣っているみたいな口ぶりだな。人を足手まといみたいに言いやがって。あたしは噂や都市伝説に興味がないだけなんだよ」
そういうつもりは一切なかったのだが、どうやら雪代の気持ちを考えられていない発言だったようだ。
「安心してください。こはるの正体は噂にも都市伝説にもそれこそ1つの物語にすらなりえないものですから」
「ふーん、そいつは興味深い。それなら聞かせてもらおうか、あんたの正体ってやつを」
雪代の言葉にこはるがこくりと頷き、真実を告げた。
「こはるは、こはるの正体はただの人形です」
吸血鬼でもなく、幽霊でもなく、死体でもなく、人形。それはまたもや現実離れはしているけれど、事件かどうかと言われれば怪しいものだった。いや、どう考えてもこれは事件になるのだろう。問題になるのだろう。問題は解決しなければならない。それが俺の思う、俺が思ってきた、信じてきた正しい行いだ。しかし、今回は間違えていてもいいから、現実から逃げ出したいとそう思った。




