カスミソウにすら霞みそう
約一ヶ月ぶりの休日に部屋の掃除をしていると、タンスの隅から、ホコリかぶった小さな夢が飛び出してきた。
元々、夢は苦手だった。久しぶりに見た夢の形は想像以上におぞましく、光を反射する夢の表面に私は吐きそうになった。咄嗟に手に持っていた箒で小さな夢を叩き潰す。押し潰された夢は、床の上を蠢きながら無様に中身を撒き散らし、やがてピクリとも動かなくなった。潰れて生命を失った夢から目を背け、ゴミ袋に詰めた。
夢が一個出てきたら、同じところに三十個はあると思え。
ふと、三年前に出ていった妻の、格言めいた口癖を思いだした。明日業者に頼んで、しつこい夢を全部駆除してもらおうと誓った。
お昼過ぎに、今度は薄暗いクローゼットの中を整理していると、ハンガーにかけられっぱなしの希望を発見した。若い頃、大好きなミュージシャンとお揃いだったので、毎日身につけていたお気に入りの希望だ。だが、あまりに長くしまい込みすぎて、今では所々穴が空いている。こんな見窄らしい希望を誰かに見られたら、恥ずかしくて赤面どころじゃすまされない。
もう二度と、使うことはないだろう。私は古びた希望たちを乱暴に丸めて袋に入れて、リサイクルショップに売ってくることにした。
支度を済ませ靴箱を開けると、上の方から昔使っていた自信が落ちてきた。懐かしい。子供の頃はこの自信とともに、街中を走り回ったものだった。シンプルながら大層丈夫な作りで、この自信なら誰よりも速く、世界の果てまで走り続けられるんじゃないかと思っていた。
自信は、落ちた衝撃で少しひび割れていた。試しに履いてみようと思ったが、やはり昔のようにはいかない。いつの間にか小さくなっていた自信は、当然ながら大人になった私のサイズに合わなくなった。今私が使っている自信は、すぐ濡れる脆さが欠点だが、大きくなった私の身の丈にあった丁度良い小ささだ。
……手が止まっていた。私はついでに、落ちてきた昔の自信も売ってくることにした。
扉を開けると、薄暗い雲からパラパラと現実が降っていた。折角の休みだというのに、全くツイていない。私は現実に体を濡らさないように言い訳をかざして、リサイクルショップへと向かった。広げた言い訳に現実が小刻みに降り注いで、私の頭の上で小気味好い音を奏でた。
ここのところ、休みの日に合わせるように現実がやってくる。私は歩きながら、ぼんやりと手にした言い訳を眺めた。長年使い古した言い訳も、もう骨組みがヤラレてきていて、そろそろ限界が近かった。透明な奴とはまたちょっと違う、少々値も張る一点ものだったが……新しい言い訳を、考えるべきかもしれない。
やっぱり引き返そうかな。
道を半分まできた交差点で、私は立ち止まった。立ち止まって、やっと自分が疲れていることを知った。立ち止まって、持ってきた夢や希望や自信を、手放すことを今更ためらった。立ち止まって、道端に咲いていた、向日葵が悲しそうに頭を垂れているのが目に飛び込んできた。端から見れば、カスミソウにすら霞みそうな平凡な人生。これを手放してしまったら、今までの私は一体、何のために頑張ってきたのだろう……。迷いながら少し言い訳から顔を覗かせると、現実が一層激しくなってきた。私は慌てて近くのバス停のトタン屋根に逃げ込んだ。
「大丈夫ですか?」
バス停で同じく仮宿をとっていた高校生くらいの少女が、私の姿を見て目を丸くした。彼女もまたズブ濡れだった。私は苦笑いを浮かべて、少女の邪魔にならないよう離れて立った。ふと手に持っていた荷物を覗き込むと、ボロボロだった希望の切れ端が目に入った。何の役にも立たないと思っていたが……これなんかは、案外冷えた体を拭くのにも使えるかもしれない。
「あの……これ使いますか?」
私は思いきって少女に持ってきた古い希望を差し出した。一枚の薄っぺらい希望は、ところどころ破けてはいたが、幸いなことにカラッカラに渇いていた。流石に見ず知らずの、昔使っていた他人の希望など気持ち悪いだろうか。少女は一瞬驚いたように目を丸くしたが、やがてニッコリと笑って受け取ってくれた。私は心からホッとした。
「ありがとうございます……あの、これ」
やがて目当てのバスが到着し、乗り込む前に、少女は私に暖かな優しさを差し出してくれた。バス停のすぐそばにある、備え付けの自販機で買ってくれたワンコインの優しさだ。私は少し驚きつつも、両手で確かに優しさを受け取った。
捨てようとしたかつての希望も、少しは名も知らぬ彼女の役に立てたのなら、良かった。
思いにふける暇もないままバスのドアが締まり、エンジンが音を立てて煙を吐き出す。少女が出発した方向をずっと見送っていると、いつの間にか現実は止み、雲の切れ間から光が差し込んでいた。軽くなった荷物を手に取る。
私の手から、かつてあれほど大事にしていた希望の一部は無くなってしまった。だが不思議と、悪い気はしない。もらった優しさが冷えてしまわないうちに、私は一気に飲み干した。……名前も知らないあの少女が、どうか幸せになりますように。
久しぶりに体に染み渡った優しさは、何だかとても暖かくって、私の胸をやけに熱く焦がした。