21話
しばらく感じることのできなかった喜びを、今は心の底から感じることができている。すぐ隣を好きな人が歩いている。些細なことかもしれないけれど、私にはその些細なことが堪らなく嬉しい。最初は気のせいかと思っていたが、姫宮さんに嫉妬して初めて、私は青山勇人くんのことが好きだと知った。それが辛くて、苦しかったはずなのに、今はこんなにも幸せで、楽だ。
楽をしていたという意味では、数時間前までの私は楽をしていたのかもしれないけれど、幸せを感じることはできなかった。喜びや嬉しさを感じることはできていなかったのだ。しかし、今はとても幸せだ。どうしてこの人を好きになったのか、理由や理屈で説明を求める人がいるけれど、私には理由や理屈はないのだろう。
なぜなら、気付いた頃には、目で追っていた。好きになっていたのだから。
「蛍、何かやりたいことはあるか?」
勇人くんが、私の顔を見ながら首を傾げる。
とは言っても、すぐには2人きりだからこそできることなんて思いつかない。いや、実際あまりそんなことには拘らなくてもいいのかもしれなかった。私は、自分のやりたいことを考えてみる。
「プリクラ……とか?」
「そんなのいつだってできるだろ……ていうか蛍もそういうの撮るんだな」
撮ったことなど、1度もない。友達がいないわけではなかったけれど、不思議とそういった誘いを受けたことはなかった。だから、憧れにも似た感情を持ち合わせていた。
「やっぱり形あるものとして、残したいと思って……」
「残るのか?」
ふと、考える。幻の中で撮った写真は現実世界に持っていけるものなのか。おそらく、不可能だろう。この世界のものはこの世界のものでしかない。それ以上になることも、それ以下になることもないだろう。
「残らないかも……」
残念だけれど、仕方がない。
一応、撮るだけ撮って、後は記憶の中にでも保存しておこう。
「そもそも、俺たち今金持ってないんだが……」
「……わ、私の家に来る?」
困惑して、意味不明なことを言っていた。
恥ずかしい。勇人くんへの想いに気付くまでは、平然としていられていたはずなのに、今はそうはいかない。きっと世界で2人きりというこの状況が私を悩ませているのだろう。
「なんでそうなったんだよ……蛍がそれでいいって言うなら、俺はいいけどさ。でも、2人だけの世界で女の子の家ってまずくないか?」
「あっそっか……変態が加速しちゃう……」
「しないからな?」
おそらく、勇人くんに限って、変なことは起きないと思うけれど、もしもということもある。
いや、そもそも。
「場所がどこであっても、私ってピンチなんじゃないかな? 助けも呼べないし」
「おい! いきなり俺を危険人物扱いするな! 何もしない。絶対に何もしないと誓う」
それはそれで、なんだか嫌な気分になる。
まるで、自分が女の子だと思われていないような。手を握られるぐらいなら、私だって、許せる。むしろ嬉しい。幸せだ。
「そこまでいうなら、安心だけれど。ねえ、どうして急に距離が遠くなったの?」
いつの間にか、勇人くんが私から離れている。何もしないということの意思表示だろうか。変なところで真面目だった。
「いや、警戒心を和らげようと……」
「和らげると言うより、私への警戒心が強まってる感じにしか思えないんだけれど……」
好きな人との距離が遠くなるというのは、やはりほんの少しだけ、寂しい気持ちになる。
試しに、私から勇人くんとの遠くなった距離を縮めてみる。すると、勇人くんは後ずさって、再び距離が遠くなった。こうしてみていると、得体の知れないものに怯える子犬のようだった。
「って私は得体の知れないものじゃないのに……」
「俺たち何の話してたっけ。あー蛍が寝るときに仰向けで寝るかうつ伏せで寝るかの話だったけ?」
勇人くんは素に戻ると、距離を近付けてくれて、話していた内容を思い出そうとしていた。
私も何の話をしていたのかは思い出せないが、その内容が明らかに的外れだということは分かった。
「違うよ。確か、勇人くんがお風呂に浸かるとき、頭から浸かるか、足から浸かるかの話だったような……」
「頭から浸かる人は風呂を海かなにかと勘違いしてないか?」
素直な疑問をぶつけられる。勇人くんの話に乗ってあげようとしただけなのに、少し残念だ。
「それはさておき、本当にこれから何しようか?」
「さておきで済ませるなよ……じゃあ記念にケーキでも拝借して、パーティーでもするか」
勇人くんはぽんと手を叩いて、おそらく今、閃いたであろう案を告げた。
さらっと言ったけれど、普通に泥棒である。
確かに、この幻のような世界では法律は関係ないだろうから、捕まったりすることはないだろうが。そもそも、捕まえる人もいないが。分かっていても、やはり後ろめたさのようなものを感じてしまう。だけど、そんなことを言って今の空気が壊れてしまうのも嫌だ。
「えっと、何の記念?」
「俺と蛍が別の世界に迷い込んだ記念」
「それは記念と呼べるの?」
言葉だけ聞くと、祝える要素がほとんど感じられない。後ろに記念とつければ、すべてが楽しそうに感じられるわけでもないみたいだ。
「じゃあ、今日を蛍の誕生日にしよう」
「私の誕生日を夕食の献立を決める感覚で簡単に変えないでよ……」
他に記念になりそうなものが思いつかないとはいえ、あまりにも強引すぎる。
「いや、でもよく考えてみろよ。蛍の誕生日を今日祝うことで、蛍は今年2回誕生日を祝われることになるんだぞ?」
確かにこの世界で誕生日を祝ったところで私の誕生日が終わるということではない。現実の世界に帰れば、当然本当の私の誕生日がやってくる。しかし、そんなことを言ってしまえば、毎日が誕生日でもいい気がしてくる。ずっと誕生日をしていると飽きてきて、それはもう記念ではなく、因縁になってしまいそうだ。
「じゃあ、勇人くんも誕生日ってことにして2人で祝いあおうよ!」
「そいつは楽しそうだな。よし、そうするか」
勇人くんが子供っぽく笑う。
たまには、こうやって子供のように楽しむのも悪くはないのかもしれない。
だけど、子供のように純粋にはいられなくて、好きという気持ちがちくちくと私の胸を刺してくる。




