血の潤滑油
「はあぁぁー」
目の前を走り去る終電を目の前に、大げさな溜め息をつく。
まわりからすると随分、わざとらしく芝居がかったそれに見えるのだろうが、もうどうでも良い。
仕事場以外で他人の目をいちいち気にする余裕は今の俺には無いのだ。
それよりどうしたものか…
明日も朝一でスケジュールが入っているというのに…
…
「はあぁぁー」
ネットカフェの個室で深く、本日2回目の溜め息をつく。
失敗だった。
よくよく考えれば俺はソファに座ったまま眠れるようなワイルドな性分でないのだ。だがもう、丑三つ時もとうに過ぎている、何とか休むしかないのだろう。
小汚ない、排水溝にゴチャゴチャとした黒い塊のこびりつくコインシャワーで体を洗う。
夕飯は外で済ませた。
シャワーからあがって、スラックスにTシャツ、そのままソファに腰かけ目を瞑る……寝れる訳がないのだ…
何故こんな環境に甘んじているのか、黄ばんだ天井を見上げながら考える。まだギリギリ転職はできるはずなのだ、だがいつも踏ん切りをつける前に日頃の業務の苛烈さが、そんな考えを押し流す。それに考えたとしても実行に移せる訳がない。あの恐ろしい、平気で怒鳴り散らし手を挙げる、前科持ちのワンマン、もし俺が居なくなったら部下に散々八つ当たりするのは目に見えているからだ。
共に、日々の苛烈な日々を乗り越えてきた可愛い部下達には、無事でいてほしい。
あぁ少しお人好しが過ぎるのだろうか?
「はあぁぁー」
三回目の溜め息をつく。
いつもこうやって同じようなことを反芻して、結局動けていないのだ。
アホらしい。
今回も上を見上げすぎて首が疲れただけだ。
しっかり拭かれていないのかネトつく机に目を落とす…
「?」
汚い机の上に不釣り合いな馬鹿丁寧な字で落書き?いや、広告?
がある。
"労働者のお悩み解決♪
お気軽にお電話下さい。○○○-○○○○-○○○○"
「ははっ」
ふざけたタイミングに渇いた笑いが漏れる。
眠れ無いのだ、冷やかしがてら電話してみようか…
俺は芯から疲れているようだ。
…
ネカフェ内に据え付けられた公衆電話、財布からありったけの10円玉をかき集めて俺は受話器を手に取る。
ブツブツと無機質なプッシュ音を聞きながら、落書きの番号を入力していく…
三回コールが鳴った頃だろうか?
ブツッという音の後唐突に、
やたら興奮ぎみに男が喋りはじめる。
「あぁーはい。お電話ありがとうございます。弱き労働者の立場底上げ、地位向上、身近な貴方の便利屋さん"組織"です。今日はどういったご用件でしょう?」
おいおい、大丈夫か?
「人間関係の都合上、会社を辞められず悩んでいるから何とかして欲しいと思いまして…」
「ははぁ、お客さんそりゃよくあるパターンですねぇ、慣れ親しんだ環境もともすれば、自由を奪う鎖となる…同じようなことで悩んで相談くださる方は大変多いのでありますよぉ~」
「はっ、はぁ…そうなんですか…」
「早速ですお客様、お悩みの内容をどうぞ…」
俺は、"悩み"を具体的な名称を出さないように苦労しながら話した…
「はっはぁ~それは苦労なさってるのですねぇ、お察しします…
まぁ要はその社長さんが"どうにもな"という感じなのですね、わっかりましたぁーご相談承ります。3日ほどお時間頂きますねぇ。」
「ちょっ、ちょっと!承るってどういうことですか?」
「何とかしましょうということです」
「は?できるんですか?今の内容で?」
「はぃ~心配ご無用で御座います。お代は私どもの仕事っぷりに後納得頂けましたら、お客様の現、月収の2割頂けたら結構ですので、勿論、納得頂けないのならばその旨伝えて頂ければお代は結構です~
お悩みが解消されましたら再度、こちらまでお電話下さい。失礼します~」
「はぃ?ちょっ、ちょっと!」
ブッツと電話は切れた。
…
それから3日後、社長が何者かに殺された。
閑静な高級住宅地の自宅近く、刺殺体が見つかったのだ。
いつも持ち歩いていたセカンドバッグが見つからない事から、物取りの犯行だとされたが…俺の心は冷えきっていた…
訃報を朝の集会で聞かされ、珍しく定時で帰れた今日…
俺はあの小汚ないネットカフェ、その公衆電話の前に居た…
ブツブツと無機質なプッシュ音が鳴る…
「あぁーはい。お電話ありがとうございます。弱き労働者の立場底上げ、地位向上、身近な貴方の便利屋さん"組織"です。今日はどういったご用件でしょう?」
「あの…私です…"悩み"の件でお話が…」
「あっ!お世話になりますぅ!その後、いかがでしょうか?」
「たっ、確かに今回のドタバタで人事も様変わりして…色々と都合良くはなってますが…流石にっ!こっ殺しというのは穏やかではないかと…」
「あっはははははは!お客様は大変、慈愛に溢れておいでですなぁ!
いえいえ良いんです、手段に納得頂けないのであればお代は結構です。ご安心下さい!勿論、アフターケアも万全!万一、があっても決してお客様とのご契約は大っぴらに致しません‼
私達スタッフ一同、"優秀"ですから万一も千一も無いとは思いますがね。」
「いえ…お代は…お代は払います…ただ、何でこのような手段を取ったのかなぁと…思いまして…」
「ははぁなるほど、説明に不足がありましたか失礼いたしました。
あの社長さんはですねぇ以前、労働者を一人、過労死させているのですよ…」
「はっ?いやだって?えっ?過労死でしょ?そんな社長に多少なりとも責任はあるでしょうが、そんな…」
「お客様、責任の多少は関係ないのです人が一人、その時も死んだのですよ?今回のように…
今回は警察が犯人捜しに躍起になっていますねぇ…動いているのですよ社会が、人死の責任をしっかり取らせようと確実に…
過労死の時はどうだったでしょうか?誰か責任らしい責任…人死に見合うだけの責任は、誰か取りました?せいぜい世間が騒いで、マスコミが騒いで、社長が頭を深々と下げて、世間がまた騒いで…それで終わりです。誰もそれらしい責任は取ってないですよねぇ?精々、会社の株価が下がった位ですか?役員の報酬が下がった位ですか?人が死んでるのに?
私どもはこの現代においても労働者と雇用主の立場は平等でないと考えているのですよ。労働者の権利?誰かが死ぬ前に行使されましたか?労働基本法、これ法律ですよね?誰かが死んだ時、これを根拠に逮捕者は出ましたか?ね?全然、平等じゃないと思いません?
お金を稼ぐのが大切なことはわかります、でもね私共、人の命のウェイトまでお金稼ぎによって上下する現状に、納得してはいないんですよ。」
「だから、だから殺したんですか?」
「はははははははっ!お客様も人が悪い、勿論、それとお客様のご依頼あってこそです!」
「…」
「お代はこの電話機の上にのせていただければ結構です。都合がよろしい時で良いのですよ?なんせ私ども、労働者の味方ですから。
またどうぞ、機会があれば御用立てくださいまし。」
ブッツと、電話は切れた。
…
"お代"を払った後、俺は仕事を辞めた。
転職活動はできていない、人の命はいつからこんなに軽かったのか、
そんなことばかり考えている。