第一章 クズの勇者(ヒーロー) -1-
拝啓、お父さん、お母さん。元気ですか。俺は現在進行形で走り回っているくらいには元気です。
突然ですが、どうか、先立つ不孝をお許しください。願わくは、俺の私物のパソコンは決して開かず、ハードディスクごとハンマーで粉々に砕いてやって下さい。
俺は、とうとう現実と二次元の境が分からなくなってしまったようです。
今もなお、パソコンのディスプレイの前やゲームを繋いだテレビの前で散々見た光景が、実際のものとして広がっているように見えてしまっている始末です。きっと、もう先は長くないのでしょう。
あれほど超えたいと願っていた二次元の壁を超えた今、それは少し空しい物のように感じます。けれどきっと、世の中の夢と言うのはえてしてそういうものなのかもしれませんね。
ただ、最後に一つだけ不満を言わせて下さい。
「なんでギャルゲーじゃなくてホラー系なんじゃぁぁああああ!!」
そんな訳で。
俺、九澄勇太は、絶賛犬のゾンビの群れに追いかけ回されているのだった!!
「イミワカンナイ! ナニコレ、何かの撮影か!?」
俺が涙目で叫ぶ度、背後の犬が、湿っぽい音を撒き散らしながら吠え返す。唾液なんだか血なんだか腐った何かの汁なんだかは知らないが、どれにしたって気色悪いことこの上ない。
「何で俺を追いかけてんの!? 誰が飼ってんのか知らねぇけど犬の躾はちゃんとしようぜ!!」
何の意味もない愚痴が口を衝いて出る。そもそもゾンビの犬を飼ってるやつがいたらそいつのほうがよっぽど怖い気がする。
人生でこんなに全力疾走をしたことはないというくらい、俺は足を動かしていた。肺には穴が開きそうで、ふくらはぎはねじ切れそうなくらい痛い。それでも、足を止めればすぐに追いつかれるだろう。
いくらゾンビだろうと、犬は犬。あの足の速さは尋常ではない。ここまで距離を保てていることが僥倖だ。
――……待て。
そうだ。ゾンビだろうが、犬は犬である。
つまりは、俺を追いかけて今にも貪り食おうとしているように感じている訳だが、それは俺の勘違いかもしれない。大型犬がただじゃれているのも、傍から見れば襲っているように見えるのと同じ原理だ。
「…………(ちら」
俺が走ったままほんの少し振り返る。
視線の先、五メートル以上十メートル未満くらいを保って、犬のゾンビの群れはいた。
だいたいに十匹か、もう少し多いくらいだろうか。どれもこれもハウンド系の大型犬で、片目がどろんと落ちていて、腹からは腸か胃だかがこぼれている。スプラッター映画も真っ青で、腐臭と血の鉄臭さがここまで漂ってくる。
見れば見るほどたとえ犬でもゾンビはゾンビだった。
「嫌じゃあ!! あんなんにじゃれつかれたらトラウマまっしぐらじゃあ!!」
あんなのにべろべろ舐めまわされるとか、想像しただけで失禁しそうだ。あの腐臭じゃ一生肉が食えなくなる気もする。
「――ッハ!? まさか、これって夢か! そうか、そうに違いない!!」
かれこれ、五分くらいは走っただろうか。パニックに陥っていた頭も僅かではあるが落ち着きを取り戻してくれていた。冷静に考えれば、こんな非現実的なことが起こる訳がない。そう、これは夢オチに――
「あっ」
道端、石を発見。
全速力で回転している足が、とっさには動かない。
ずざざざ――ッ、と。
俺は硬くごつごつしたアスファルトの上で、甲子園もかくやというヘッドスライディングをかます羽目になった。
「イッテェえええええ!?」
手やら肘やら額やら顎やら膝やらからだらだらと血を流すくらいに擦り剥いた俺は、あまりの痛さにその場でのたうちまわる。
そう。
痛かったのだ。
「夢じゃ、ない……?」
掌に滲んだ、砂を吹きつけたみたいな赤い血の粒たちを見て、俺はぞっとした。
それは紛れもなく、俺の血で。
それは紛れもなく、俺の痛みで。
これは紛れもなく、現実だった。
「ぐるるる……っ」
そんな唸り声で、ハッと我に帰る。
もともとほとんど距離がなかったのだ、転んで呑気に掌なんか眺めていたら、こうしてあのゾンビ犬の群れに囲まれるのも自明だった。
「いやー! 来ないでー!」
