第十五話 『口約束は破れない』
「よう、起きたか」
「ニ、ノマエ……?えっ、わ、私……!?」
「安心しろ。ここはダスキリアの酒場だ」
「酒場?どうして……」
「説明してやるから落ち着け」
俺たちが酒場に着いてからローラが目を覚ますまでに、そう時間はかからなかった。
ダラス曰く、ローラはただ気を失っていただけで外傷は特に無いらしい。運が良い奴だ。
とはいえいきなりこんなところにいたら驚くのもやむを得まい。一から説明するしかなかった。
…………。
「あの、二人が……」
「意外だろ?」
「そうね。まぁニノマエが助けに来てくれたっていうよりは意外じゃないけど」
「そりゃ、仰る通りで」
かちん、とテーブルのグラスを指で弾く。正解の音だ。
「でもそっか、ダメだったんだ……」
しかし、ローラはそんな音など気にせず俯く。
そりゃ落ち込むか。あれだけ意気込んで無策で失敗だ。俺なら恥ずかしくて死んじゃうね。
俺は追い打ちをかけるように上から言った。
「そうだよ。無理だってことはもう分かったんだろ?今回はたまたまダラスとカイルが引っ掴んで外に連れ出してくれたから良かったものの、いなきゃ死んでた。違うか?」
「……違わない」
ローラは頷く。いや、初めから俯いていたのだから頷くもクソもない。ずっと頷いているようなものだ。
「もうやめとけばいいじゃねぇか。フィーコのことは心配することはねぇよ。お前が無茶をする必要はない。大体、次も誰かに助けてもらうのか?めでてぇ奴だ、周りのめ……」
え?
……俺は今何を言おうとした?
落ち着け。クールになれ。あり得ない。それだけはあってはならないだろ。町外れの教会の牧師か、小学校の先生か、あるいは極悪人の快楽殺人者が口にするというのならともかくとして。
よりにもよってこの俺様の口から『周りの迷惑』などという言葉が飛び出すなど、天地がひっくり返っても、ひっくり返った天地でカボチャが豊作になったとしても、あり得ない。
なんでそんなことを言おうとしたんだ、俺は。
そんなにも。そんなにも、か。
己の信念を曲げた言葉を口にしてでも、ローラを行かせたくないとでも?
あぁ、俺がフィーコを信じるのは勝手だ。誰が誰をどう信じようと、他人に一切口出しされる謂れはない。でも、それを他人に押し付けるなら、その理論はひっくり返ってそのままカウンターされる。It's none of your business……関係ねぇよって話だろう。
なのにどうして、俺は。俺は……まさか。
自分の信じていることを、補強して欲しいとか思っているんじゃないだろうな?
くだらなさ過ぎる。俺とローラが信じていようが、俺だけが信じていようが、何の違いもない。多数決の原理で決まる話じゃない。
そんなことは百も承知だ。でも、どうしても。
俺は……意見を共有したいと思ってしまっていた。
だから、じっと黙って次の台詞を、答えをただ待った。
十秒、二十秒、あるいはもっと。
静かではない。こんなシーンにゃ相応しくない酒場の馬鹿騒ぎをBGMにして。
クソ、うるせぇよバカ共が。聞こえなかったらどうする。空気を読め。
三十秒、四十秒、あるいは一秒。
俺は待った。耳を凝らして、聞き逃さないように。
……だが、その心配は杞憂だった。イヤホンから流れてるんじゃないかってくらい、その声は明瞭に届いたのだから。
「周りに迷惑かけてるって分かった。フィーコにとっても、余計なお世話かもしれない」
相変わらずローラは地面を見つめている。まるで前を向こうともしない。ずっと下を向いていろ……と密かに考えたりもした。
「……それでも、私は助けに行く。手遅れになってからじゃ遅いから」
しかし、下を向いているにもかかわらず、声だけは俺の方を向いているのがハッキリと分かった。
…………そうか。
これでいい。
意見の不一致は日常茶飯事だ。
俺は一人で構わない。
むしろ、一人が一番なんだから。
「そうかい、なら止めねぇよ。お前の自由だ」
俺は話は終わりとばかりにビールを飲み干す。やたらと苦味が鼻につく。ムカつく。何なんだよ、おい。何が俺を苛つかせる?
