29話
「さて、とそれではそろそろ本題に入りましょうか。本来、昨日話されていたであろう本題に入りましょうか」
眼前に座る有栖がにっこりと笑って、そう言った。
「昨日話せなかったのは、お前のせいだけどな……」
今日が暇だから、と俺を家に誘ったのは有栖だったはずだ。電話した時間が無駄に終わったことをよく覚えている。
「あれ? センパイが私のお風呂に入る姿を想像して、あまりの刺激の強さに倒れてしまったから、電話が切られ、今日話すということになったんじゃなかったでしたっけ?」
とても、自分にとって都合のいい解釈をされていた。というか、本来あったはずの事実を改変されていた。
「そんな事実はない」
はっきりとそう告げる。
「決めつけるのはよくありませんよ。どこかのセンパイとコウハイの間ではそんな事実が存在しているかもしれませんし」
決めつけと言うよりも、真実をそのまま言っただけなのだけれど、有栖は関係のない他人の話を持ち出してきた。
「俺とお前の間にそんな事実はない」
だから、今度は俺と有栖のことだと分かるように、言い直す。
「それもこれから先どうなるかは分かりませんが、とりあえず、私のせいということにしておきましょう」
なんだか、恐怖を感じる発言を残して、有栖は溜め息を吐いた。溜め息を吐きたいのはこっちなのだけれど。
「それで、昨日言ってた奇跡の子ってのはどういう意味なんだ?」
奇跡の子なんて、異名を聞いて気にならない人間が果たしているのだろうか。少なくとも、異変を探し求めることを生業としている俺は気になる。気になってしまう。
「奇跡の子。改めて聞くと、すごくあざとい異名ですね……」
有栖の言葉を聞いて俺は首を傾げずにはいられなかった。
「あざとい代表の悪魔の子みたいなやつが何言ってるんだ?」
そのままの疑問をそのままぶつける。しかし。
「私のどこに悪魔要素があるんですか?」
どうやら、有栖は小悪魔と呼ばれる少女たちの存在を知らないらしい。つまり、意識しているのではなく、無意識でこの態度なのだろう。そう考えると、とても恐ろしく思えてくる。
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
いつか分かる日がくるだろう。それが今日である必要はない。
「そうですか。奇跡の子って彼女が呼ばれているのは、その名前の通り奇跡を起こしたからですよ」
一瞬、きょとんとした表情を見せるが、追及をしてくることなく、すぐに本題に入ってくれた。
「空から落ちてきたとか、1つの街を吹き飛ばしたとか、そんな奇跡か?」
奇跡という言葉に反応して、そんな疑問を投げ掛ける。奇跡の子と言われるぐらいだから、相当な事をやってのけたのだろう。
「もっと現実を見てくださいよ。どれだけ現実逃避をしたいんですか。奇跡と言っても、そんな超能力じみた奇跡ではありませんよ」
何故か、冷たい口調で返される。現実を見ろと言われても、心の声が聞こえる少女に出会ったり、蛍と共に、人がいない世界で時間を過ごしたりした俺は、現実というのがなんなのかよく分からなくなっていた。
「それなら、何をしたんだ? こはるは」
こはるを見た感じ、危なっかしいところはあれど、それ以外は普通の女の子とさほど変わらないように思えた。天才特有のオーラを放っているという感じでもなかったし、超能力を持っているわけでもない。だったら、こはるが起こした奇跡とはなんなのか。
「何をしたってわけでもないんですけれどね。結論から述べますよ。こはるさんが起こした奇跡は助かるという奇跡です。交通事故に遭い、医者に助からないとまで言われていたにも関わらず、両親さえも、彼女は助からないと諦めていたにも関わらず、彼女は助かった……そんな奇跡です」
俺は有栖のその言葉に驚くことは無かった。なぜなら、もっとすごい何かを起こしていると思ったからだ。しかし、それだけで奇跡の子なんて異名がつくものなのだろうか。
