天使と罪人の異世界野菜生活
私を地獄の底から掬い上げた何かは言った。異世界に信仰の種を蒔け、と。
しかし、私は信仰の種を蒔く前に、大地に木の苗を植えている。木は全ての始まりだからだ。
木から実りは生まれ、全てを育む礎となる。
人は飢えには勝てない生き物だ。
飢えた民は正気を失い、狂気に落ちる。狂った人間という名の獣は、容易く他者を傷付け、慈悲をかけることなく全てを奪い尽くすだろう。
そうして、再び飢えに狂う獣が生まれるのだ。
私の一番の友人は口うるさく語る。食卓を彩る緑や赤、そして黄などの鮮やかさが心に余裕を与え、最後の良心を守るのだと。
友人が私に水の入った水筒を手渡してくる。その水の半分を苗に与え、残りの半分を自分の口へと運ぶ。
喉を冷たさが通り過ぎ、一つ間を置いて体にゆっくりと染み渡り、やがては活力へと変わる。その一連の流れがどれだけ幸せなことなのか、以前の私には理解できないだろう。
それほどまでに私は狂っていたのだ。
一番の友人の言葉を聞き入れず、凶行に走る私を否定する言葉に、お前は臆病者だと罵ったことがあった。助けを求める敗者に慈悲を与えるように言われたとき、それを無視して敗者を殺したこともあった。
それなのに、彼女は私の後ろに付いてくるのだ。
私がどれだけ残酷なことをしても、どれだけ人の道を外れたことをしても、彼女はひたすらに私に付いてきて、その言葉を小さな声で繰り返す。
……貴方の良心を信じています。
その言葉を聞く度、私の中で何かが蠢くのを感じていた。
仄かな殺意、ざわめく欲望、……かすかな罪の意識。
しかし、彼女の努力虚しく、私は地獄へと落ちた。実際、私は今までの悪行に強い罪悪感を覚えることはない。
しかし、ただ一つ。ただ一つだけ、地獄で行われる懲罰の中で罪を感じることが、また神が慈悲深いというのを疑うことがあった
地獄に落ちた私を悲しみに満ちた目で見つめる彼女がいたのだ。
彼女は罪人ではない。彼女は人を導くという自らの役目は果たせなかったが、それでもできる限りのことはしたはずなのだ。
だから、彼女が地獄にいる必要はない。彼女は罰せられるべき存在ではないのだ。
その証拠に、彼女を迎えに使者がやって来ることがあった。それでも彼女は首を左右に振り、彼らを拒否したのだ。
そうやって地獄での日々を重ねるごとに、彼女の白き翼は黒に染まっていった。黒く染まった羽は時間が経つと抜け落ちて、彼女をみすぼらしい姿へと変えていく。
当たり前だ。地獄とは天国と比べ酷く穢れた場所なのだから、長く留まれば自然と堕天使へ近付いていき、罰せられるべき反逆者へと変わっていくのだ。
それでも、彼女は絶対に私を救ってみせると言った。それが自分の存在意義を否定することになっても、許されぬことだとしても。
そして、来たるべき裁きは下ったわけだ。
それは彼女が最後の羽を失った日のことである。
罰の内容は異世界における信仰の獲得。言い方を変えれば、異世界への追放。
私たちは追放された。天国とはほど遠く、地獄より生温い世界へと。
現在のこの世界には木の苗を除いて生物はいない。よって、祈る民は今は存在しない。
私たちはいずれ訪れるかもしれない異邦人を迎える準備をするという、そんな意味の分からない罰を下されたわけだ。
だが、不思議と悲しくはない。
当然だ。他人を信じることを知らない私が信じてもいいと思える、そんな存在がそばにいるのだ。
「おい、カボチャ。次は何をすればいい?」
私の一番の友人である頭でっかちの南瓜頭は、その橙色の南瓜の表面を指でなぞる。それは丁度、頬に当たる部分だ。
彼女の方が植物に詳しいだろうに、その反応は若干頼りない。
この意図の分からぬ罰を遂行するために、彼女には二つの力が与えられている。
どちらも一人の天使が持つには強大すぎる奇跡だ。
