第三章 賢者の平日 -1-
暗い場所だった。
日の光は、一年を通して一度だって入ることはない。常夜の国。
そんな場所に築かれた城もまた、闇色に塗り潰されていた。
中にあるのは、か細い蝋燭の明かりのみ。揺れるほのかに赤い光が、その城にはむしろ不気味に見えただろう。
そんな中に、彼はいた。
足元には円を基本にした複雑な幾何学模様――魔方陣があった。
その前で古臭い装丁の本を片手にぶつぶつと、一人で呪文を紡ぐ。
「――我を呼ぶのは、貴様か」
その魔方陣の中央から、声が響く。彼はそれを聞いて、歓喜に顔を綻ばせていた。
「えぇ、えぇ。そうですとも。貴方様を呼ぶのは、この私でございます、魔王様」
そう答え、彼は親指の腹を噛み切り、魔方陣に血を垂らす。
上級魔族――それも、最も魔王に近いと称される己の血を触媒として、彼の魂をこちらの世界に引き込もうとしているのだ。
下準備にも何年も費やした。実際に魔術を行使し始めても、更に年月がかかった。取りついていた勇者たちの魂を取り除いても、なおも封印は厳重だった。
今宵、ようやく全てを解除できた。
垂れた血が魔方陣に触れた瞬間、一瞬で赤い霧と化して辺りに立ち込めた。
そして。
びきり、と何かを割るような音があった。
それは次第に増えていき、やがて、グラスを床に叩きつけるような激しい破砕音へと変貌を遂げた。
赤い霧の中央から、二メートルを超す巨躯が姿を見せる。
その前に跪き、彼は言う。
「お久しぶりでございます、魔王様」
「貴様か、神官よ」
「えぇ。勇者どもに封じられた貴方様の魂、僭越ながらこの私が解き放たせていただきました」
「なるほど。あぁ、そうか。あのとき我はしてやられたのか……」
まだ記憶が曖昧らしい魔王は、憎々しげに舌打ちをした。その僅かな怒気ですら、側近を自負する彼――暗黒神官でも気を失いかねないほどの強い炎が秘められていた。
「勇者どもが我にかけた封印を解いた、ということは、勇者たちはどうなっている?」
「はっ。彼らは輪廻転生の輪から外れることで、魔王様を縛ることにそのエネルギーを使用しておりましたから。魔王様を解き放ったことで、勇者たちは再度輪廻の輪に舞い戻っております。既に、転生した後でございます」
「なるほど。魂の話は時間の流れの緩急が曖昧だからな。その口ぶりでは、もう脅威となり得る訳か」
「魔王様に脅威など」
「つまらん世辞はいい。ともかく、同じ轍は踏まん。勇者は何としても始末せねばな。して、勇者たちはもうパーティを揃えているのか?」
「まだ賢者は見つけていないようです」
「ならば、決まりだ」
にやりと、魔王は嗤う。
「勇者より先に賢者に接触し、賢者を屠れ」
「仰せのままに」
さらに恭しく頭を下げる暗黒神官に笑みを向け、魔王は背を翻した。