その手を取ることは出来ない
「あぁ、お願い。誰か助けて」
思いもよらない言葉が自分の口から漏れた事に、たったひとり塔へと囚われた乙女は自嘲の笑みを浮かべた。差し込む月光に、この世のミューズとも呼ばれた美貌が浮き上がる。プラチナブロンドの髪が乱れ、一筋顔にかかっていた。
「フフ、覚悟していたことでしょう。今さら何を怖じ気づいているのかしら。
私自身が王家の身代りをすると、そう決めたのではなくて? そうでしょう、レティシア。誇り高き伯爵家の娘が、今さら命乞いなど恥を知りなさい」
己に言い聞かせる様に呟くその顔は真っ青で、固く胸の前で祈るように組み合わされた両手は、恐怖からくる震えを堪える為に力が入り、白く変色している。無意識に髪をかき上げ、細く鉄の格子の入った小さな窓から見える満月を見上げた。
「日が昇れば、私は処刑される。それで私の家は今まで以上に陛下から引き立てて貰えるようになる。役に立たない娘一人の命で、それだけの利益を得られる。何を恐れることがあると言うの」
宮廷でもその美貌を持て囃され、純潔に一点の曇りもなき王国の花と歌われていた顔に、無理やり笑みを浮かべる。
それに、今、ここに至っては逃げる術などないのだ。明日、ギロチンにかけられるのは、変えることの出来ない未来。
それでも若い身体は生きたいと叫び、一時も休むことなく、与えられた牢獄を歩き回っていた。
「レティ!!」
白々と夜が明けてきた時に、乱暴な足音をたて、一人の男が牢獄の扉からレティシアの名前を呼んだ。
「あら、公爵閣下。このような所に来られてはなりません」
ハッとした様に顔を上げてから、レティシアは表情を消し、鉄格子から腕を伸ばす相手を見据えた。
「閣下程のご身分の方が、その様な無様な姿勢を取られるなど、宮廷の噂になりますわ。お止めください」
変わらぬ太陽の様な黄金の髪。少し癖の強い短髪は、公爵の苦悩を示すように、乱れきっていた。
「宮廷がなんだ! このままでは、明日君は処刑される。どうか真実を話してくれ!! 私は君を助けたい」
すがり付く公爵を冷たく見据えて、レティシアは口を開いた。内心は助けて! お願い、死にたくないと思いつつも、表情だけは、宮廷人としての真意を見せぬ微笑みを浮かべた。
「何の事でございましょう。私が、王太子殿下を誘惑致したのです。権力欲しさに、分不相応な事を致しました。そして、殿下が他のご婦人に目移りしたことに嫉妬し、恐ろしい事を致したのです」
貴族達で構成された形だけの裁判で話した内容をもう一度繰り返した。悔しそうに唇を噛むウィリーの表情は、少年時代に良く見たものだ。あの頃は、剣が上手く振るえない。勉強が進まないと、今考えれば他愛もないものだった。
私が虫や獣に怯えると、いつも助けてくれたわね。私にとっては、貴方が太陽の様に輝く王子様だったわ。
懐かしさに崩れそうになる表情を宮廷人としての仮面で更に強固に覆う。この想いを伝えることは出来ない。気付かせてもいけない。全てひとりで抱えていく。
後悔ひとつしていないと見えるように、傲慢な態度を取った。
その顔を見、傷ついた表情を浮かべたウィリアムは力なく鉄格子を叩いた。
そうね、貴方の言うとおり、真実は違うわ。でもウィリアム、貴方なら口に出さなくても分かってくれるわよね。幼い時から、宮廷で一緒に育ったんだもの。私がそんな事をするはずがないでしょう?