一つ目は、様々な種子や苗を無から生み出す力だ。
それは名前付きとはいえ知る者が少ない彼女が持つにはとてつもなく強大な力で、もはや神の領域に等しい力だ。
しかし、水や豊かな壌土は生み出すことは出来ないという中途半端なものである。
二つ目は、鉄から独りでに動く戦車を作り出す力だ。
恐らくだが、これは我らが土地を脅かす脅威を退けるためのものだろう。
しかし、私には彼女がこのような力を振るう光景は想像できない。彼女はあまりにも優しすぎるのだ。
罪人に付き従い自らも罪に染まるほどの優しさは、もはや愚かだと言わざるを得ない。
「……水は遣りましたし、後は待つだけだと思いますよ」
南瓜頭に隠されていて表情は分からないが、その声は柔らかく心地よい。しかし、自信なさげな口調である。
彼女は苗木に視線を向けると、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「貴方も、貴方に手を差し伸べたわたしも、等しく罪人です。そして、その罪は消えることはないでしょう」
地獄から追放されたということは、ある意味では罪を償う機会を失ったのと同義である。ここでの行動が贖罪に繋がるのかと聞かれれば、私は曖昧な答えを返すだろう。
だが、地獄と比べれば楽なものだ。永遠に罪人であるより、永遠に友を失う方が辛いものなのだから。
こんな馬鹿な者はそうそういない。使命だとは言え狂気に侵された私に付いてきて、どれだけ血で剣が赤く染まろうとその赤から目を逸らさずに見つめ、仕舞いには地獄まで付いてくる。
これ以上に馬鹿な奴は、私しかいないだろう。
「わたしと貴方は多分ずっと一緒ですよ。だけど、その……、わたしと一緒は嫌ですよね?」
今まで一緒だったというのに、今更一緒なのは嫌ではないかと問うのは面白い冗談だ。
南瓜頭の左右を持ち、勢いよく持ち上げる。
南瓜頭がなければ、見た目は可愛らしい黒髪の少女なのだ。
彼女がばっと振り向く。私は彼女の顎を掴み、少し上を向かせて目線を合わせる。
しばらくすると、青い瞳が右往左往し始める。
「私がお前と一緒にいるのが嫌だといつ言った。答えてみろ?」
「えっと、その、うう……」
次の瞬間、私は腹部に感じる鈍痛と共に大地との濃厚な口付けを味わっていた。
簡単な話だ。私の手からひ弱そうな少女とは思えぬ力で南瓜が奪われ、その南瓜で腹部を強打されただけのことだ。
彼女は人に素顔を見られるのを嫌っており、素顔を見られぬように南瓜の中身と底をくり抜いたランタンを被っているのだ。
だから、私は彼女をカボチャと呼んでいる。彼女自身もカボチャと呼ばれることに慣れたらしく、本当の名前で呼ぶと何事かと騒ぎ出すから少し厄介だ。
「――そう、使命ですからね。それは、わたしに課せられた使命なのですから」
南瓜を被る音がした。そして、何故か彼女は地べたに這いつくばる私をわざとらしく踏み付ける。
非常に屈辱的だが、彼女らしからぬ反抗に思わずにやりと笑みが溢れた。彼女にこの笑顔を見られていないのが幸いだ。
「穢れた罪人よ、自らの行いを悔いるのです。……そのですね、あの、貴方を導くのがわたしの存在意義で、貴方を改心させるのがわたし個人の願いでして……」
……だから。そう言ったところで、続く言葉は消え失せた。
彼女はあまりずれていない南瓜頭を直しながら私に手を差し伸べる。
「ソフィエルの名の下に、わたしは貴方を守護します。今度こそ、貴方が正しき道を進むための道しるべとなりましょう」
――面白い。彼女の手を取りながら、心の中でそう呟いた。
闇に堕ちた人がそう簡単に変われるのならば、この世の中に罪人はいない。
だが、変われるならば。願わくは……。
不毛の大地に、水に濡れた一対の葉が輝いていた。