その答えを持っている奴に心の中で話しかけようとしたが、そいつの顔はとにかく不快そうで嫌気が差した。
相変わらず店内は騒がしい。
だが、混じれない喧騒とは孤独だ。
圧倒的なまでの周囲との隔絶。
押し潰されそうなほどの疎外感。
凍るように世界が冷えていく。
俺は孤独には良し悪しがあると思っている。良い孤独ってのは格好良いものだ。夜の静寂の音を聞くときみたいに、自分が一人であることがプラスに働くもの。
けどこれは違う。悪い孤独だ。
能動的に選んだものではない。ただ押し付けられた虚無。
このままではまずい。得体の知れない不安に締め付けられる。
何かしなくては。
世界から弾かれることに抗議するように、俺は乱暴にグラスをテーブルに叩きつけた。
パリン!!
音を立ててグラスが砕け散る。力を入れた覚えもないのに。いや、どうやら俺は知らぬ間に『身体能力強化』を使ってしまっていたらしい。相も変わらず手加減が出来ない状態の。そうでなければ、小指がテーブルに突き刺さっている現状を説明できない。
流石にガラスが割れた時だけは、酔いどれの阿呆共すら一瞬静まる。誰だって破片を踏みたくはないし、喧嘩や狙撃だとしたら巻き込まれる前に逃げなくてはならない。危機察知能力と逃げ足くらいなくては、ダスキリアじゃ生きていけないから。
誰もが黙ってこっちを見て、誰かが喋り出すのを待っている。空白の時間だ。
しかし、空白でもなんでも、さっきまでの虚無よりはマシだ。
俺は回復した頭を回転させて、何か言葉をひねり出そうとする。
出そうと、した。
その直前だった。
まだ、そこには何の音もなかった時。
「だから、ニノマエは」
グラスが割れたことなどまるで意に介していない女の声がした。
「フィーコを助けに行く私を」
真っ直ぐに下だけを見つめたまま。
――畜生、分かってしまった。
ローラが下を向いているのは、前を向いてないことを意味しない。
下こそが前だ。
地下奥深くにある、『大空洞』こそ彼女の目指す先。
ずっとそこだけを見ていたに過ぎない。簡単なお話だった。俺には到底出来ないくらいに簡単だ。
「――助けて」
そして、ようやく顔を上げたローラが口にしたのはそんな言葉。
目に浮かべていたのは涙ではない。その言葉とは到底似つかわしくない、挑戦的な目つきで。
あぁ、「助けて」だって?
それは、いつかと同じ台詞。
けれど、続くのは違う台詞。
「――くれたら、一回だけ無償で働いてあげる。デート商法でも結婚詐欺でも、何だってやるわよ」
そう言って、不敵に笑った。
まだ酒場は静まっている。
もういいよ。見ないでくれ、こっちを。
呆気にとられたような視線はマスターか。ニヤニヤと煽るような視線はオカマとホモか。訳が分からないという視線や、早くこの場を収めてくれという視線もある。
けれど一番嫌なのは、目の前の女の真摯な目だった。
「は、は」
それは乾ききった笑いか、あるいはただ息が漏れただけの音か。
いずれにせよ、ダサい反応に違いない。
完敗した。完全敗北した。
そのことが顔に出そうになって、俺は咄嗟に下を向く。こんな顔は誰にも見せられないと。
――下を。
――下、を。
無意識にせよ何にせよ、向いてしまえば楽だった。
理由はいくつあってもいい。多いほうがいいくらいだ。
けれどいつだって、大切なのは最初の理由。
『目先の利益』だ。結局は俺もバルも変わらない。そうだろうよ、ダスキリアのクズ共なんて、誰だってそんなもんだ。
利益が欲しい。得をしたい。
そういう相手を動かしたいのなら。
対価を差し出して、何かを求める。
それが最も良い方法論。
少なくとも、俺がそう信じたやり方。
「何でもする?」
「ええ、何だって」
「ふぅん、それは悪くないな」
俺は悔しさを紛らわすように、わざと下卑た視線を作ってローラの身体を見回す。
どこぞの猫耳と違って出るとこの出たいい身体だ。悪くない。
「ま、ユージンはヘタレだし。いやらしいことなんて命令してこないだろうしね」
「おい、俺をあまり舐めるなよ」
「もしそんな命令してきたら、私は軽蔑するけどね」