もはや恥も外聞も知ったことか。
そこらに落ちていたちょっと長い木の枝を振り回して、小学生みたいに泣き喚く。――心なしか、こんな気色の悪い犬っころにまで蔑まれているような気もするが、まぁ、それくらいに情けない姿ではあるのだろう。
「――何じゃ、情けない姿を晒しおって」
そんな中だった。
こんな腐臭漂う犬の群れの中だ。俺の胸の中は、もう吐きそうなぐらい気持ち悪い空気で満たされていたのに。
そんなものを清めてなお余りあるような、澄んだ声がした。
女性の声だろう。それも、ガラスのように透き通ったソプラノボイスだ。いっそ人間に出せるのだろうかと疑問に思うほど、心地よく、美しすぎる声だった。
きっと、神々しい、とはこういうことを言うのだろう。そんな天啓にも似た理解があった。
「な、ナニこの声……っ? とうとう俺、ヤバイ幻覚を見始めちゃってる!? あ、それとも今のこの状況の方がヤバイ幻覚なの!?」
「いいから落ち着け。それより、早う聖剣を呼ばんか」
「せ、聖剣……?」
新手の壺を売るようなタイプの詐欺だろうか。犬に仮装をさせて聖剣を買いなさい、ってか。
「アホなことを考える前に、右手をかざして念じてみよ。お主にはその素質がある」
何を言っているのか、よく分からなかった。
だが、もう俺にはそれにすがるしかなかった。
棒きれを捨て、天を仰いで、雲を掴むように手をかざす。
瞬間。
がぷっ。
「ですよね!!」
脳天からがっつり噛みつかれた俺は、涙を流しながら叫ぶ。そりゃ棒きれを振り回しているからまだ距離を取っていてくれていたのだから、それを止めればこうなるわな。
「ぎゃあ! もう嫌だぁ、なんか変な汁が首筋に伝ってるぅうう!!」
もうあのだらだらと垂れた腐った脳汁なんだか唾液なんだか分からないものが、牙から体内に染み込まないことだけを願う。あんなの下手したら破傷風に一直線だ。
「早く! 聖剣ハリーアップ!!」
「何じゃ、なんぞ、出が悪いが……」
その声の主が首を傾げていそうなことだけはよく分かる。
だが、それでも十分だった。
かざした手に、どこからともなく光の粒子が寄り集まっていく。
それは大気を巻き込み、風を巻き起こす。
あのゾンビ犬たちが、一斉に距離を取っていく。――俺の頭を歯がためみたいにして気に入った奴を除いて。
「だぁ! 痛いんだっつの、この犬っころ!!」
俺の叫びが、もしかしたら最後の引き金だったのかもしれない。
寄り集まった光は、一瞬にして剣の形をなした。
それは黄金の剣だった。長さは一・五メートル、それより少し短いくらいか。鞘まで黄金で作られたそれは、二匹の紅い竜と白い竜を模した細工が施されていた。
圧巻。その一言に尽きた。
跳ね返すべき自然光のほぼ全てを増幅しているかのように光り輝くその剣は、もはやその存在だけで何かの力を秘めているようだった。
――いや。
ようだった、なんてものではない。
その威光だけで、この場にいたあのゾンビ犬の群れが、まるで焼き尽くされたように黒っぽい灰になっていく。断末魔さえ許しはしない。
まるで、全てが夢であったと言うかのように。
「やれやれ。聖剣さえ呼び出せば下級魔族、それも犬のリビングデッド程度に手を焼くことなどあるまい」
そして。
そんな俺の横に、いったいどこから現れたのか、少女がすたっと姿を現した。
あまりにも、美しい少女だった。
あの澄んだ声の主であることは疑いの余地もない。澄み渡った蒼穹のように蒼い髪の、幼い子供だ。身を包むのは何の装飾もない白のワンピースなのに、触れ難い神聖さがある。
「無事のようじゃな、勇太」
「おのれはこれが無事に見えんのか!?」
うっかり見惚れていたことも忘れて、俺は全力でツッコみつつ自分の頭を指した。
噛みついていた犬が消えたことで、俺の頭部はぴゅーっと歯型の形に血を吹き出している。普通に警察に駆けこんだら傷害事件で被害届を出せるレベルだ。
「……今年のトレンドは赤色らしいぞ」
「こんなヴァイオレンスなファッションがあって堪るかぁぁああああ!!」
俺の心の底からの叫びに、現れた少女はバツが悪そうに視線を逸らすのだった。