30話
結局、あの後有栖からは話をはぐらかされてしまい、あれ以上こはるについての話が発展することはなかった。すべてを教えないのが、有栖や蛍のスタンスだ。きっと、少しは自分で考えろということを言いたいのだろう。確かにいつまでも誰かに頼りっきりでは、自分が1人で生きるとなった時に、何も出来なくなってしまう。
俺は、家に帰るべく、歩道を歩く。そこで、偶然にしては出来すぎている光景を目の当たりにした。だけど、噂をすればなんとやらとも言うし、考え方の問題だろう。
俺の目の前には夏色こはるの姿があったのだ。
だけど、俺には、その出会いを喜ぶ時間などなかった。自然と体が動く。
こはるは横断歩道を渡ろうとしていたのだ。
それ自体にはなんの問題もないのだが、問題があるとすればタイミングだった。歩行者信号は赤を示していて、当然、横断歩道をスピードの出した車が通っている。このままではこはるは車に轢かれてしまう。
「奇跡は2度も起きねえぞ!」
自然とそんな言葉が漏れて、俺は周囲の目なんて気にせずに駆けた。手が届きそうな距離まで近付いて、服の首根っこの部分を掴み、俺の方へと引っ張る。
「うにゃ」
なんだか、可愛らしい間抜けな声がこはるから漏れたけれど、それで俺の怒りから免れると思ったら大間違いだ。
「信号見てなかったのか! 俺が助けなかったら、今のはまじで危なかったぞ!」
自分がこんなにも感情的に誰かに対して、怒りをあらわにできるとは思ってもみなかった。
しかし、こはるがなんとか無事だったことで、少しだけ冷静になってみると、周囲から俺たちが奇異の視線を向けられていることに気付く。
目立ちすぎて、警察を呼ばれるなんてことになったら洒落にならない。俺は、こはるの手を引っ張って、人気のないところまで移動する。
だが、これはこれで、俺が小さな子を堂々と誘拐しているようにしか見えないのだけれど。
「はあ……またあなたですか。どうして、いつもこはるの邪魔をするのか、説明して貰いますよ。もしかして、こはるのことが好きなんですか?」
有栖とのデートの時に訪れた公園までこはるを連れてきて、こはるの手を離すと、予想もしていなかった言葉を投げ掛けられた。
感謝されるとは思っていなかったけれど、邪魔とまで言われるとは思わなかった。もしかして、有栖のパジャマはそういうことだったのだろうか?それはいくらなんでも考えすぎな気がする。ただ単に、有栖はあの姿が家では落ち着くというだけだろう。
「信号が赤で、車もいっぱい通ってただろ? そんな中、横断歩道を渡ろうとしてる奴がいたら、好きとか嫌いとか関係無しに誰でも助けようとするだろ」
「信号ってなんですか?」
こはるは、首を傾げて、訊ねてくる。
俺には、どうしてこはるが交通事故に遭ったのかが分かった気がする。いや、記憶がなくなっているから、信号について分からないのか?事故に遭う以前は分かっていたのかもしれない。
「信号ってのは、事故を起こさないために、作られたもので、赤は渡ってはいけない。青は渡ってもいいってな感じで、法律で決められたものなんだよ」
不安な知識を難しくないように、ごく簡単に、話す。しかし、そのわずか数秒の間にこはるは俺の前から、姿を消していた。
溜め息をついて、視線を彷徨わせると、こはるは滑り台で遊んでいた。俺は、そばまで近付いていき。
「人の話は聞いた方がいいぞ……」
「聞いてましたよ。でも、何かに縛られて生きるのって疲れませんか? もっと、自由に生きるべきですよ!」
「いや、信号無視したら、生きるとか言ってられないから。下手したら、死ぬ可能性だってあるんだぞ?」
何かルールを設けることで、この世界は成り立っている。みんながみんな自由に生きすぎていたら、この世界はどうなってしまうのだろうか。
「人は無視してもいいのに、信号は無視したらいけないなんて変な話ですね」
「いや、本当は、人も無視しない方がいいんだけれど……」
自分が完全に人を無視しないとは言いきれないので、強くは言えない。
「それに、こはるは車に轢かれた程度で死んだりしませんよ。逆に車がぺしゃんこになります」
「高校1年生の可愛らしい女の子にぺしゃんこにされたら、車も驚きだよ。笑えねえよ」
交通事故に遭った後の、少女の発言とはとても思えなかった。奇跡なんて、綺麗な言葉で片付けていいのか迷ってしまう。少なくとも、今俺がこはるに対して、抱いている印象は奇跡などではない。強いて言うなら、不気味だ。
だって、1度事故に遭い、再び事故に遭いそうになったにも関わらず、笑顔で滑り台で遊んでいる今のこはるの状況は普通じゃない。異常だ。
これが、有栖の言っていたおかしすぎて、可哀想ということなのだろうか。
「その目……みんな私に対して、そんな目を送ってくるんですよね。確かに、私は他の人とちょっと違う部分があるかもしれないですけれど」
そう言って、今度はこはるはブランコのところまで移動してブランコを漕ぎ出した。
俺も、ノリに乗って、隣のブランコに座り、ブランコを漕ぐ。高校生になってまで、自分がこんなことをするなんて思いもしなかった。
それだけ、今の俺の心は、正常ではなく、冷静ではないのだろう。
こはるは周囲とは、ちょっとではなく、かなり違う。この世界とは、相容れない存在なのではないか、なんて最低な思考が頭を過る。
「俺の目は、元々死んでるだけだよ。気にしないでくれ」
「やっぱり、それは何かに縛られているからでは? 本当の自分をさらけ出せないから、すべてを悟り、自然と目が死んでしまったんじゃないですか?」
中々に、的外れではない発言に驚く。いや、だけど、俺の目は元から死んでいたような気もするけれど。ということは、俺は生まれたその瞬間から、何かに縛られているのだろうか。
「こはるは頭がいいのか、悪いのか、どっちなんだ? そこまで人の心理を理解しているのに、信号のことは分からなかった。どっちだか分からないぞ」
「どっちでもいいんですよ。そんなことは、頭が良いのも、悪いのも、どちらもこはるです。それだけで十分じゃないですか」
どうして、俺はそんな当たり前のことも分からなくなっていたのだろう。そうだった。誰がどのように、変わろうとその人物がその人自身ということには変わりはないのだった。
「なあ、どうして、信号無視なんてしようとしたんだ?」
「え? 分からなかったからですよ」
こはるはなんの迷いもなく、そう答えた。
「分からなかったなら、仕方がない。もう怒ったから、それをまた掘り返そうとは思わない。じゃあ、これは友達としてのお願いだ。もう、あんなことはしないでくれ……」
俺は俯いて、そう願った。
すると、さすがに反省してくれたのか、こはるは小さな声で。
「はい……」
そう答えた。