「だから、俺を舐めるな。俺は女性が嫌がっている方がむしろ興奮する男だ。お前から軽蔑されるくらいなんてことはない」
「最悪……ま、私から軽蔑されるのは良くても、ニノマエは自分から軽蔑されるのは嫌でしょ?」
「……知った風な口を叩いてんじゃねぇよ」
「風な、じゃない。知ってるのよ」
「何を……」
「私は、あなたを、知っている」
その中学生が英文を和訳したかのような台詞は、どこか確信に満ちていて。
すとん、と。どこかにぴったりハマったかのように俺の中に落ちていった。
ダイヤモンドよりも柔らかくて、綿菓子よりも硬い。
名前をつけられない何かが俺の中で……俺達の中で形成される。こんなものは初めて見る。見たことも聞いたこともない。だからその呼び名は分からない。
いや、嘘だ。俺はコレの名前を知っている。コレは、きっと……。
「そして私は、フィーコのことも知っている」
「……あ?」
望んでいない方向へと進んでいた思考を引き戻したのはローラの言葉だった。
「ユージンが知ってるフィーコとは違うかもしれないけど、私だってあの子を知っていて、それが正しいって信じてる」
「人の印象なんてのは、人ごとに変わる。サイコロの全面は同時に見れないのと同じだ」
「そう。だから私の印象よ。私はフィーコには危ういところがあると思ってる。だから助けに行くの」
そこで一度言葉を区切り。
「だから……何でもするから、対価は支払うから……」
どうしようもなく弱々しいはずの台詞を、どうしようもなく強かに。
「助けて」
もう一度、『その言葉』を口にした。
………………。
あぁ、まったくよ。
……上等。上等だ。素晴らしい拍手喝采万歳三唱だ。
おめでとう、君は今ニノマエ・ユージンを買い取った。滅多にあることじゃないぞ。誇っていい。いつか縁側で孫に自慢してくれ。ローラ・クリーム最大の偉業だったってな。
「く、くく……」
顔を上げた。今度はちゃんと、俺らしく作った笑い声を上げながら。
そして俺は軽く髪をかき上げ、百年前から決めていた返事を口にする。
「助けない」
俺の言葉はいつかと同じ明確な拒絶。
しかし、ローラは慌てない。ただ黙って、続く言葉を待っている。続くことを確信している。
俺が、百年前から決めてはいなかった言葉を口にすることを。
「けれど……」
ローラ・クリームという女。出会った頃はどうしようもなくお人好しで、世間知らずのバカだった。
全く何の取り柄もなかったとは言わないが、それを活かせてはいなかったと断言できた。まぁ女なんて、多少バカな方が嫁の貰い手もあるのだから、ある意味あのままでも良かったのかもしれない。
けれど、今はもう変わってしまったのだ。誰の影響か知らないが。
こんな……『誰かさん』のような性格になってしまって、どうするつもりなんだよ、おい。
きっともう、結婚相談所だって登録お断りだろう。こんな結婚詐欺しかしそうにない女なんて。
金髪で、巨乳で、ポワッとした見た目のこの女を誰だって警戒せずにはいられない。ビジュアルの問題ではないからだ。魂が、その在り方が、どこからどう見ても……『盗賊の心得』を体現してしまっている。
すっかり盗賊に染まってしまったローラを、俺も舐めてはかかれない……もう、甘くないんだから。
故に、対等で。イーブンで行こうじゃないか。
「その報酬で、お前に使われてやってもいい。お前に使いこなせるかな?この俺が」
使用関係。雇用関係。利用関係。
俺たちが作り上げるのは、声というインクで空中に認める契約書。
それはいつでも反故になってしまいそうなほど、何の証明力もなくて。
だからこそ、その関係は壊れない。
紙ならば破れても、俺たちの契約書は、見えないのだから破れない。
口約束は破れない。
「ふーん、使い物になればいいけど」
「言ってろ、バーカ」
そして、俺たちは笑いながら拳をぶつけ合う。
それは……いつかどこかで、誰かと誰かが取り決めた、契約成立の証。
「『金の匂いは』」
「『いい匂い』」
そしてたった今、その『誰か』の片割れのために掃き溜めの片隅で結ばれた、契約成立の証だ。
「ニノマエ、出て行くならグラス弁償してけよ」
「黙って行かせてくれよ、今はさぁ!!」