「なるほど、そういう奇跡か。だけど、そんな事故に……そこまでの事態になっていたとしたら、おかしくないか?」
俺は直接こはるの姿を見たわけだけれど、もし有栖の言っていることが真実だとするのなら、おかしな点がある。
「おかしい? 確かに、あの子はおかしいですね。おかしすぎておかしすぎて、とても可哀想です。私のちっぽけな悩みがさらにちっぽけに思えてしまうほどに……」
含みのある言動で有栖が呟く。
誰もそこまで、おかしいとは言っていないが。
それに可哀想とはどういうことだろう。
「どういうことだ?」
思ったことをそのまま訊ねる。
「いえ、何もありません。本当に何もないんですよ。そんな事よりも、センパイのおかしいというのは何をもっておかしいと言っているんですか?」
あそこまで言っておいて、何もないで済ませるとは、随分とテキトーなやつだと思ったけれど、それは俺も同じなので、ここはおあいこということで話を進めておこう。
「いや、有栖はこはるに会ったことがあるんだっけ?」
分かりきった質問をする。おそらく、有栖がこはるに会っていれば、俺が思うこはるの異変に、必ずと言っていいほど気付くはずなのだ。
「ありませんよ。噂で聞いただけです。しかし、噂からでも、ある程度のことは分かっているつもりです」
最初は想像通りの答えが返ってきて、ほっとする。そして、次は有栖の噂である程度は分かっているという言葉にぞっとした。噂は嘘か誠か分からないのが普通だ。だから、噂で聞いていたよりも、実際会ってみたら、全然違ったなんてことはよくある話だ。それなのに、有栖は会ったわけでも無いのに、堂々と分かっていると告げた。この場合のある程度や、つもりなんて言葉は飾りに過ぎず、有栖は本当に噂だけでこはるがどのような人間かを推測したのではないか、と確実で信用できる根拠があるわけでもないのに、俺は何故かそう思った。
「そうか。俺は交通事故に遭ったことがあるわけじゃないから、よく分からないんだけれど、こはるには会ったことがある。それでおかしいと思った。どうしてかと言うと、こはるにはどこかを怪我しているような様子がなかったんだ。助からないとまで言われたほどの交通事故に遭っているのに、どこも怪我をしていないなんてこれっておかしくないか?」
「なるほど、そういうことですか。でも、そんなの気にしていても仕方ないじゃないですか。だってあの子は、奇跡を起こせる。そこまでしてこそ、奇跡の子なんじゃないですか?」
ここに来て、有栖の言葉が曖昧になる。
「さっき俺に現実を見ろって言っておいて、よくそんな発言ができるな……」
「細かいことを気にしていたら、疲れてしまいますよ? そもそも、こはるさんの話については続きがあるんですよ」
「続き?」
「はい、奇跡を起こしたというだけで終われば良かったんですけれどね。これは奇跡を起こした代償とでも言えばいいんでしょうか」
代償とはまた、不穏な響きの言葉がでてきた。
決して、平穏では無さそうだ。
「代償? そういえば……」
記憶力がある方ではない俺は、一瞬過ぎった違和感を必死に追いかける。
「思い当たるところがあるみたいですね。こはるさんが何か言っていましたか?」
俺の心を読んだかのように有栖が訊ねる。人は同じことを繰り返していると、慣れると言うけれど、心の声を聞きすぎたことで有栖もまた心の声を聞くことに慣れてしまったのだろうか。だとすると、俺のやったことは全くの無意味で、全くの無駄だったということになってしまうが。
そんなことを考えながらも、俺は違和感を追いかけることはやめなかった。そして、ついに違和感を捕まえる。その捕まえた違和感を俺は言葉にして吐き出した。
「今までの自分のことが思い出せないって言ってた……」
自分の記憶が無いことの恐ろしさを考えながら、俺が告げると、有栖は。
「ふーん……そうですか」
分かっていた、と言わんばかりの表情を浮かべて、俺を悲しげな瞳で見るのだった。




