第三章 賢者の平日 -3-
何故、と和泉真帆は思う。
今日はただいつも通り下校していたはずだった。どこかに寄り道をしたり、買い食いをしたり、そういう親に叱られるようなこともしなかった。
なのにどうして。
今、犬の群れに追いかけ回されなければいけないのか。
「何、なの……っ」
ただ恐ろしかった。ゲームで見るようなゾンビの犬の群れに追いかけられていた。その後ろには、随分距離が開いたとは言え、緑の皮膚のゴブリンのような棍棒を持った亜人が、確かな足取りで自分を追っている。
何かのドッキリの撮影なら、もう早くネタばらしをしてほしい。
そう思うのに、全然そんな気配はない。後ろから迫る、背筋も凍るような冷たい敵意だけがある。
もともと運動なんて得意な方ではないのに、もう十分くらいは全力で走っていただろうか。肺はさっきから裏返ってしまいそうなくらい痛くて、足は今にも絡まりそうだった。
何度も何度も曲がり角を曲がって撒こうとするのに、後ろの気持ちの悪い軍団は迷わずに彼女を追っていた。もう彼女の知らない街に入っている。どう逃げればいいのかすら、彼女自身が分かっていない。
そんな矢先だった。
曲がり角を曲がったはずの彼女の目の前に、灰色の壁が現れた。
「う、そ……っ」
行き止まり。
受け入れがたい現実を前に思考に空白が生じていた彼女の背後で、ぐるる、と獣の唸る声があった。
振り返れば、もう一メートルと言うところまであのおかしな化け物たちは迫っていた。逃げ場はどこにもない――……
*
「ヤバい! もう先に魔族が追いついてる!?」
街を駆け抜けながら、腐臭にも似た魔族の気配を辿っていた俺たちは、見ずともその状況を察知することが出来た。女神様の言っていた事態が、現実のものになりつつあるのだろう。
「すぐに助けに――」
「バカ、待て!」
魔族の群れに飛び込もうとする愛花を、俺は制した。
一瞬、何をするんだと怒鳴りかけた愛花だが、ぐっと言葉を呑んだ。それから、一度顔を整えて小さく頭を下げた。
「……そうね、確かにあの数じゃ、無策に突っ込むのは危険だったかも。何か、魔王の罠かもしれ――」
「そうじゃねぇ!」
「……え?」
「俺が助けに行かないと『無事でしたか、お嬢さん』からの『いえ名乗るほどの者では』でホレてもらう流れが出来ないだろうが!!」
「一瞬でも反省した私の気持ちを返せ!!」
全力で俺を頬にパンチを叩きこみながら(メリケンサック装着済み)、愛花が腹の底から怒鳴りつける。そんなに怒られるようなおかしなことは言っていないのに! 男子として至極当然、当たり前のことを言っただけなのに!!
だが、幸いなことにそれで吹っ飛ばされたことで俺は魔族の群れをかき分けることなく最短で賢者《ロリ巨乳》の元へ辿りつけそうだった。
「待ってろ、いま助けるぜ!!」
*
このままじゃ、殺される。
目の前の化け物たちが何なのかは分からない。だが、その明確なビジョンが和泉真帆の脳裏には浮かんでいた。
倒さなければ、生き残れない。
そう考えた瞬間、どくりと心臓がひときわ大きく脈打った。
今まで感じたことがないほど、熱い血が全身を駆け廻る。
「何これ……」
見れば、掌にはほのかに黄金の光が宿っていた。
普段なら、こんな光は不気味だと思ったかもしれない。あるいは、どこかで蛍光塗料に触れてしまったか、と手洗い場を探しただろうか。
だが今はそんな風には思えなかった。
その光は、とても懐かしく、穏やかな温かさで手を包んでくれていたから。
「そうだ。わたし、この光を知ってる……」
どこで。
そう考えた瞬間、頭が痛んだ。
酷い痛みに一瞬、顔をしかめる。同時、彼女の脳にフラッシュバックするように夥しい量の映像が蘇っていった。
「そうだ。わたしは、勇者の……」
何故、こんなことをすんなり受け入れてしまえるのか。自分の中にある常識が、二種類ある。少なくとも、この世界ではないどこかの常識が、確かに自分の魂に根付いている。
「思い、出した……」
呟き、彼女は手をかざす。
「わたしは賢者。勇者の仲間で、あらゆる魔術を手に入れた……っ」
かつての自分を明確に思い描く。
掌に集まっていた光は光度を増し、次第にものを形作っていく。
何かの直方体――否、本だった。
「聖典・賢者の書――ッ!!」
たった一つの、己が武器の名を紡ぐ。
同時、目の前に現れた本がばっと開かれる。
そのページに触れると同時、魔方陣が空中に光の軌跡として浮かび上がる。
「燃えちゃえ!!」
叫んだ直後だった。
「助けに来たぜ、賢者――うぎゃぁぁああああああ!?」
何故だか普通の人間の断末魔と共に、一帯の魔族はまるっと業火の海に呑まれて消えたのだった。