「嘘だ! 君が嫉妬で人を殺すなんて。しかも平民達すらも……」
ええ、そうよ。本当は殿下が手にかけた。あの方は宮廷での行儀の良い恋愛遊戯では満足されない。だから、沢山の娘達に手を出し、発覚しそうになると殺した。平民の娘達なら、どんなに殺めた所で罪にはならないと高を括っていらした。
王太子の所業を知った国王陛下から、父は直々に頼まれたそうよ。ただ一人の息子に、一点の瑕疵もあってはならないと、そう言われたそうだわ。
ウィリーと同じく学友として弟が殿下と面識があり、国に対する忠誠心厚い我が家に声がかかったのを、誉れと思わなくては駄目よね。例えそれが私の幸せに繋がらないものであっても。
「お引き取りを。私に残された最期の時を、これ以上騒がせないでくださいませ」
レティシアは郷愁と助けを求める心を押し殺し、ウィリアムに背を向けた。そのまま、どうかこちらを向いて欲しいと懇願する声を無視し続ける。
「閣下……」
どれ程そうしていたであろうか。控え目に呼び掛ける女の声がする。
「まだ駄目だ!! 下がっていろ!!」
「申し訳ありません、閣下。時間です。
宮廷の方々も見物に来られます。そちらの囚人の準備をしなくては」
「宰相! お前だって分かってはいるだろう!!
レティシアは無実だ!!」
人生の年月を刻み付けた表情で、高齢の宰相は、連れてきた護衛達へ公爵を退かせるように指示している。
「レディ・レティシア。公爵閣下はあのように言っているが、事実かね?」
スカートの裾を摘まみ、深々と頭を下げたまま、レティシアは首を振った。本当は口に出して否定した方が良いのは分かっていた。だが、何かを言えば、今まで堪えていたものが、堰を切ったように溢れ出しそうだったのだ。
「顔を上げたまえ」
氷の宰相とも呼ばれる冷たい声に命じられ、躊躇いがちにゆっくりとレティシアは頭を上げた。
「君の勇気に感服する。是非そのまま、気高くあってくれ。それがこの国の正しき貴族としての行いだ」
ひたとレティシアを見つめてそういう宰相の一言で、ウィリアムもレティシアも、この男が全てを知ってここに来ているのだと確信した。
「はい。私は落ちたりとはいえ伯爵令嬢。この国の誇りを汚すような事は致しません」
「これを。レディ。王妃様からだ。
小鳥のような君の声を二度と聞けなくなる事を、嘆き悲しんでおられた」
「畏れ多い事でございます」
「湯浴の準備をさせた。時がない。急いでくれ」
力ずくでウィリアムを連行しながら、宰相はそういうと別れも言わずに塔を降りていった。
引き出されたのは塔から少し歩いた中庭だった。中央には禍々しくも決然とギロチンが据え付けられている。
レティシアに向けられるのは好奇の視線。ヒソヒソと罪状に対する噂話がそこ、ここで話されている。
一段高い舞台に上げられ、最期の言葉を言うように促されたレティシアは、一度中庭を見渡した。王妃様から内々に贈られたガウンは、嫁入りをする時のような純白のもの。それに、同じく白地に黄金で刺繍が入った付け袖を合わせた。
まさか私がこんなに派手な格好で表れるとは誰一人予想していなかったんでしょうね。皆様、お顔が滑稽でしてよ。
正面には国王陛下と王太子殿下。王妃様のお姿は見えない。ガウンと言い、もしかして私を憐れんで下さっているのかしら?
あら、ウィリアム、そんな所にいたのね。両肩を押さえられて、貴方こそ罪人のようよ?
「私は、罪を犯しました。その罪で今から裁かれます。
ですが、どうかお忘れにならないで。
私の心にお住まいになっていたのは、ただ一人。我が純潔に一片の曇りもなく、我が心は今でも一途にその方をお慕いしております」
驚いた様に目を見開くウィリアムの姿が、嘲笑う宮廷人達の間から一瞬見えた。
最期にお顔を拝見できて、私は幸せ者でございます。出来ることなら、貴方様の手を取り、逃げたかった。
レティシアは、穏やかな微笑みを浮かべ、立ち会いの聖職者の前で膝を屈し祈りを捧げると、自らギロチン台へと身を置いた。
一拍置いて、金属が落ちる音が中庭に響く。息を飲む音に続いて、宮廷人達の笑いざわめく声が響いた。
王とその息子はその輪に入ることなく足早に去っていく。
唯一愛した乙女の元に向かおうとする公爵も、国王に呼び止められ、元に帰還するように命じられた。
両脇を兵士に固められ、連行される様に歩く公爵が振り返れば、舞台の上で、レティシアが最期に来ていた純白のガウンの裾が風に靡いていた。